皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
――前回は昭和天皇の弟君、三笠宮崇仁親王の第2女・容子(まさこ)さまの結婚騒動についてうかがいました。今回からしばらくは、昭和天皇の娘、皇女についてお聞きしたいです。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 昭和天皇には5人の皇女がおられました。夭逝なさった久宮祐子内親王以外の4人の内親王が成人し、そして結婚もなさったということですね。というわけで、トップバッターは“長女”の照宮成子(てるのみや・しげこ)内親王です。
まだ戦前の1943年、成子内親王は、東久邇宮盛厚(ひがしくにのみや・もりひろ)王と結婚なさいました。お相手は「天皇の娘(内親王)は、皇族の男性に嫁ぐ」という古くからのルールに従い、宮内省(当時の宮内庁)内で慎重に人選がされたことがわかっています。ちなみに成子さまのご結婚について、世間一般ではとくにニュースにはならなかったようですよ。
――今だったら大ニュースになりますよね。報道が規制されていたということでしょうか?
堀江 それもあるでしょうが、結婚相手はあくまで皇族男性の中から選ばれるということで、「意外なあの方に決定!」というようなニュース性が乏しかったのでしょう。
しかし、戦後すぐ、東久邇宮家は「臣籍降下」の対象となり、自活の道を探らねばならなくなります。
東久邇盛厚さんは、戦前は軍人で、陸軍士官学校を卒業なさっているのですが、戦後、旧皇族は「公職追放」の対象でしたし、日本軍は敗戦と共に解体されましたから軍人を続けることは不可能なのです。それで東大を受験なさるわけですが、不合格。
――皇族でいられないどころか軍人にもなれず、大学生にもなれない……。そんな苦境が?
堀江 戦前なら無条件合格だったともいわれましたが、皇族の男性は特に理由がない限りは軍人になることが定められていましたからね……。ちなみに1922年(大正11年)以前は、学習院高等科を卒業した男子生徒は、帝国大学に無試験入学が可能でした。「各地の帝国大学に欠員があれば」という条件付きでしたが。
――学習院OBにはそんな恩恵もあったんですね。いいなぁ~。
堀江 不合格後も東久邇さんの学業への意思は変わらずで、3年間を東大経済学部の聴講生として過ごし、後には日本銀行に就職します。しかし、石炭化学に関心を募らせ、銀行は退職していますね。
59年(昭和34年)年4月5日号の「週刊読売」(読売新聞社)には「”プリンセス妻” 天皇家の四人娘とその夫たち」という記事が掲載されました。この中で、東久邇さんは「北海道炭礦汽船」という会社に転職、社長室に社長秘書として勤務していることが書かれています。「(社長の)欧米視察旅行にも(近日中に)同行することになっている」とのこと。
――10何年前まで、皇族だった人を部下として雇い、秘書になってもらうなんて、なんだか落ち着かないかも。
堀江 逆に雇う側のほうが緊張しそうですよね(笑)。このように、旧皇族の中でもっとも社会的に成功した一人とされる東久邇さんですが、この記事が書かれた時にはすでに港区麻布永坂町という「都内でも最高級の住宅地」にお屋敷を構えておられました。
ご近所には大女優の高峰秀子氏や、東洋レーヨン(現・東レ)会長、ブリヂストン社長などの邸宅が立ち並んでいたとのこと。
戦後、落ちぶれてしまった旧皇族・華族たちが多かった中で、こうした地位を確立なさったのは、とても立派なことです。しかし、東久邇さんの妻として、成子さんは「経済問題」、つまりお金のことで何度もケンカをしたと言っていますね。
――港区の高級住宅地でのセレブライフなのに、お金の問題があった?
堀江 昭和天皇の娘として成子さんは御所で育ち、結婚するまでご自分でお金をやりくりした経験がまったくなかったそうです。成子さんいわく「私は勘定がわからないものですから、そんなに使ったとも思わないうちに、いつのまにか予算がなくなってしまい、主人(=東久邇さん)は私が浪費するといってしかるのです」とか。
――典型的なお金持ちのお嬢さんらしい発言です。
堀江 ただ、別の見方もありますね。東久邇さんが会社にお勤めを始める前、東大の聴講生だったころなどは当然ながら家計は厳しかったそうなのです。
49年(昭和24年)夏には、雑誌『暮しの手帖』(暮しの手帖社)に、NHK朝ドラ『とと姉ちゃん』のヒロインのモデルになった大橋鎭子から依頼され、「やりくりの記」というエッセイを寄稿。少しでも安い商店の特売に通い、内職もして、家計を回していたと成子さんは発言していますね。
――ええっ。本当にそこまでギリギリの生活をなさっていたのでしょうか……?
堀江 うーん、これにもいろんな見方があるのですが。
たとえば現在の女性皇族の方が結婚なさる時に支給される「一時金」。現在ではだいたい1億円以上の金額が用意されることが多いようです。一時金は皇族の身分を離れる方に「生活の品位を保つ」目的で支給されるお金で、単純な生活資金というより、ガードマンを永続的に雇っていくお金だったり、そういう安全保障に使われるものだと説明されることもありますね。
――眞子さまと小室圭さんについても、その「一時金」が世間の関心を買っていますね。成子さんの時代は支給されなかったのですか?
堀江 一時金がらみでは、面白いお話があるのです。戦前の皇族は、庶民の家計の何百倍もの豊かな生活を送るのが普通でした。この連載での梨本宮伊都子妃の回でも触れたように、莫大な「皇族費」が支給され、経済的な特権がかなり与えられていましたから。
ただ、戦後になると、それらの特権のすべてが消え去ってしまいます。さらに戦後には重い財産税が課され、困窮する皇族も多かったのです。そんな中でさらに「臣籍降下」が行われ、東久邇宮家も皇族の身分を奪われることになりました。
しかし、ピンチはチャンスとはよくいったもので、この「臣籍降下」によって、旧皇族となった家には家族数に見合った「一時金」が与えられており、その額がなかなかすごいのですね。
――結婚以外にも、一時金が与えられるケースがあるのですね!
堀江 そうなんですよ。47年に成立した「皇室経済法」をもとに、東久邇家の7人には当時のお金で675万円が与えられました。企業物価指数(日本銀行本店ホームページ)の数字をもとにすると、戦後すぐの1万円は、現在の貨幣価値で190万円ほどに相当します。当時の675万円は12億8250万円となり、お一人あたりに単純計算で1億8321万円が支給されたということですね。
――現在の内親王方のご結婚で支給される一時金の2倍とはいえないまでも、現代より割高な気が……。
堀江 ちなみに現在の女性皇族の一時金も、同じ「皇室経済法」をもとに算出されています。話が脱線しますが、小室さんがニューヨークの弁護士事務所に職を見つけ、日本には帰らない予定との発表が最近、ありましたよね?
――”小室問題”が新たな燃料を得て、いっそう激しく燃え上がりはじめた感があります。
堀江 眞子さまだけでなく、秋篠宮さまも小室さんの出世の足がかりに利用された被害者という見方もある一方、ネットには「世間を騒がせた責任を取って、秋篠宮家の方々は全員、臣籍降下を!」などと息巻く方の姿さえ見られます。
ただ、こういうケースでも一時金は出ますからね。万が一、現実となってしまったら、小室家の警護などにかかった経費どころではない巨額のお金が動くことになるでしょう(苦笑)。
さて、東久邇盛厚さんと成子さんのご夫婦に話を戻すと、まだお二人の身分が皇族だった45年に、長男・信彦さんが誕生していました。コロナ関係の給付金でもそうだったように、家族が多ければ多いほど、「お得」だったことは当時でも言えたのではないでしょうか(笑)。
堀江 ……ということで、たしかにこの手の一時金は生活費にはできないお金なのだ、とよく説明されるのですが、有利なスタートを東久邇家は切れていたのではないかな、と想像されるのですよね。ただ、巨額の貯金を持ってはいるが、それは簡単には手を付けられない種類のお金ゆえに、安いお店で買い物するなどの「やりくり」を成子さんがする必要もあった、というような。
――戦前に味わっていた豊かさとは比べ物にはならないけれど、それなり以上の生活の保証はあった上で、お金の「苦労」も一応はあったよという程度のお話なんですね。
堀江 たしかに、港区の一等地にある300坪のお屋敷に自家用車を完備、お手伝いの女性も複数名いる生活は、ふつうのサラリーマンでは不可能でしょうね。
だからこそ、というか成子さんも旧皇族の交流を目的とした「菊栄親睦会」などの例会には必ず出席、社交界にも顔が効き、たまにはテレビやラジオにも出演するという、典型的な上流婦人としての暮らしを戦後でも楽しむことができたのです。
昭和天皇の内親王がたの中で、(旧)皇族男性と結婚したのは成子さんお一人でした。しかし、臣籍降下時の一時金などの支給金を受けることができたのも、早くに結婚なさっていた成子さんお一人であり、東久邇家にとっては不幸中の幸いと呼べる事件だったのではないかな……と。
しかし、幸せな日々は長くは続かず、60年、体調不良で入院した成子さんが実は末期がんであることが判明し、その年の内にお亡くなりになったのでした。
――次回は、三女の孝宮和子内親王のお話です。お楽しみに。