10歳より芸能活動を開始し、電線愛好家・文筆家・俳優とさまざまな分野で活躍されている石山蓮華さん。
今年6月、石山さんの初となるエッセイ集『犬もどき読書日記』が晶文社より刊行されました。社会生活の中で出会う違和感や、若い女性としてまなざされることへの苛立ちといった経験と思考が、丁寧な筆致で綴られています。
「この本は絶対にエモくしたくなかった」と話す石山さん。若い女性がエッセイを書く際に求められがちな「さらけ出し」文脈や、書き手のキャラクター化問題といかに向き合うか。エモさが評価軸に置かれがちな「note文体」の正体とは何なのか……。刊行直後の石山さんに、「書くこと」をめぐる逡巡について話を伺いました。
石山蓮華
電線愛好家・文筆家・俳優。電線愛好家としてテレビ番組や、ラジオ、 イベントなどに出演するほか、日本電線工業会「電線の日」 スペシャルコンテンツ監修、オリジナルDVD『電線礼讃』 プロデュース・出演を務める。主な出演に映画『 思い出のマーニー』、短編映画『 私たちの過ごした8年間は何だったんだろうね』(主演)、舞台『 五反田怪団』、『遠野物語- 奇ッ怪 其ノ参-』、劇団ノーミーツ『それでも笑えれば』、NTV「 ZIP!」など。「Rolling Stone Japan」「月刊電設資材」「電気新聞」「ウェブ平凡」 に連載、雑誌「母の友」「週刊朝日」、ウェブ「She is」などに寄稿。今作が初の著書。
「お尻を出した子一等賞」はやりたくなかった
——『犬もどき読書日記』の刊行、おめでとうございます。web連載の書籍化とのことで、書き下ろしも多く収録されていましたが、本にするにあたって再度検討をされた部分などありましたか?
けっこう……直しましたね。昔からいわゆる「芸能人ブログ」みたいなものはやっていたんですけど、連載の初期はエッセイとの距離感がよく分かっていなくて。ブログがファンの人や知り合いに向けて書くのに対して、エッセイは自分に全然興味がない人に、そこにある文章だけで話をしないといけない。あとは、一文に載る情報の層も厚い方がいいな、「パイの実64層!!」みたいな文章にしたいなと思ったので。読み返してみて気になるところは、細かい言い回しを含めてすごく直しました。分量もワーッと足したり。
——言葉選びがとても丁寧なご本だなと感じました。ご自身の書いた文章と向き合う過程は、大変ではなかったですか?
難しかったです……。文章を読み書きする上で自分がどれだけ誠実でいられるか、あるいは自分にとっての誠実さとは何なのかって突き詰めていくの、すっごい大変じゃないですか?
エッセイだと身近な人について書く場面も多くて。仕事相手の「女子力」発言にモヤッとした経験を書いたり、友人との別れを物語にしてしまったり。どれも自分の中では書かずにはいられない話だったんですけど、「これを読んだら、あの人はどう思うかな、ショックを受けるかな」と考えたりもしました。
——書く側が書かれる対象に対して力を持ってしまえるのって、ある意味すごく怖い。
書き手の権力性ってありますよね。あとは、自分自身のことをどれくらい書くかとかも悩みました。「できるだけ嘘はつかない方がいいな」とは感じるんですけど、「嘘をつかないこと」と「全てを書いてしまうこと」って、近いようでやっぱり違う。自分の中で線を引いておいた方がいいなと思って。あけすけに出せば出すほど喜ばれるみたいな風潮ってあるじゃないですか。
——とくに若い女性がエッセイを書くときに求められがちですよね。
ああいう「お尻を出した子一等賞」的な価値観に乗っかりたくなる感じは、自分の中にもあるんですよ。でもそうやって、ダメな部分をさらけ出して、自分をギリギリまで切ったり削ったりする様子を読者に見せるのはやりたくなかった。切実な覚悟や生々しさを伴う文章にハッとすることはあるけれど、私はなんか……そういうのを書くタイプではないなって。
——書き手として「さらけ出し」文脈には乗らない、と。
たぶんそのやり方だと、私が好きな本を読んで感じるような、「あ、正直な言葉があるな、読んでよかったな」って気持ちとか、心の底からホッとするっていう体験を読者に渡せないような気がして。
ただ、「家賃4万円が払えたり払えなかったり」あたりの話はすごくあけすけには書いたと思います。それは「ダメさをさらけ出す」というよりは、近くの人にそっと伝える感じ。自分と似たような立場の人に向けて、「これぐらいお金がない時期があっても死なない人はいるんだよ」っていうのをそっと言いたかった。
——そこはすごく、伝えたい相手に伝えようとされている文章だったなと思いました。
ありがとうございます。もともと私は「感情に任せて真っ直ぐに勢いよく書く」っていうのがすごく好きな方で、実際、連載時にそうやってワーッと書いたものが人から褒められもしたし、それはそれで良かったと思うんですけど……。「そのキラキラした勢いと感情に任せて見えなくなるものって、たくさんあるんじゃない?」って考えてしまって。
——本を作る中で減速するというか、踏みとどまって精査をする過程があったわけですね。
「勢いのある文章の方がよかった」っていう人もいるかもしれないけど、自分の意識がどれぐらいはっきりして、どれくらい納得しているかの度合いって、「どう読まれるか」にも関係している気がするんです。
意識が薄いときの文章って、こう、読み手側が文章の中にある任意の点だけをピックアップして、そこから自分の読みたいように像を結んでいく……みたいな読み方をされやすくないですか? それがまたSNSとかで拡散されて、書き手のキャラクターがふんわり作り上げられていって、書き手の側もなんとなくそのキャラクターに近づいてしまって……みたいな。個人的な文章がより大きなイメージや力関係にのみ込まれると、あっという間に消化されて、書き手自身も別のものに変わってしまうというか……。だから、私は自分の文章を手放さないために色々と直したのだと思います。
「エモ文化圏」「note文脈」から逃れたい
——「書き手のキャラクター化問題」ってありますよね。
読者の感想って、書き手のサービス精神にもどんどん響いてくるところがあるので。私はそれを「ちょっともったいないな」と思っちゃうんですよね。キャラを大きなフックにしちゃうと、そのキャラや属性についての文章を読みたい人は喜んでくれるだろうけど、その書き手個人の文章である必然性がなくなりがちというか。せっかく自分の名前で考えていることが書けるのに、それってもったいないなって。自分の実像に近いものをあまり膨らませず、でも削りすぎず書いた方が私も安心するっていうのもあるんですけど。
——でもそういう、書き手の属性と感情を消費するタイプのテキストが「エモい文章」として評価されがちで。
「エモ文化圏」みたいなの、ありますよね……。私はその概念にすごく疑いを持っていて、この本は絶対エモくしたくないと思ったんです。「エモから逃れてえ〜」って(笑)。
——「エモい」っていう言葉をみんな使うけど、「じゃあ”エモい”ってどういうこと?」って考えると、意外と答えが出てこないというか。
私は「エモは落差」だと考えていて。エモい文章って、たとえば「心身の状態や環境がつらい」とかの、言ってしまえばこう、一段階落とした状態から「こんな教訓を得た!」って上がる、みたいな構造があるじゃないですか。その落差の大きさから「エモさ」と呼ばれるものが生まれるのでは? って。ただやっぱりその中に、本当はもっと精査されなきゃいけないものがあるはずで、でもキラキラした文体とかデザインの感じとかに紛れて見落とされることがすごく多いなって思います。
——「エモは落差」!
そういう消費のあり方に対して「分かった気になるなよ」という気持ちにもなりつつ、でもそれにすがらないと日々を暮らせないって人も多いんだろうなとも思います。キラキラに触れているだけで心が安らぐというか。私自身も「エモい」と言われる作品に触れて「なるほど!」とか「はっとした」ような感覚になることもあるので。ただ、それだけがメインストリームになってしまうと、文章の大事さみたいなものが薄くなってしまう気がするんですよね。
……でも、私自身「エモは嫌だ」と言いつつ、自分の文章にエモ文体と紙一重なところがあるかもしれないとは常に思っていて。自分が生活の中で「書きたいこと」と出会ったときに、「じゃあこの出来事をどうやって書けば、すでにあるnote的な文体から逃れられるんだろう」って、いつも考えてしまう。
——「note文体」も、正体が微妙にはっきりしない。あれはなんなんですかね。
私も掴みきれていないんですよね。なんだろう、「気づき」までが早いんですかね? 「設定された気づき」というか、その存在はテレビ番組でレポーターをやっていたときにも感じていたんですけど。テーマとして決められた「気づき」を得るために人から話を聞いて、欲しい言葉がきたら「へえ〜、気づいた!」って感動してみせる、みたいな。それと同種の、あらかじめ構成されているものに向かって生活を切り貼りしている感じがインスタントに見えているのかもしれない。
——たしかに! ゴールが先にあって、出来事が素材的なんですよね。かつ、テーマに対して疑いがない。
そうなんですよね。テーマ設定とオチを最初に決めちゃうのは結構怖いと思う。そのテーマに対する自分の価値観や偏見を疑わずにいると、もうそこに至るまでの道筋が、素材で余白を埋めるだけの作業になってしまうというか。書き始めてから「いや、本当はこうじゃない?」って思ったときに、路線変更しづらくなるのかもしれないなって。だから私としては、できるだけ「考えている線」が文章になっているといいなと思います。
「どこでも犬でいられるか」と言われたら、まだまだいられない
——本の中に書かれている「犬もどき」の生き方が、すごくいいなぁと思いました。同時に、100パーセントそうではいられない悔しさ、やるせなさも入り混じっている気がして切なくもなって。
ありがとうございます。あれはなんというか、「女性」であるとか「会社員」であるとかの力関係から逃れるために、自分自身を「犬なんだ」って思うと楽になるっていう話でもあって。
やっぱり「犬だったら」っていうのは、実際に私が犬であるわけではないんですよね。あくまでも自分の中の理想で、今すぐに手の届くものではない。半分くらいは届いているかもしれないけど、「どこでも犬でいられるか」と言われたらまだまだ全然いられないし、一生人間の、女性のまま生きるんだろうなと思います。だけどその中でもどうにか工夫したい気持ちがあって、それが「犬もどき」の生き方なんだろうなって。
——「犬にも人にも頭と脚がある」「いつか出ていきたくなったら自分は家を出ていくこともできるのだ」という文章も印象的だったのですが、それも肯定でありつつ、完全な自由や幸福とイコールになる形では書かれていないですよね。
ないですねぇ。現実の犬って家を出ちゃうと危険がいっぱいなので。ただその結果がどうあれ、自分で家を出られる手足がある、選択権がある、っていうことが私にはとってすごい希望で。
私自身、芸能事務所に所属して、爪の色や髪の長さを自分で選べなかった時期をずっと過ごしてきたので。犬も家を出て行くし、自分も実は会社を辞められるものだった。そういうふうに、たくさんあるくびきから自分の意思で逃れることもできるし、逃れないこともできるし、その首輪の色を変える自由があるかもしれないしって。
——個人的には、“選べる”のは当然の権利としてあって、そこから先の幸福も不自由なく追求できる状態が一番だけど……という気持ちも抱きました。でもそれが難しい現状もあるだろうな、とも。
そうですね……。私がもうちょっと勉強していたり経験があったり、何らかの覚悟が決まっていたりしたら、その先までもっと自信を持って書けた可能性はあるかもしれない。
それが今の自分だと「選択権が前よりも自分に戻ってきた、その地点にやっと来られた」っていうところまでが精一杯で。私自身はここまで来られたことを本当によかったと思っているので、とりあえず文章に一行ずつ拇印を押せるくらいには書けたと思うんですけど。
この先については、できるだけ自分で言いたいことも言いたいけど……長い目でやっていくしかない。とりあえず「死なないことを続ける」くらいの気持ちでやっていきたいです。
——「死なないことを続ける」。
やっぱり、そのためには支えになるものが必要で。『犬もどき読書日記』の中にも書評のようなものを書きましたけど、やっぱり色々な本が傍らにあると、そのときどきで自分を強くしてくれたり、気持ちの焚き火みたいにわぁって燃やしてくれたりするんですよね。私を強くするために本があるのではないし、本に対して燃やすってイメージを使うのは間違っているような気もするんですけど……結果として支えになってくれている。
だから自分の本も、心の火をもっと強くするような、その人を温めてくれるようなものになったらいいなって思います。
——本当になっていると思います。ありがとうございました!
『犬もどき読書日記』(晶文社)