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自社の不正を暴く“高卒女子”の活躍を描いた韓国映画『サムジンカンパニー1995』、より深く理解する4つのポイント

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『サムジンカンパニー1995』

 1987年6月の民主化闘争によって大統領の直接選挙を勝ち取った韓国では、93年、長かった軍事政権も終焉を迎え、待ちに待った民間による政権「金泳三(キム・ヨンサム)文民政府」が誕生した。抑圧的・閉鎖的な軍事政権との差別化を図るため、大統領は「新韓国の建設」をスローガンとして打ち出し、新しく生まれ変わった民主国家として、世界を先導する韓国像の形成に力を注いでいった。

 30年にわたって続いてきた軍事政権の残滓を清算すべく、韓国社会にはさまざまな変化の風が吹くようになった。たとえばそれまでの「大統領閣下」という呼称は「閣下」が独裁の名残で権威主義的だとして使用禁止とされ、通行禁止だった大統領官邸前のバリケードを撤去して国民に開放した。このような目に見える変化とともに、かつて横行していた政財界の「黒い金」を断ち切るため、政府高官の財産を公開するなど、文民政府の透明性を大々的にアピールしたのである。

 対外的にも大きな変化が起こっていた時期だった。世界的な貿易の自由化を目指して「ウルグアイ・ラウンド(関税・貿易に関する多国間交渉、そこからWTOの設立につながった)」が妥結し、企業の海外進出も活発化していた。韓国政府も貿易市場を全面開放すると同時に、世界レベルで闘えるグローバルな韓国を目指して「世界化」を声高く宣言、95年をその元年とし「世界化推進委員会」も立ち上げた。

 実際、96年には「先進国仲間入りの目安」でもあった一人あたりの国民総所得が1万ドルを突破するなど、先進国の一員として世界に名を連ねる「新韓国」は早くも実現しつつあったのである。こうして、国民を狭い国内に閉じ込めてきた軍事独裁は完全に終わりを告げ、これからは自由に世界に羽ばたくのだと国民の誰もが実感していたのだが、まさかその1年後には悪夢のようなIMF危機に襲われるとは、この時は知る由もなかった。

 こうして、文民政府の旗揚げからわずか3年の間に、韓国社会は目まぐるしい変化を遂げたわけだが、中でも最も目立っていたのが「英語フィーバー」である。海外進出のために、言葉の壁は当然クリアしなければならない問題であることを考えればごく自然な現象かもしれないが、当時の韓国において英語は、コミュニケーションの言語的道具であることを超えて、いつしか個人の能力を規定するためのバロメーターとしてその存在感を高めていったのである。

 このような社会的変化を背景に作られたのが、現在公開中の映画『サムジンカンパニー1995』(イ・ジョンピル監督、2020)である。今回のコラムでは、映画に描かれていたキーワードと共に、社会的に大きな変化を遂げたこの時代を振り返ってみよう。

<物語>

 1995年、金泳三大統領の「世界化」宣言によってソウルの街には英語塾が急増、社会は英語ブーム一色になっていた。大企業のサムジン電子は、社内にTOEICクラスを設け、高卒の女性社員でも600点を超えたら「代理」(日本でいう係長)に昇進できるチャンスを与えると告知する。入社8年目を迎える高卒組のイ・ジャヨン(コ・アソン)、チョン・ユナ(イ・ソム)、シム・ボラム(パク・ヘス)は、実務能力は優秀だが、掃除やお茶くみなどの雑用ばかりさせられる毎日にへきえきし、昇進の希望を胸にTOEICクラスを受講する毎日だ。

 そんなある日、雑用のため工場に出向いたジャヨンは、工場から有害物質が川に流出しているのを偶然目撃してしまう。ユナ、ボラムと共に会社の隠蔽工作を明らかにしようと奮闘する。解雇の危機にさらされながらも決してあきらめない彼女らは、やがて会社の巨大な陰謀を知ることになるのだが……。

 俳優としても活躍するイ・ジョンピル監督(『アジョシ』では刑事役で出演している)はインタビューで、「この作品は、真面目で平凡な末端の女性社員たちが大企業の不正に立ち向かってファイトする物語」だが、「ファイトだけでは終わらせず、勝利するまでを描いたスカッとする映画」であると述べている。その通り、本作は有害物質の流出という実話をモチーフにはしているが、実話の真実味には重点を置いておらず、やや非現実的な物語を通して、今の韓国に通じる問題を提示して見つめ直すことを目指しているように見える。

 「懐かしさを感じると同時に今を考えさせられる」「社会的に示唆するところが多い」といった韓国でのレビューからも、そのような意図が感じ取れるだろう。そしてコロナ禍での公開にもかかわらず観客動員150万人以上の大ヒットとなり、韓国有数の映画賞である第57回百想(ペクサン)芸術大賞の作品賞を受賞した。

 それでは、映画に描かれたこの時代の社会や変化について、4つのキーワードから解説していこう。

 生まれ変わった民主国家・韓国のグローバル化と、それゆえの英語フィーバーについては先述の通りだが、その決定打となったのが、韓国トップの財閥企業である「サムスン」が「入社試験にTOEICを導入する」と発表したことだった。もちろんそれ以前もどの会社にも英語の入社試験はあったが、あくまで文法と読解を中心とした学校の英語教育の延長であり、実用性は完全に無視されていた。ところが韓国の若者なら誰もが憧れる大企業のサムスンが、当時実用英語の代名詞であったTOEICを電撃的に導入、このことが韓国の就職活動に大変革をもたらしたのである。

 ほとんどの会社がサムスンに追随したのは言うまでもない。街には雨後のたけのこのように英語専門塾が増殖し、本作のように社内にTOEICクラスを設けて人事に反映する会社も現れた。大学の風景もガラリと変わった。キャンパスのあちこちで「TOEIC特別講座」が開講され、就活生たちは専攻を後回し、「独裁打倒」や「ヤンキーゴーホーム」といったデモ運動はどこへやら、机にかじりついて必死で英語を勉強した。兵役中に詩人の夢をあきらめ、再び社会に戻って来た私も、大学4年だった95年には必死にTOEIC塾や特別講座に通っていたのをよく覚えている。

 600点以上の成績がなければ志願すらできない会社も多く、英語が人生を決めてしまうといっても過言ではなかった。英語熱は子どもたちにも波及し、ネイティブに近い発音ができるというウワサにあおられて、我が子の「舌のつなぎ目」を切る手術が流行する事態にまで発展した。このような、英語力を基準に個人の能力を判断するという流れは今も健在であり、高卒であるために最初から昇進の道が閉ざされたジャヨンたちがTOEICに夢を託す姿は、今でも十分に共感を呼ぶ。本作の原題が『삼진그룹 영어토익반(サムジングループ英語TOEIC班)』であることからも、映画での高卒女性社員たちの活躍ぶりが、英語学習と強く結びついているとわかるだろう。

 日本でも有機水銀の流出による「水俣病」やカドミウムによる「イタイイタイ病」などの公害が知られているが、韓国では91年、韓国屈指の財閥のひとつ、斗山(ドゥサン)グループの子会社、斗山電子が有害物質である「フェノール」をこっそり川に排出し、近くの大邱(テグ)水域の水道水貯水タンクに流入、水道水からの悪臭に気づいた市民によって事件が発覚した。斗山電子は当初、フェノールの数値を改ざんし、専門家まで動員して無害を主張したが、市民団体の調査によってがんの誘発や、最悪の場合は死に至るほどのおびただしい量のフェノールが含まれていることが判明したのである。改ざんに加担した職員らは逮捕され、斗山グループの会長は被害者への補償はもちろん、再発防止のための設備強化を約束して辞任、この事件をきっかけに環境犯罪厳罰化の特別法が成立して、全国の水源を持つ主要な河川を監視する環境管理委員会も組織された。

 映画では舞台となる95年の出来事になっているが、実際には91年に起こった事件であり、また映画ではジャヨンら社員の闘いに置き換えられているが、実際には市民や市民団体が結束して政府や大企業に立ち向かったという違いはある。しかし、数値の改ざんや会社側の隠蔽工作などの描写も含めて、確かに実際の出来事に基づいて描かれている。だがこの事件はそれ以上に、目先の結果だけを追求していればよかった軍事政権時代の「開発独裁」はもう通用しないと、政府、企業、そして国民も気づき始めたこと、そして市民が自分たちで暮らしを守るために個人の連帯が重要であると証明した点において、大きな意味を持っていた。だからこそ多少年代が違えども、この映画にとって不可欠な要素として取り入れたのだろう。

グローバル化を予見させる、企業買収・合併のM&A

 フェノール排出事件に続き、後半の核としてモチーフになる会社の買収・合併についても一言付け加えておきたい。本作で描かれるのは、買収の標的にした会社の株を大量に取得し、支配権を握って牛耳ろうという、いわば外国資本による「敵対的M&A」だが、歴史的には韓国で外国資本によるM&Aが認められたのは、97年からであった。つまり、本作の舞台となっている95年時点では外国資本によるM&Aはまだ認められていないため、現実的に考えると、劇中の「社長」の企みは成立し得ないことになる。だが、フェノール排出事件とともに、90年代を象徴する社会的変化として映画の重要なモチーフ的に付け加えられたであろうことを認識しておきたい。

 ジェンダー平等や男性中心社会からの脱却がこれまで以上に重要になっている現在、映画を見て最も気になるのが、ジャヨンら高卒女性社員たちの立場ではないだろうか。私がやっとの思いで就職を果たした96年にも、会社には高卒の女性社員が大勢いて、同期の大卒女性が私服なのに対して、なぜか彼女たちだけが制服を着ていた。つまり、社内では高卒かどうかが一目でわかるようになっており、掃除やお茶くみ、部長の机の花瓶に毎朝新しい花を挿しておくのが仕事だった彼女たちに、ほかの社員も平気で用を言いつけられる仕組みだったのだ。そんな彼女たちの多くは、就職のための「女商」(ヨサン)と呼ばれる高校の出身者だった。

 韓国では経済的な事情、あるいは「娘」という理由だけで、優秀であるにもかかわらず「女商」に進学せざるを得なかった女性が多かった。『82年生まれ、キム・ジヨン』『はちどり』など、これまでにコラムで取り上げた作品でも描かれていたように、男尊女卑の強い韓国では、学業において女性が男性の犠牲になることが少なくない。だが、それ以上に問題なのは、高卒であるという理由だけで彼女たちを下に見て雑用を押し付け、それを当然と考えてきた男性中心社会の現実だろう(同時に、女性同士でも大卒か高卒かでヒエラルキーを作ろうとする上下関係を重視する社会の根深さも描かれている)。さらに、彼女たちの仕事内容から、入社時に実力よりも容貌を重視する会社も多く、「女商」では勉強よりもダイエットや整形手術が盛んだと社会問題にもなった。

 だからこそ本作は、多少非現実的に映ったとしても、社会のヒエラルキーの中で不可視な存在となっていた彼女たちを主人公に置き、彼女たちの連帯が権威的な力に立ち向かって勝利するという構図が必要だったのだろう。めげずに大きな力に立ち向かい、TOEICのテストにもクリアして「高卒」のレッテルから解放されて出世街道を意気揚々と突き進む彼女たちの姿は、社会におけるジェンダーと学歴の不均衡の根本的解決を示してはいないが、それでも努力や勇気で変化を起こせるというメッセージは一定の有効性を持つものといえるだろう。

 韓国は、80年代に軍事独裁という巨大な敵を倒した後、90年代の闘いは、民主化への歩みとともに個人の暮らしの向上が運動の目的となっていった。その中で大学の学費引き上げ阻止や障害者の就職差別撤廃が盛んになり、人権や環境問題を訴える市民団体も急激に増えていった。こうした運動は、非正規・外国人労働者や難民保護の問題など、さらに細分化して現在に至っており、さまざまな面から「権力」を監視する社会的装置として機能している。韓国で今も毎日のようにデモや集会が開かれているという事実は、それだけ社会に問題が多いという意味でもあるが、市民が自らの手で生活を向上させ権利を勝ち取ることを信じて実践している、社会の健全さの証しでもある。本作もまたそのような文脈の中で捉えることが可能ではないだろうか。

 95年は、三豊(サンプン)百貨店の建物が崩壊し、多くの人が犠牲になる大惨事が起きた年であることも忘れてはならない。『はちどり』で描かれた94年の聖水(ソンス)大橋の崩落に続いて、軍事独裁時代の不正や腐敗が原因の手抜き工事の結果が、最悪な形で表れてしまったのだ。本作は、観客をスカッとさせてくれるお仕事コメディではあるが、こうした歴史的事実も踏まえると、「新韓国」が真に乗り越えなければならないもの、そしていまだ乗り越えられていないものに想いをはせざるを得ない、深い余韻をもたらす作品なのである。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。