「どうしてこうなってしまったんだろう」
日々の生活や人生の中で、そう思う瞬間はたくさんある。朝余裕を持って起きたはずなのに、気づけば遅刻ギリギリの時間になって駅まで走ったり、レシピ通りに作ったはずの料理がどうにも不味そうな代物になってしまったり、昔は毎日のようにずっと一緒にいて、何でも話せるし何でも分かり合えるように思っていた友人と、気づけばなんとなく疎遠になってしまったり。
そんな「どうしてこうなってしまったんだろう」という状況や出来事には、大抵何かしら理由や原因があるものだ。それは、時間を逆算せずに、つい朝から読みかけの本を読むことに没頭してしまったからかもしれないし、手際や段取りが悪くて食材に火を入れすぎてしまったからかもしれないし、日々身を置く環境や触れるものや生活が変化したことで、互いの価値観が合わなくなってしまったからかもしれない。もしそれが仕事に関することであれば、多くの場合、人は現状抱えている問題の原因を突き止め、改善し、同じことを繰り返さないよう求められるだろう。
それらとまったく同じように、多くの問題を抱えるこの社会の在り方についても、「どうしてこうなってしまったんだろう」とその原因や成り立ちについて考え、改善していくことはとても重要なのではないかと、ここ数年で強く思うようになった。
このブックレビューコラムの連載第一回目で紹介した『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』でも、著者のベル・フックスは口を酸っぱくして何度もこう言葉にしていた。フェミニズム運動の敵は「男性」ではなく「性差別」が構造化してすみずみまで行き渡った、家父長主義的な社会のことであり、性別や年齢に関係なくあらゆる人が持ちうる、性差別的な意識や言動のことである。だから、ただ男性を敵視し糾弾するのではなく、どのようにして男性は性差別的な言動を取るようになってしまうのか、ということを紐解き考えていかなければ、問題の根本的な解決には至らない、と。
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では、どうしてこの社会に生きる男性たちは、「そう」なってしまうのか。
その問いに、当事者である男性の立場から研究し、社会における「男性性」の成り立ちや在り方を丁寧に紐解き理解する手がかりを与えてくれるのが、『さよなら、男社会』(著:尹雄大 亜紀書房)という本だ。
『さよなら、男社会』(著:尹雄大 亜紀書房)
インタビュアーやライターとして活躍する50代男性である著者は、ある日新幹線の車内で見ず知らずの年上の男性から、突然失礼な態度や振る舞いをされたことに強い怒りと違和感を覚える。その出来事を出発点として、この社会における「男性性」とはどのようなものであるのか、さらには自分自身やこの社会に生きる男性たちが、いつどのようにして「男性性」を身につけていったのかということを、幼少期から現在に至るまでの大小様々な日々の体験を丁寧に紐解くことによって明らかにしようと試みるのが、この本の主な内容だ。
著者が紐解き分析する「男性性」や「男社会」の成り立ち・実態を見ていくと、それらによって女性たちが苦しめられてきたのはもちろんのこと、実は男性たち自身も、そこから利益を得てきただけでなく、自ら自分たちの首を絞め、苦しく辛い生き方を強いてきた部分もあるのではないか、と思わずにはいられなかった。
著者の説明によれば、社会の中で男性たちが築き上げてきた関係性の在り方は、“年齢や社会的地位に基づいて優劣を決め、序列の下位の弱者を軽んじてマウントをとり、それを相手が受け入れる”といった性質のものであり、“支配者と被支配者という上下関係”である。(p.17) 男たちは、社会の中で権力や利益を手にしそれを保持し続けるためにこのような関係性やシステムを築き、そのメンバーに「男らしい」振る舞いや態度を求める。そして、そのシステムに参加し評価されなければ“負け”であり、弱者として生きていかなければならなくなると仄めかす。
男社会の中で評価され認められるためには、常に上を目指して挑戦し続ける克己心や、所属する組織のやり方や考えに従順に従い、多少無理をしてでも上から命じられたことをやり遂げる、肉体的・精神的な強さや忍耐力が必要とされる。命じられたことに対して「できない」と言ったり弱音を吐いたりすることは、許されない「弱さ」であり、努力や根性が足りないとみなされる。見上げるか見下げるか、支配するかされるかの関係性しか築くことができないため、互いに助け合い、手を取り合って連帯することができない。
客観的に見て、こんな関係性や価値観の中で生きていかなければならないのは、あまりにも辛く苦しいのではないだろうか。実際、ここ数年で女性たちが社会の中のさまざまな違和感の正体に気づき、性差別的な扱いの改善を求めて声を上げる姿が多く見られるようになる中で、しばしば男性たちのこんな言葉も目にするようになった。「女だけじゃなく、男だっていろいろ大変なんだ!」
そもそもこのシステムに参加する資格を男性だけに与え、常に自分たちを権力を持てる側、支配する側に置き、女性たちを従属的で下位な存在として不当に扱ってきたことを考えると、「何を都合の良いことを言っているんだ」と怒りたくなる気持ちもある。これまでの自分たちの言動や無自覚に得てきた特権について、まずは一度立ち止まってじっくり考えてみてほしい、とも思う。しかしその一方で、女性だけでなく、男性も社会から理不尽に「男性性」を押し付けられ苦しめられてきた面があることも、また事実ではないだろうか。
男性が「男だって辛いんだ!」と思うこと自体は、決して間違いではない。しかしそう思うのならば、非難し敵対すべきは女性やフェミニズムではなく、男にも辛い生き方や価値観を強いてきた、家父長主義的な「男社会」であるはずだ。そうだとしたら、むしろ女性やフェミニズムは、連帯して共に闘うべき仲間にすらなりうるだろう。
ただし、そんな社会を理不尽と思い、「男だって辛いんだ!」と声を上げるのならば、これまで男であることで得てきた利益や権力、許されてきた言動、無自覚なままでいられたさまざまな性別に基づく差別や不平等の問題に、目を背けたままでいるのは許されない。
その一方で、男社会の価値観や性質をさらに深く見ていくと、そのシステムが抱えるのは単に性差別の問題だけではないことがわかってくる。男社会は、人々から「自分で思考し感じる力」を奪い、より権力者にとって都合のいい環境を生み出していくのだ。
“男たちの間では従属の拒否は「決断できない怯懦さ」に変換されてしまう。みんながやっていることに従わないのは、重大な罪になる。なぜなら男社会のルールにおいては、「みんなと違う態度をとる」ことは権力を保持するシステムに亀裂を走らせるからだ。極めて個人的な決断は「みんな」という群れを動揺させる。なんであれ「みんなから逸脱しない」という、脆弱な意志を頑なに持つことで権力を維持できると知っている男たちからすれば、「みんな」からの承認を得ることに安心を見出さない異分子は排除されるべきなのだ。男が真っ当な男になるためには、服属を忘れてはならない” (p.56-57)
“絶えず秩序に対してイエスと言い続け、従うことを疑いもせずに生きていると、やがては心を開くことが何かわからなくなる。イエスと言い難い事柄についても飲み込み続けるとしたら、自分の身体感覚を無視するほかないからだ。そうなれば自分の気持ちを感じることもおろそかになってしまう。「権力ある人が言うのだから」とか「理屈では間違っていないのだから」と言いくるめてしまう。感覚的に「おかしい」と捉えた、最初の直感に基づく判断を信じられなくなる。” (p.71)
男社会というシステムに参加しそこで評価されることを目指して生きていこうとすると、そこでは常に組織や自分よりも強い立場や権力を持つ人の考えや命令に従うことが求められる。仮に上のやり方に違和感を感じたとしても、異議を唱えることが許されないのであれば、次第に自分で感じたり思考したりすることをしなくなり、いつしかその力自体も弱まってしまう。さらに、“権力を保持するシステムに亀裂を走らせ”ないために内部からの批判を阻むことは、客観性や自己批判性を失うことになり、結果的にその組織(とその組織を構成するメンバー)の劣化も招くのではないだろうか。
実際、私には、「男社会」が行くところまで行った成れの果てが、まさしく今の日本の政府であり社会であるように思えてならないのだ。
新型コロナウイルスの感染拡大とその長期化によって多くの国民の命や生活が脅かされていても、権力者である「政府」によって一番に優先されるのは、権力を持つ人たち(それは富と権力を持った政治家や大企業)の利権を守り維持することになってしまっている。
だから、崩壊寸前である医療現場の状況や国民の反対の声を無視して強行的にオリンピックを開催するし、その結果さらに感染者が爆発的に増えても、それを“ワクチンも打たずに”(予約が取れず打てない人が大勢いる)“外を出歩いている”(在宅勤務が出来ない人も多い)若者のせいにし、十分な補償や対策も提案しないまま、国民にさらなる「自粛」を要求し、感染者には事実上の放置とも言える「自宅療養」を言い渡す。
そんな状況になっても、政府や都は自らの対策の不十分さを絶対に認めず、オリンピックの開催も頑なに中止しない。ましてや国民の批判の目をそらし、次回の選挙で勝利して政権与党であり続けるために、オリンピックを利用することさえする。
そこには、国民を守り、この国を良くしていこうというような理想や矜持はまったく感じられず、ただ権力を失わないことだけに執着し、責任も負わず、適切な判断もできないような、なりふり構わぬ愚かさばかりが目立つように思う。
このまま「男社会」の在り方やルールを容認し温存していったら、もはや性差別の問題にとどまらず、権力者(政府)が権力や利益を維持し続けるために、支配される側である国民はいいように利用され、搾取され、切り捨てられるようになっていってしまうのではないだろうか。現に今、私たちは命や生活の危機に晒され続けているのだから。
これ以上「男社会」から犠牲にされる被害者を増やさないためにも、権力者たちにこれ以上身勝手な振る舞いをさせないためにも、まずは「男社会」という、社会の中に構造化された価値観や仕組みについて知り、そして感じ、考え、判断することのできる力を自らの手に取り戻す必要があるのではないだろうか。
今ある社会の構造や価値観を変えていく、というのは、あまりにも途方もないことに思えてしまう。しかし、著者が大人になるまでの間に、どのようにして自分が「男性」であると気づき、男性らしさを身につけていったかという過程を見ていくとわかるように、「男性性(男らしさ)」や「女性性(女らしさ)」というものは、人が元来生まれ持った性質でもなければ、何か大きくて決定的な出来事や体験があったというわけでもない。
むしろ日々の生活の中で日常的に触れる、親や教師や友人やメディアから発せられる何気ない言動の積み重ねの中で、知らず知らずのうちに影響を受け、身につけ、それが当たり前のものであると思い込むようになってしまうものなのだ。
だから、多くの人にとって苦しく有害である「男社会」から脱却していくためには、男性たちだけでなく女性たちもまた、自分の子どもや身の回りで接する子どもたちに、「男らしい / 女らしい」言動や考え方をするよう促してしまっていないか、他人に対して、無意識のうちに「男らしさ / 女らしさ」を求めてしまっていないかを今一度振り返り、これ以上「男社会」の構造や価値観を強化することに加担してしまわないよう、注意していかなければならない。
一つ一つの言葉や体験の積み重ねがその人の価値観となり、そんな価値観を持った一人一人の集合体が社会であるからこそ、社会を変えていくには、一人一人の意識や価値観を地道に変えていく必要がある。まずは自分自身が気づき、意識を変え、よりよい方向へと向かう着実な一歩を踏み出していくためのきっかけとして、ぜひこの本を読むことをおすすめしたい。
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