近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『白頭山大噴火』
2010年、韓国では「近く白頭山(ペクトゥサン)が大噴火する!」というウワサをメディアが騒ぎ立て、国民を不安と恐怖に陥れたことがあった。結果的には現在まで噴火は起こっていないのでただのウワサにすぎなかったのだが、かといってまったく根拠がないわけでもなかった。当時、大噴火の可能性をめぐって韓国や北朝鮮、中国の間で共同研究の動きがあり、シンポジウムなども頻繁に開かれていたからだ。
朝鮮半島一の標高2744mを誇る白頭山は、北朝鮮北部の咸鏡道(ハムギョンド)と中国東北部・吉林省の国境にまたがっている。建国神話として知られる「檀君神話」(神と、人間の女性になった熊が結ばれ、2人の子どもが古朝鮮を開いたという神話)の舞台であることから、朝鮮民族発祥の地とされ、また半島の山々はすべて白頭山から始まったとするいわゆる「祖宗山」でもあり、それゆえ古くから民族の霊山として信仰されてきた。南北それぞれの国歌にも登場し、とりわけ北朝鮮では金日成(キム・イルソン)の直系家族を「白頭血統」と呼び、金氏一家の神格化に利用している。いずれにせよ朝鮮半島において白頭山は、朝鮮民族の原点を象徴する超自然的な存在なのだ。
このように日本での富士山のような存在感を持つ白頭山だが、10年にはちょうどアイスランドで火山の連続噴火が発生し、ヨーロッパの航空運航に大混乱をもたらしたことも、白頭山への注目が一気に高まった一因となった。だが北朝鮮には火山や地震の専門家はおろか、測定に必要な設備すらなく、韓国は勝手に手が出せないため、韓国側は中国からの情報提供に頼るしかない中で、中国からは「数年以内に火山性地震再活発化の可能性」という情報がもたらされた。
こうして一部の韓国メディアが「14年ごろ火山爆発?」といった刺激的な見出しをつけてほぼ確実な情報として大げさに報道したというわけだ。結果、メディアが無責任に「大噴火」と騒ぎ立てたことが判明して大バッシングとなって終わったが、ある与党議員は「北朝鮮の核実験のせいで白頭山の大噴火が近づいている」と主張、噴火までをも「反共」に利用しようとした旧態依然な発想は国民をあきれさせたものだ。
今回取り上げるのは、こういった一連の騒ぎを背景に作られた『白頭山大噴火』(イ・へジュン監督、19)である。もし本当に大噴火が起きれば朝鮮半島は破滅を免れないと想定し、それを防ぐために命を懸けて共闘する南北を描いたパニック映画である。思えば韓国ではこの20年ほどの間に、何らかの「問題」を解決するために南北が力を合わせて立ち向かうといった映画が何本も作られてきた。軍事独裁の終焉とともに台頭した「同一民族主義」が根底にあるそれらの映画には、南北関係に対する韓国の思惑が少なからず反映されているといえる。そこで本稿では、韓国映画史を振り返りながら、反共から始まり、時代や政権の移り変わりによって共闘へと変化していく、“映画から見える南北関係の変化”をたどってみたい。
<物語>
北朝鮮と中国の国境にまたがる白頭山で、観測史上最大規模の噴火が発生。韓国も北朝鮮もパニックに陥って朝鮮半島は甚大な被害に見舞われる。さらなる大噴火が予測される中、南北の破滅という最悪の事態だけは避けようと、政府は地質学者カン・ボンネ教授(マ・ドンソク)に協力を要請、カン教授は北朝鮮が保有する核爆弾で白頭山地底のマグマの流れを変えて噴火を阻止するという作戦を立てる。
除隊を控えた特殊部隊の大尉チョ・インチャン(ハ・ジョンウ)をはじめ、隊員たちは南北の運命がかかった任務を背負って北朝鮮に向かう。そこで作戦の鍵を握る北朝鮮の工作員リ・ジュンピョン(イ・ビョンホン)との接触に成功。白頭山へ向かうが、中国や米軍までもが核を狙って介入し、噴火までのタイムリミットは刻々と迫ってくる。ようやく白頭山に到達したチョ大尉とリ・ジュンピョンだが、彼らを待っていたのは過酷な運命の分かれ道だった……。
白頭山大噴火という社会的な話題性を取り入れ、さらに最先端のCGを駆使してリアルに撮り上げた映像、スリリングなタイムリミット付きの死闘など、高い完成度を見せつけた本作は、韓国国内で800万人以上の観客を動員する大ヒット作となった。とりわけCG技術は、20年の大鐘賞と21年の青龍映画祭で立て続けに「技術賞」を受賞するほどの高評価だった。ハ・ジョンウとイ・ビョンホンのダブル主演かつ初共演作としても注目を浴び、同じく20年の大鐘賞でイ・ビョンホンが主演男優賞を受賞している。本来であれば肉体を駆使したアクションが期待されるマ・ドンソクは、本作の製作にも名を連ねていたこともあって学者役にとどまったものの、最後まで目が離せないエンタテインメント作品になっている。
世界中から問題視されてきた北朝鮮の核爆弾のおかげで噴火を阻止し、韓国も救われるという発想の自由さには正直舌を巻いたが、今でも続く南北の緊張関係ゆえに、映画製作においても豊かな想像力が駆使され、韓国映画界の質を底上げしている点は否めない。ここからは本作の重要な軸である「南北共闘」から見える南北関係と、そこに至るまでの関係性の変遷を、反共映画の歴史を通してたどってみよう。
韓国で長い間、政権に抗う人々を弾圧/排除するため“武器”として「反共」が利用されてきたことについては、このコラム(『チスル』『スウィング・キッズ』『弁護人』など)でも言及してきた。1948年の建国から軍事独裁が終わる90年代前半までは、映画もまたその反共を美化し、国民を右傾化するプロパガンダの手段として使われてきた。当然のことだが、映画の中で韓国(時の政権)は常に「善」であり、北朝鮮はその善を正当化する「悪」の塊として描かれ、そのルールから逸脱すれば問題となった。
たとえば、『7人の女捕虜』(65)では人民軍に助けてもらった韓国の女兵士が彼を“素敵”と形容するシーンが「反共法違反」とされ、監督のイ・マニはKCIA(韓国中央情報部)による拷問を受け、裁判にまでかけられた。北朝鮮を良く描くことは、1mmたりともあってはいけなかったのだ。イ・マニ監督はその後「罪滅ぼし」として、徹底した反共映画『軍番なき勇士』(66)を撮らざるを得なかった。
98年に金大中(キム・デジュン)政権が発足し、北朝鮮に対する融和政策「太陽政策」が本格化すると、反共にがんじがらめにされて硬直していた時代もようやく終わりを告げ、反共映画も著しく変化を遂げることとなった。その幕開けを国内外に広く知らしめたのは『シュリ』(カン・ジェギュ監督、99)である。北朝鮮のテロリストやスパイを「内面を持つ一人の人間」として描き、それまでの反共映画とは比較にならない進化を見せたのだ。とりわけ、金大中大統領の平壌訪問と、金正日総書記との南北首脳会談の実現は、北朝鮮との関係を敵ではなく同じ民族の視点から見直す動きに拍車をかけた。本作の南北共闘の根底にある「同一民族主義」は、この時代に形成されたものにほかならない。
政治・社会・軍事など、あらゆる局面で対立はしていても同じ民族ゆえに必ず融和できるはずだと訴える同一民族主義は、南北関係の進むべき理想の道とされてきた。しかし、豹変を繰り返す北朝鮮の態度はその限界を露呈させるものでもあった。だからこそ同一民族主義は韓国にとって「欲望」であり、その欲望を収斂する場として映画というファンタジーを必要としたのかもしれない。
南北兵士の密かな交流を描いた『JSA』(パク・チャヌク監督、00)、南の男子大学生と北の女子大学生の恋物語『南男北女』(チョン・チョシン監督、03)、南北離散家族が偶然見つけた38度線付近の地下トンネルで再会する『出会いの広場』(キム・ジョンジン監督、07)など、金大中の後を継いだ盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権までは、南北統一はそう遠くないといったムードの中で、同じ民族であることを前面に出した映画が量産された。
中には、北朝鮮が故郷である病気の父のために家族全員がウソの南北統一の世界を作るという『大胆な家族』(チョ・ミョンナム監督、05)のような奇想天外な映画もあった。同作は朝鮮戦争後初めて北朝鮮でロケをした韓国映画としても歴史に残っている。この時代の映画は、反共映画に反旗を翻した「反・反共映画」と呼んでも差し支えないだろう。ただ、問題は韓国のこうした思惑に対して、北朝鮮側はどうだったかである。同一民族主義への韓国の願いは、残念ながら「片思い」に近いものだったと言わざるを得ない。
このような同一民族主義に基づく映画は、韓国において保守派が政権を取ると、すぐさま姿を消すことになる。その豹変ぶりは、北朝鮮のそれに負けないほどだ。保守派政権下になった08年からの李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・クネ)大統領時代、南北関係はまたそれまでと方向を変えて進んでいく。ただし、さすがに軍事独裁時代の反共政策には戻れないため、映画における反共ぶりはかなり変形した姿で現れる。
「反共映画」「反・反共映画」に続く、新たな反共映画を私は「新反共映画」と名付けたい。この時代の作品としては、人権問題の観点から北朝鮮を批判する『クロッシング』(キム・テギュン監督、08)や、昔の反共映画に酷似しているものの実話に基づいていることを強調した『戦火の中へ』(イ・ジェハン監督、10)がよく知られている。北に対する保守派政権の強硬な姿勢が反映されているものの、かつてのような一方的な表現はもはや成立しないという意味で「新反共映画」といえるのだ。
そんな中、朴槿恵政権が重大な不正によって幕を閉じ、現在の文在寅(ムン・ジェイン)政権に交代。金大中と盧武鉉をの路線受け継ぐ文政権は当然「同一民族主義」に戻り、金・盧大統領と同様、北朝鮮の最高指導者・金正恩(キム・ジョンウン)委員長と会談、再び韓国は南北融和の期待感に満ちあふれた。映画も再び「反・反共」に戻り、本作に代表されるような、南北が力を合わせて危機を乗り越えるといった作品が登場するようになった。
『鋼鉄の雨』(ヤン・ウソク監督、17)では、クーデターが起こった北朝鮮から、瀕死の金正恩を南に運び出し治療するという展開で、金正恩の後ろ姿やベッドに横たわる姿だけを断片的に見せる手法が斬新だった。これらの映画では、一致団結して難局を乗り越える南北のキャラクターの友情をメロドラマ的に描き、同じ民族ゆえにいかなる混乱も平和的に解決できるという同一民族主義への欲望が堂々と反映されている。
だが翻って現実はどうだろう? たとえば些細なもめ事が起こるたび、文大統領と金委員長の「融和」の象徴といえる開城連絡所を北朝鮮が一方的に爆破する態度を見ると、同一民族主義があくまで韓国だけの思惑にすぎないことを物語っていないだろうか? もちろん、同じ民族が協力して問題を解決しようとする姿勢が間違っているとは思わない。ただ、どの映画でも結局のところ、南北融和のために犠牲になるのは北朝鮮側の人間であることを考えると、韓国側の同一民族主義にもまたご都合主義が潜んでいるという限界を思わずにいられない。
ポストコロニアリズムの著名な理論家エドワード・サイードは、著書『オリエンタリズム』で「心象地理」という概念を展開している。西欧によって想像され描かれた東洋という地理は、あらゆる空想や作り話によって満たされた挙げ句、「実在する東洋」は消え、西欧によって想像された「東洋化した東洋」だけが残るというものだ。この理論に基づくならば、韓国に都合のいいように練り上げられた同一民族主義により、北朝鮮は「心象地理」になってしまうだろう。
ただし、西洋と東洋のようにかけ離れていない、隣り合っている南北では、白頭山大噴火のような両国にとって重大な事件が起こる場合には、最後の選択肢として「南北共闘」はまだあり得るのかもしれない。非現実的でしかない「南北統一」の幻想に冷ややかな視線を送りつつ、そう考えてしまう私もまた朝鮮民族の一員なのである。
最後に余談だが、「反・反共映画」で南北それぞれの要人を演じる俳優を並べてみると、興味深い共通点が浮かび上がってくる。イ・ビョンホン、チョン・ウソン(『鋼鉄の雨』)、カン・ドンウォン(『義兄弟』)、ヒョンビン(『コンフィデンシャル/共助』)と名だたる二枚目俳優が北側の人間を演じているのに対し、南側の人間を演じるのはハ・ジョンウ、クァク・ドウォン(『鋼鉄の雨』)、ソン・ガンホ(『義兄弟』)、ユ・ヘジン(『コンフィデンシャル/共助』)と、超がつく名優ながら容姿的には決して二枚目ではない(私はこっそり“じゃがいも顔”と呼んでいる)俳優たちばかりだ。
もちろんこの図式が当てはまらない作品もあるし、個々に異論もあるだろう。だがこのようなキャストをもってくることで、それまでの「反共映画」とは違うのだという作り手側の意図が一目瞭然になるとともに、北の軍服に身を包んだイケメンたちに観客がうっとりする効果を発揮するのは言うまでもない。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。