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『ひばりの朝』が描く、容姿や装いから一方的に「性的ジャッジ」を下す歪な社会

ByAdmin

Jul 23, 2021

 社会から、とりわけ男性から「女性」に対して向けられる非対称的なまなざしの存在に気がついたのは、いったいいつのことだっただろう。私は、自分のアセクシュアルというセクシュアリティや、高校時代を女子校で過ごしたこと、子どもの頃からずっと同姓の芸能人ばかりを眩しく見つめて追いかけてきたことなどもあって、長年「男性からのまなざし」や「男性から好かれること」にあまり関心がなく、そういった価値観から距離を置いて生きてきた。だから、そのまなざしの存在にはっきりと気がつくまで、人より少し時間がかかったようにも思う。

 しかし、大人になり、フェミニズムと出会って学びを深めていく中で、たとえばそれまで無邪気に好きで応援していた女優や女性アイドルたちには、疑いようもなく「男性の(性的な)まなざし」が向けられ、それを意識して外見(装いや髪型やメイク)やイメージが作られ提供されてきたことを実感し、複雑な思いを抱くようになった。

 それと同時に、痴漢やレイプなどの様々な性被害やルッキズムは、女性を一方的に性的に消費することをよしとする価値観が社会にはびこることによって引き起こされているのだと気づくようになり、その非対称性や歪さを理解するようにもなった。

 そんな、社会の中にある「女性」の身体や容姿を性的に消費しようとするまなざしや価値観の存在を、思わず目を背けたくなるほど生々しく突きつけ考えさせてくれるのが、『ひばりの朝』(著:ヤマシタトモコ 祥伝社)という漫画だ。

『ひばりの朝1』(著:ヤマシタトモコ 祥伝社)
 『ひばりの朝』の主人公・手島日波里は、14歳の中学生の女の子だ。小柄で、色白で、胸が大きく、制服のスカートから覗く白く肉感的な脚に、上目遣いの潤んだ目、ぷっくりとした唇といった、いわゆる「女を感じさせる」容姿や雰囲気を持っている。

 それゆえに、ひばりは小学生の頃から変質者や痴漢の被害にあったり、クラスメイトの男子からは「エロい」と性的なまなざしを向けられ、女子からは「男子に色目つかっててキモい」と疎まれたりして、心を許せる友人もいない。

 クラスで「父親から性的いたずらを受けている」という噂が立った時(実際に彼女はそのことで悩んでいるのだが)も、「自意識過剰」「自分から誘ったんじゃないの?」とひどい言葉が投げかけられ、男性教師からも「あんな外見だから噂が全部嘘とは思えない」「ああいう子は自分のそういう部分をわかって女を利用している」などと言われてしまい、誰も彼女を心配しない。

 一番子どもを近くで見て理解しているはずの母親からも「あいつは私に似てオンナだから、女に嫌われたり性的な被害にあったりしても仕方がない」「でも男に優しくしてもらうやり方は知っているはずだから心配はしていない」と思われている。実の父親から、夜寝ている間に部屋で身体をじっと見られたり、入浴している間ずっと洗面所に居られたり、といった性的ないやがらせを受けていることを誰にもまともに相談できず、ひとり恐怖を感じながら日々を過ごしている。

 しかし、クラスの担任である辻先生が気づいているように、実際のひばりは、あくまで肉体の見た目が性的に成熟しているように「見える」だけで、まだ性的な経験も欲望もなければ、女を武器にしようなどという考えもない、内面はいたって普通で未熟な、年相応の子どもなのだ。

 ”手島日波里は クラスメイトらの囁く噂のような子どもでは ない
 大人の期待する淫らさを持ち合わせてもいない
 見た目こそ妙に大人びて特異ではあるが
 凡庸で 人並みに愚かで 人よりは少し臆病で まだ性の何たるかを知らない
 それは そと見でなく 彼女を見れば 誰にでもわかる 簡単に
 わかる のに なぜ誰も 母親まで なぜ”
 (『ひばりの朝①』talk.6 より)

 それなのに、クラスメイトたちも周りの大人たちも、誰も本当の彼女を見ようとしない。彼女の持つ肉体や容姿に、どこか臆病で自信なさげな目つきや言動に、「エロい」「男に色目をつかっている」「女を武器にしている」と勝手に性的な意味を見出し、付与し、そして一方的に消費しようとしたり、疎ましく思ったり、非難したりする。

 さらに、ひばりが性的な被害にあったり、そういう噂が立ったりしても、「ああいう容姿だから仕方ない」と、まるでそれは彼女自身に、「そんな」見た目を持つ彼女の方に原因があるかのように扱われる。

 これまで、私はフェミニズムや#MeTooムーブメントなどに触れていく中で、「セカンドレイプ(二次加害)」という概念や状況を何度も目にしてきた。セカンドレイプとは、主に“性暴力の被害に遭ってしまった人に対して、被害の責任が被害者にもあるかのような発言をしたり、被害の大きさを矮小化する発言をしたりすることで、被害者をさらに追い詰めてしまうこと”を指す。(パレットーク「性被害の責任は誰のもの? - セカンドレイプの加害者にならないために知っておいてほしいこと」より )

 ひばりがクラスメイトや周りの大人たちから受けた扱いは、まさにこの「セカンドレイプ」にあたる。彼女が父親の行動を怖いと感じていることをクラスメイトの美知花に打ち明けると、翌日にはそのことがクラスの中で勝手に広められて噂になり、「自意識過剰」「自分から誘ったんじゃないの」「あんな見た目だから、噂がすべて嘘とも思えない」と、その被害を矮小化し、彼女に非があるかのような言葉が投げかけられる。

 学校にも家にも居場所のないひばりが、束の間の逃避場所として放課後に度々家を訪れていた親戚の完も、“いつも大切なことを見逃している” ひどく鈍感で無神経な男であるために、ひばりが父親から性的いやがらせを受けているかもしれないと知っても、「実の父親がそんなことをするわけがない」「まだ中学生だから物事の判断がつかず、過剰に捉えてしまっているだけ」と、真剣に取り合おうともしない。

 それどころか、ひばりは父親と口喧嘩をして、つい口が滑ってそんなことを言ってしまったのだろうと勝手に思い込み、父親がいる目の前で“ぱっと謝っちゃえよ”などと、どこまでも明るく無神経に、何も悪くないひばりに謝らせようとさえする。

 その時、それまでずっと納得できないながらも、家や学校や外で受けてきた扱いの原因は自分にあるのかもしれないと思わされてきたひばりは、ついに“あたしがわるいんじゃないッ”と、強い怒りとともにはっきりと自覚することになる。悪いのは、「そういう」見た目をしている自分ではなく、勝手に「そういう」まなざしでこちらを見てくる、自分の見たいようにしかひばりのことを見ようとしない、周りの人々の方であるのだと。

 女性が性的な被害に遭った時、多くの場合、被害者の女性にも何らかの落ち度や原因があったのではないか、と思われてしまいがちだ。「夜遅い時間に出歩いていたから」「露出の多い服装をしていたから」「モテそうな容姿をしているから」「お酒を飲んでいたから」、だから被害にあったのではないか、と。

 一見その言葉は正しいように思えるかもしれない。でも冷静になって考えてみると、たとえ被害に遭った人がどんな時間にどんな服装でどんな行動をしていてどんな容姿であったとしても、悪いのはあくまで加害者であり、被害者がもつそのいずれの要素も決して加害していい理由にはならないはずだ。

 そもそも、人は他人の装いや容姿から、自分の都合良く勝手に意味を読み取り、解釈することをしすぎているのではないかと、常々感じることがある。たとえば、女性が大胆な透け感のある服や、脚や腕、胸元を露出するような服を着ていると「男性にアピールしている」とか「性的なことに積極的である」と思われたり、淡い色に小花柄、レースやシフォン素材の甘いテイストの洋服を身につけていると「モテを意識している」と思われたりすることも多い。

 実際に、自分の身体の魅力を異性にアピールしたい、男性にモテたいと思ってそういうファッションをしている女性もいるだろうし、それは少しも悪いことじゃない。(もちろんだからといって、それが「性暴力を許容するサイン」には絶対にならない)でも当然のことながら、必ずしもすべての女性が「異性のまなざし」を意識し、そのために着る服を選んでいるわけではない。多くの女性は、他の誰のためでもなく「自分のため」に服を選んでいるのだ。

 透け感の強いシースルーの服は、純粋にデザインが美しくて好きだから着ているのかもしれないし、脚や腕を露出した服を着るのは単純に暑いから、あるいは自分の脚や腕が気に入っていて、その美しさを引き立てたいと思っているからかもしれない。デコルテが開いた服を着るのは、その方が自分の体型に合っていてより美しく見えるからかもしれないし、肩周りがすっきりしていて着心地が楽だからという理由かもしれない。ガーリーなファッションを身に纏うのは、異性へのモテとはまったく関係なく、ただ純粋にそのテイストが好きだからかもしれない。

 それなのに、本人が好きで着ている服から他者が勝手に「エロさ」を見出し、性的に消費してもいいと考えたり、異性に媚びるためにその服を選んでいると解釈されるなど望まないジャッジや扱いを受けてしまうのは、どうにも理不尽ではないだろうか。ましてやそれが服装ではなく、生まれもった体型や顔立ちによるものであればなおさらだ。

 20世紀のファッションのスタイルや価値観に大きな影響と革新をもたらしてきた、ファッションデザイナーのイヴ・サンローランが1968年に発表した、バストが大胆に透けたシースルーのドレスやトップスは、当時大きな物議を醸したという。しかし、イヴ・サンローランは他人からどう見られるかではなく、何を纏い、何を美しいと思い、自分の身体のどの部分を見せどの部分を見せないかは、洋服を纏う女性自身が自由に主体的に決めるべきだ、という考えを持ってシースルーの洋服を作ったというエピソードを以前どこかで耳にし、とても素晴らしいと思った。

 ファッションや容姿に関して、「他者からの評価」や「他者からのまなざし」を完全に排除することは難しいし、必ずしもそれを全否定することも全肯定することもできない。けれどもひばりを取り巻く人々が、ひばりの容姿から勝手に性的な意味や性質を見出してレッテルを貼り、一方的に「そういう存在」として扱うことで彼女を苦しめていたように、その人の本当の意思や性質とは違うものを容姿や外見から一方的に読み取って判断してしまう危険性や暴力性をもっていることに、誰もがもっと自覚的でいなければならないし、そうしないように注意深くいる必要があるのではないだろうか。

 老若男女問わず、誰もが自分の好きなもの・着たいと思うものを主体的に纏うことが当たり前に肯定・尊重され、装いや外見の持つイメージと実際の本人の性質や意思は、切り離して考えられることがスタンダードになっていってほしい、と切に願う。

 この物語の中で、結局ひばりは、友人にも教師にも、家族や知人にも、ほとんど誰にも頼ることも助けを求めることもできないまま(というよりも、そうしても仕方がないと諦めて)、“息を止めて目をつむる”ことで中学・高校時代をやり過ごし、ただひたすらに“夜明け”が来るのを、じっと耐え忍んで待っている。

 まだ中学生の、本来ならば守られるべき存在であるはずのひばりに、周りの大人たちは誰も手を差し伸べない。彼ら・彼女らはひばりが直面している問題に対して、うろたえたり心を痛めたりしつつも傍観しているか、仕方がないことであり自業自得だと思っているか、むしろ積極的に消費し加害しようとしているか、あるいは自分の見たいものしか見ようとしないせいで、彼女が問題を抱えていることにすら気づかず無神経に傷つけるか、そのいずれかでしかない。

 でも登場人物のうちの何人かは、少なくとも自分や周囲からひばりに向けられるまなざしの歪みや違和感に次第に気がついたように、この物語の読者である私たちは、自分の見たいものしか見ようとしない、暴力的なまなざしの存在とその不当さに、明確に気づくきっかけを与えられる。

 こうしてそのきっかけを与えられたからには、まずは自分の胸に手を当て、「私は誰かを一方的なまなざしや価値観で判断し、不当に扱っていないだろうか」と常に真摯に考えるようにしていきたい。そしてできることならば、ひばりのようにそのまなざしに苦しめられている人に寄り添い、共に抗い、“夜明け”に向かって一緒に進んでいくことのできる人でありたい、と思う。

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