“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
井波千明さん(仮名・56)の母親は仲の良かった夫の死後、夫が浮気しているという幻覚に苦しめられた。両親は隣県で暮らしていたが、父親にガンが見つかり、両親は井波さん宅に滞在して治療に通った。治療終了後いったん実家に戻ったが、母親は肺の病気が悪化したため、母親だけ井波さんと同じマンションの上階で暮らすこととなった。寂しがる母親のために、父親は実家とマンションを行き来していた。
▼前回▼
父ちゃんに何があっても、悔やまんでいいよ
しばらく実家で過ごしていた父親が、久しぶりに母親が暮らすマンションにやって来た。ある日の夕方、父親は珍しく井波さんに「痰切りがほしい」と薬を求めた。
「金曜だったので、私は『じゃあ週明けに病院に行こうね』と言って、私は自宅に戻りました。その夜中、母の様子を見に行ったんですが、母の額に手を当てて『なんともないな』と思って、また戻りました。ところがその後、午前3時くらいに母から電話がかかってきたんです。『父ちゃんの様子がおかしい』って。すぐに行ったんですが、父は私に微笑みかけてくれるものの、しゃべることはできません。なぜ母の様子を見に行ったときに、父の様子も確認しなかったのか……悔やんでも悔やみきれません」
父親はすぐに病院に運ばれて、肺炎と診断された。しゃべれるようになった父親は、優しく「もう安全地に来たから大丈夫」とにっこり笑ったという。担当医からは、「軽い肺炎だから心配ないだろう」と言われたので、駆け付けて来ていた弟も家に戻った。
しかし、その夜中「急変した」と連絡が来た。
「それから半年、父は亡くなるまで意識が戻ることはありませんでした。寝たきりで胃ろうをしたり、透析をしたり……私はただ父が痛いとか、つらいとか感じてないことだけを祈りました」
井波さんが何より後悔をしたのは、「痰切りがほしい」と言った父親の言葉を気に留めなかったことだった。
しかし、井波さんを救ってくれたのもまた、父親の言葉だった。
「父がこうなる少し前、私にしみじみ話してくれたことがあります。『じいちゃんが亡くなったとき、父ちゃんは、じいちゃんから『調子が悪い』と言われたけど、仕事があったから『ちょっと我慢してて』と言って、すぐに病院に連れていかなかった。もし父ちゃんに何があっても、まったく悔やまんでいいよ』と。父は優しいから、余計にじいちゃんの死を苦しんだんでしょう。そんな話を聞いていながら、なぜあのとき痰切りを用意しなかったのか、自分にあきれます。でもこれで苦しんだら、父の思いに反する……と、いいように解釈して、苦しみから逃れているんです」
子煩悩だった父親は、子どもたちにおいしいものを食べさせるのが好きだった――と、井波さんは父親との記憶を手繰り寄せるように、「不思議なことがあるんです」と話し出した。
「父は食べるものに困る時代に育ったせいか、私や弟においしいものをたくさん食べさせてくれました。旅行や着るものにはまったく興味がなかったようで大した思い出はありませんが、エビやカニや新鮮なお刺身などごちそうの思い出はたくさんあります」
父親が亡くなって、まだ四十九日も済んでいないころ、井波さんは最寄りのバス停でバスを待っていた。
「そこに、知らないおじさんが自転車で通りかかって、『近くの浜で獲った』と、荷物カゴの中にあるワタリガニを見せてくれたんです」
それは季節ごとに父親が食べさせてくれていたカニだった。
「『うちの父が好きなカニです』とつぶやいたら、『これをやるから、お父さんに食べさせてくれ』と言って、カニをくれたんです」
井波さんはあっけにとられながらもそのカニを受け取り、茹でたカニを父親の仏前に供えた。
「そのあと、皆でありがたくいただきました。父は亡くなってからも、私たちにカニを食べさせてくれようとしたのかなと思っています」
なのに――と井波さんは悔やむ。
「父は私たちにおいしいものを食べさせようと必死だったのに、私は父の食事制限の方に必死でした。親を長生きさせるために必死になるより、親が一瞬でも幸せに生きられるよう必死になればよかった。父の好きなものを思う存分食べさせてあげればよかった」
父親には糖尿病と循環器系の病があり、カロリーと塩分が制限されていた。塩辛いものが大好きだったのに、「梅干しはダメ」と怒って禁止していた。
「そういうときに、『オレは梅干しを食べ過ぎないよう、見て味わって、匂いを嗅いで味わって、最後に食べて味わって、1個で3回味わってるんだ』と言っていたのが忘れられません。長生きしてほしいなんて欲張らずに、のんびり一緒にお茶を飲んでいるだけでよかったのに……」
――続きは8月1日後悔