『夢追い人』は、2021年4月にネットフリックスで配信が始まったインド映画。『裁き』(2014)で多くの映画ファンから賞賛されたチャイタニヤ・タームハネーが監督を務め、エクゼクティヴ・プロデューサーとして『ゼロ・グラビティ』(2013)や『ROMA/ローマ』(2018)の監督アルフォンソ・キュアロンが関わっている。第77回ヴェネツィア国際映画祭の最優秀脚本賞を授かるなど、配信前から大きな注目を集めていた作品だ。
インドの古典音楽界が舞台の本作は、シャラド・ネールルカル(アーディティヤ・モーダク)という声楽家の歩みを描く。シャラドは師匠であるヴィナーヤク・プラダーン(アルン・ドラヴィド)のもと、声楽を学ぶ男だ。ムンバイにある祖母の家で暮らしながら、ヴィナーヤクとの修行に励んでいる。
しかし、修行を積んでもなかなか技術は向上しない。コンテストに出場しても思わしい結果を得られず、ヴィナーヤクからは厳しい言葉を浴びせられがちだ。早く就職し結婚するようたびたびせっついてくる母親は声楽の道に進むことを良く思っておらず、応援してくれない。どれだけ声楽に情熱を注いでも、高みには行けないという現実を前に、シャラドの自信は少しずつ削がれてしまうのだった。
滋味深い演技をうんだキャスティング
本作を観てまっさきに惹かれたのは、アーディティヤ・モーダクの演技だ。微細な表情の変化でシャラドの焦りや落胆を表現する上手さに感嘆した。派手な立ち居振る舞いに頼らず、画面上の佇まいだけで雰囲気を生みだしている。
アーディティヤは、プロの役者ではないそうだ。本業は古典声楽家で、その前は公認会計士をやっていたという。そうした背景を持つアーディティヤだからこそ、古典音楽という広く認知されていない世界で奮闘するシャラドの情感を、リアリティーたっぷりに表現できたのかもしれない。
アルン・ドラヴィドの演技も気に入った。古典音楽の伝統に従順な頑固さを見せつつ、ギャラが支払われないことをシャラドに愚痴るシーンではチャーミングさも醸すなど、ヴィナーヤクという男の多面性を演じきっている。そんなアルンも本業は古典声楽家で、本作に出演するまで役者の経験はゼロだ。
こうしたキャスティングに、筆者はヴィットリア・デ・シーカ監督の映画『自転車泥棒』(1948)を連想せずにはいられなかった。1940~50年代のイタリアで生まれたネオレアリズモというムーヴメントを象徴するこの作品は、工場の労働者だったランベルト・マジョラーニや、デ・シーカ自ら街でスカウトしたエンツォ・スタヨーラといった素人に演じさせている。演じるというフィクショナルな行為と、その行為に慣れていないノンフィクショナルな立ち居振る舞いが絶妙に交わる2人の演技は、公開から70年以上経っても滋味深さを失っていない。その滋味深さに通じる魅力を、モーダクとドラヴィドの演技は放っている。
ローカルとグローバルが入り混じった手法
2人の魅力を最大限に引きだしたカメラワークも秀逸だ。本作はほとんどロングショットで撮られ、登場人物の全身か半身以上が画面内に収まっている。こうした撮り方のおかげで、役者の細かい一挙手一投足から漂う生活臭と、登場人物の背後にある日常の風景を観客は堪能できる。
登場人物の生活を中心にしたカメラの眼差しは、ドキュメンタリーの基本的手法である観察(Observation)に近い。ドキュメンタリーにおける観察とは、インタヴューや再現映像に頼らず、登場人物の日常が撮られた映像をもとに作るやり方だ。近年の作品から例を挙げると、ポーランドの映画監督アンナ・ザメツカによる素晴らしいドキュメンタリー『祝福~オラとニコデムの家~』(2016)などが観察作品の典型と言える。
インド映画といえば、『バーフバリ 王の凱旋』(2017)みたいに、歌って踊るド派手なミュージカル・シーンが出てくるというイメージが強いだろう。だが、本作にそのようなイメージはまったく当てはまらない。街の匂いや人々の価値観など、随所でインドの香りが漂うのは確かだ。しかし一方で、インド以外の映像作品を引きあいに出したくなる画や手法も目立つ。そうした作りの本作は、さまざまな文化が複雑に絡みあうグローバルな表現があたりまえとなった現在に沿うモダンな作品と評せる。
求道者・シャラドの選んだ道
インドの古典音楽が背景にありながら、専門知識が必要不可欠ではない物語も本作の魅力だ。職種や立場を問わず共鳴可能な情動が終始描かれた、哀愁漂う人間ドラマとして楽しめる。
たとえば、低賃金の仕事をしながら、声楽を極めようと奮闘するシャラドの生き方は、あらゆるジャンルの表現者が感情移入できると思う。自分が進む道に自信があっても、歳を重ねるごとに将来への不安が高まり、情熱と勢いが確実に弱まっていく様はとても生々しい。
生々しさがもっとも明確に表れていたのは、シャラドがネット上で自分の評判を検索するシーンだ。シャラドはYouTubeで自らの演奏映像を見つける。どういった評価なのか気になり、コメント欄をスクロールすると、ネガティヴなコメントが多い。そのことに怒ったシャラドは、反論のコメントを入力してしまう。だが、入力を終えると我にかえり、結局は反論を投稿せずに踏みとどまる。
パフォーマンスに確信が持てていないと、平静時にはたいして気にならない些細な言葉も耳に刺さり、ネガティヴな感情が瞬く間に心を占めていく。筆者もライターとして活動を始めた当初は似た状態になったことがあるからか、シャラドの行動に深く理解を示さずにはいられなかった。
本作でのチャイタニヤは、生きることの厳しさをとことん突きつけてくる。40歳まではひたすら練習だとシャラドに諭すヴィナーヤクの言葉も、生活という厳然たる現実の前では無力に等しい。尊敬する師匠の教えを一時の慰めにしながらも、シャラドは少しずつ現実と折りあいをつける道に進んでいくのだから。
その道を進むことになったのは、ヴィナーヤクのお世話をしていることも無関係ではないだろう。ヴィナーヤクは高名な声楽家でありながら、生活はとても不安定だ。先述したようにギャラをまともに払ってもらえないことも珍しくなく、医師の診察を受けるためのお金もシャラドに工面してもらう有様だ。
さらに自慢の声楽も老いと共に衰えていく。そのことを雄弁に突きつけるのは、ヴィナーヤクの師匠にあたるマーイ(スミトラー・バーヴェー)の命日に伴い開催されたコンサートを描いたシーンだ。歌う前にヴィナーヤクは、ここで上手く歌えなければマーイの幽霊が出るかもとジョークを言ったあと、パフォーマンスを始める。しかし咳が止まらないなど、ヴィナーヤクの調子はあきらかに悪い。この様子を伴奏者としてヴィナーヤクと同じステージにいるシャラドは、心配と不安が入りまじった哀しみの表情を浮かべながら見つめる。シャラドの表情は師匠を気にかけてのことかもしれないが、自らの将来が不透明である現実を思いがけず見せられたせいにも見えてしまう。
ヴィナーヤクの衰えを目の当たりにしても、シャラドは声楽を何とか続けていた。ところが、その踏んばりはあっけなく終わってしまう。物語の終盤、観客の前で歌っていたシャラドは突如歌うのを止め、足早にステージから去るのだ。
このシーンのあと、物語はシャラドが自身の妻や子どもと電車に乗っている場面に変わる。おそらく、ステージを去ったシーンからそれなりの時が経っていると思われるが、正確な年数は不明だ。電車で子どもと遊ぶシャラドの笑顔は、声楽家の道から退いたように見える。とはいえ、本作はシャラドの選択を最後まで明確に示さない。観客によっては、結婚後も古典音楽の道を歩んでいると解釈できるだろう。
ひとつだけ確かなのは、父親になったシャラドがインドの古典音楽をアーカイヴする会社を立ちあげたことだ。アーカイヴ集の完成を祝う催しで会見するシャラドを見て、古典音楽との関わり方を変えたのだろうと筆者は思った。
特別じゃない私は、どう生きていくのか
本作はチャイタニヤにとって『裁き』以来の長編映画だ。『裁き』でのチャイタニヤは、下水清掃人の死体がムンバイのマンホールで発見された事件の裁判を通して、インドの法制度、階級、権力構造の問題に踏みこむ物語を描いた。
そうした壮大な視点が好きな観客からすれば、本作は人間ドラマに寄りすぎた作品に映るかもしれない。インドの古典音楽界における師弟制度を介し、封建的価値観に疑問を呈する政治/社会的眼差しもなくはないが、基本的には市井の人々の生活を淡々と見せていく。劇中の出来事も、シャラドの周辺で起きるものがほとんどだ。
そのうえで言えば、筆者は本作を作りあげたチャイタニヤに拍手したい。努力を重ねれば夢は必ず叶うという、これまでさまざまな形で量産されてきたクラブジャムンも顔負けの甘い物語が教えてくれない人生の本質を浮き彫りにするからだ。
本質とはズバリ、努力の積みかさねは必ずしも望む形にならないということである。ひとつの小さなきっかけや感情で人生は大きく変わり、自らが理想とする人間像から逸れてしまう。とりわけ、自分は他とは違う特別な人間だと思っている者ほど、本作を観て心にこびりついた青臭さが疼くはずだ。ほとんどの人は特別じゃないし、特別にはなれないと暗に告げる物語なのだから。
このような辛辣さが目立つ本作は、生きるために強いられてきた報われない我慢や妥協の数々と、人生の中でも輝かしいとは言えない情動を嫌でも思いださせる。
とはいえ、そんな情動と向きあわせてくれるのはチャイタニヤなりの優しさであり、これこそ本作を特別な作品にしている理由のひとつだ。夢中になれるものだけを追いかけながら生きることの厳しさを隠さず撮る姿は、誠実とも言っていい。優しさと誠実さがあるからこそ、ラストで古典音楽の伝道師的役割をシャラドにあたえたのだ。
本作は、好きなものとの関わり方はひとつじゃないと教えてくれる。この教えは生き方についての深い考察も伴うもので、そういう意味では今後の人生どう生きるか? と観客に考えさせる内容だ。
お世辞にも観ていて愉快になったり、楽しい気持ちが芽生えたりする映画とは言えない。だが、そうした形で人々の価値観を揺さぶられるのも、映画を含めたあらゆる表現が持つ力であり、ポジティヴな可能性なのだ。その可能性をチャイタニヤは愚直に信じている。そう思わせるだけの思慮深さを放つのが『夢追い人』という作品だ。