• Sat. Sep 25th, 2021

皇室が揺れた、プリンセスの結婚延期と「破談」! 「巨額の一時金」と3人のお相手候補の行方は?

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――今回からお話いただくのは、昭和天皇の三女にあたる孝宮和子(たかのみや・かずこ)内親王のご結婚生活ですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。和子内親王の人生は、本当にドラマティックなものでした。そしてこの方ほど、マスコミから注目される結婚生活を経験した皇女は、過去にはいなかったでしょう。ご成婚まで何回もお相手が浮上しては消え、を繰り返していますからね。そしてご結婚後も、本当にいろいろと事件がおありでした。

――ご結婚されるまでに、どんな方が内親王のお相手候補になってきたのですか?

堀江 これがかなり複雑な経緯をたどっているのですね。

 天皇の娘である内親王の嫁ぎ先は皇族であるべき、という昔ながらのルールに基づき、戦後の1946年、16歳になっていた和子内親王の結婚相手として、賀陽宮邦寿(かやのみや・くになが)王のお名前が挙がっています。これが1人目のお相手候補でした。

 しかし、和子内親王の母宮である香淳皇后が結婚に反対を表明なさいました。香淳皇后には、賀陽宮家の家風にお気に召さない点があったこと。そして、結婚するのに16歳はあまりにも早いのではないかという声もありました。

――しかし、お相手の名前が世に出てしまった後で婚約を取りやめるのは、困難も多いのでは?

堀江 このときも、今回の眞子さまの件同様、「結婚延期」とまずは表明されました。すぐに縁談が潰れることはなかったんです。これにも注目したいですね。結婚延期が、破談希望の婉曲表現として使われているからです。

――眞子さまと小室さんの「結婚延期」にも、そういう意味が込められていたのでしょうか?

堀江 恐らく……。話が脱線しますが、日本国憲法には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」という文言があります。現代の眞子さまと小室さんのケースでも、結婚を考える当人たちの意思が反映されていなくてはならず、秋篠宮さまも「結婚を延期させる」以上の実力行使はできない、というご事情はあるかと思われます。

 和子内親王の結婚延期中には、昭和天皇も、「(旧)皇族に皇女が嫁ぐ」というルール自体が、血縁の近さなどが理由で問題という態度を明確に示され、和子内親王と賀陽宮家との縁談は解消されました。これ以降、皇女の結婚相手は、必ずしも皇族に限らないでもよいということになります。

――昭和天皇のそうした意向が、ルール変更の背景にあったんですね。

堀江 しかし、天皇家と血縁的に、そして生活文化的にも近い皇族の男性とは異なる、それ以外の家庭の男性との結婚ともなれば、皇女がたにもそれなりの覚悟というか、準備が必要なのではないか……ということを、木下道雄侍従次長(当時)が進言しています。

 こうして天皇家の未婚の3人の内親王がたは、ご両親である両陛下からの自立を促す目的で、皇居内にあった「呉竹寮(くれたけりょう)」と呼ばれる建物内で共同生活を送ることになりました。すでに長女である成子内親王は東久邇宮家に嫁いでいるので、和子内親王が、妹お二人を監督なさったようです。

――呉竹寮ってはじめて聞きました。寮という名の通り、自活が基本だったんですか?

堀江 建物が老朽化し、すでに取り壊されてしまっていますから、現代ではあまり知られていないのも当然かもしれませんね。50年(昭和25年)2月号の「改造」という雑誌によると、毎週土曜日が母宮である香淳皇后の公式訪問日でした。それ以外でも、たとえば金曜日が母娘そろって同じ先生にピアノを習う日だったので、平均で週3回ほどは呉竹寮内で母娘は面会しておられますね。

 それでも主には姉妹だけでの生活であり、家事も共同で行いました。炊事は3人の内親王でこなし、献立も姉妹会議で決定。50年時点ですでに内親王がたが家計はすべてご自分でやりくりし、家計簿もお付けになっていたとのこと。

――へー! かなり具体的に嫁入り修行をなさっていたのに驚きです。

堀江 そうなんですよ。その中でも、一番お姉さまにあたる和子内親王がリーダーシップを発揮していたのであろうと想像されます。

 というのも、48年(昭和23年)、学習院の専修科を卒業なさった和子内親王が嫁入りする前に、「一主婦としての教育をさせてやりたい」というご意思を昭和天皇が強く打ち出され、その結果、和子内親王は天皇の元侍従長だった百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)という方のご家庭に約1年間、“ホームステイ”なさることが決まりました。

 百武さんは戦争時の空襲で幡ヶ谷にあった自宅が全焼していたので、神奈川県藤沢の片瀬海岸の別荘で当時暮らしていました。しかし、和子内親王の“ホームステイ”先に選ばれたとなると、片瀬から、皇居のそばの紀尾井町にあった宮内庁官舎に引っ越してきたそうです(笑)。

――なかなか大変だったのですね……。

堀江 両陛下が公務の合間に、和子内親王のご様子をお訪ねになる場面も百武さんの念頭にはあったのだと思います。実際に、皇后様の電撃訪問はあり、そういう時にはミツマメを作ってなんとかしのいだそうです。ちなみに家事修行に励む和子内親王の姿を「女中奉公」と呼ぶ人もいたようですね(『改造』、1950年2月号)。

――女中奉公! それにしても急なお客様のおもてなしに、ミツマメですか(笑)。確かに主婦力は磨かれそうです。

堀江 和子内親王はそのようにして、「掃除、洗濯、料理から買い物まで主婦の心得を学び(岸田英夫著『侍従長の昭和史』、朝日新聞出版)」、百武さんのご家族と共に、『鐘の鳴る丘』などのラジオドラマを聞いて楽しみました。2020年前期のNHK朝ドラ『エール』で主人公の古山裕一(作曲家・古関裕而がモデル)が、ハモンド・オルガンを生放送内でBGMとして演奏していた姿を思い出す人もいるかもしれません。まさに、あの放送を和子内親王も聞いていた、と。

――ちなみに和子内親王には、次のお相手候補はいなかったのですか?

堀江 内親王の“ホームステイ”が終わるころでしょうか、49年(昭和24年)には読売新聞上に、和子内親王と京都の東本願寺の大谷光紹(おおたに・こうしょう)さんとの縁談が内定したという記事が載ります。しかし、これは後に「誤報」として取り消されることになりました。和子内親王が「すぐに取り消して」と強い意思を示されたそうです。

 大谷家は乗り気だったそうですし、新聞に記事が出たという時点で、かなりのところまで話は詰められていたことは想像できるのですが、和子内親王が最終的に大谷さんとの結婚をお望みにならなかったそう。これが2人目のお相手候補でした。

――うーん、それは複雑な事情がありそうですね。

堀江 結局、その翌年、和子内親王のご結婚相手は公家の中でも最高の家格を誇る「五摂家」のひとつ、鷹司家の御曹司である平通(としみち)さんで決定しました。そして、50年(昭和25年)1月下旬には世間に情報公開もなされました。

 しかし、鷹司平通さんは当時、交通博物館にお勤めで、メガネにスーツの“普通”のサラリーマン。そのお住まいは千駄ヶ谷の一軒家ですが、「カキ根も門もない」、「車一台やっと通れる路地の突き当り」に位置する“小さな家”で、「モルタル塗り二階家」だったそうです。59年(昭和34年)の「週刊読売」(読売新聞社)4月5日号の記事に詳しく書かれていますね。

――旧華族とはいえ、当時はすでに民間人であり、サラリーマンをしている方のお住まいをかなり詳細に記してしまっていますね(笑)。

堀江 皇族の結婚相手にプライバシーはないというか、そういう報道形式がこの頃すでに確立しているのは興味深いですよね。現在の小室さんが次々と過去を暴かれているのと同じ空気を感じなくもないですが……。
 
 ちなみに、和子内親王の結婚に際し、「皇室経済法」で支給された一時金は489万5千円でした。7人家族の東久邇家に支給された総額が675万円ですから、和子内親王が天皇の皇女であること、そしてインフレが起きていた時期とはいえ、現在の貨幣価値に換算すると、なかなかの巨額といえるでしょう。

――次回に続きます!