近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『整形水』
「整形」と聞くと、私には頭に浮かぶ2つの記憶がある。ひとつは今から10年ほど前、偶然目にしたあるテレビドキュメンタリーだ。顔と体に重度のやけどを負った韓国人女性を取り上げたその番組では、韓国で数多くの病院を転々としたものの、すべての病院から「手術は不可能」という絶望的な答えしか得られなかった彼女が、藁にもすがる思いで日本にやって来た様子を取材していた。そして、初めて訪れた病院の医師から「難しいが、希望はある」と言われて号泣した彼女は、数カ月後、手術を経てやけどの痕がだいぶ改善され、カメラの前で明るくほほ笑んでいた。私は、日本の医療技術の高さと、それが傷ついた人々に与える希望に感心しつつ、整形大国といわれる韓国で、なぜそれができないのかを不思議に思った。
もうひとつは、知人女性のことである。私が就職して間もない1996年、ある集まりで久々に会った彼女の印象が、以前とは変わったような気がしてならなかった。どう尋ねていいものかともやもやしていた私に、彼女のほうから「目と鼻を整形した」と明かしてくれた。なるほど、確かにまぶたは二重に、鼻筋は高くなっていて、前よりくっきりとした印象の顔に整えられていた。彼女いわく、両親に結婚をせかされ、相談所に行ったところ、整形を勧められたらしい。少しでも「美人」になったほうが、より良い男に出会えるチャンスにつながる。考えてみれば、当時こういった認識は、すでに根づきつつあった時代だったのだ。
この2つの記憶から浮かび上がるのは、韓国における整形の現状である。なぜやけどを負った女性は、韓国での整形をあきらめざるを得なかったのだろうか。一方で、なぜ知人女性はいとも簡単に整形を受けられたのだろうか。もちろん、私は医療に関してはまったくの門外漢であり、ましてやその内部事情などはわからない。だが韓国メディアが報道しているように、韓国は人口100万人当たりの美容整形専門医の数が世界一(2014年国際美容外科学会統計)であり、それはソウルの街にあふれている美容整形医院が証明している。
一方で、やけどなど事故による体の損傷を回復させる再建整形病院は、大学病院など大規模な総合病院などごくわずかな数にとどまっている。実際、韓国での「整形」は美容整形を意味し、再建整形は美容整形に吸収されつつあるとの報告もある。こうした現状が、記憶の中にある2人の女性のケースを生み出したひとつの原因だといえるだろう。
ならばなぜ、韓国では、美容整形医院だけが雨後のたけのこのようにはびこるようになったのだろうか? 「親からもらった体は命より大事」と、声を荒らげて教え込んできた世界一の儒教大国・韓国は、どうしてそれに反するどころか「整形大国」とまでいわれるようになったのだろうか?
今回のコラムでは、日本公開を控えた整形を素材にしたホラーアニメーション『整形水』(チョ・ギョンフン監督、20)を取り上げ、韓国での整形の実態やその背景について探ってみたい。
<物語>
幼い頃、バレエの才能の片鱗を見せていたイェジは、外見による壁にぶつかり、それがすっかりトラウマとなってしまった。大人になった今は、人気タレント・ミリのメイク担当として働いている。ミリからは毎日のように罵倒され蔑まれるなか、偶然出演する羽目になったテレビショッピング番組で、悪意ある切り取られ方をしたイェジの姿がネット上に広まり、外見に対する悪質な書き込みでショックを受け、部屋に引きこもるように。
そんなある日、ウワサで聞いていた「整形水」が、なぜかイェジのもとに届く。それに顔を浸せば、思うがままに簡単に、顔や体を変えられるという水だった。半信半疑ながらも試してみると、イェジは信じられない変貌を遂げる。変わる周りの視線。さらに美しくなるため、イェジは巨額の借金を重ねて整形水にのめり込む。だが、彼女の整形への欲望は、徐々に恐ろしい方向へと逸脱していく。
ネットで大人気を集めたウェブ漫画『奇々怪々 整形水』(日本版は『奇々怪々』)を原作に、「美」へのゆがんだ欲望の行く末を描いた作品である。「外見ですべてを判断しようとする悲劇を伝えたかった」という監督の言葉通り、韓国での整形の現実を十分に反映していると高く評価され、上映館の少ない低予算インディーズ映画にもかかわらず、10万人以上の観客を動員するヒット作になった。また、アヌシー国際アニメーション映画祭をはじめ、世界有数の映画祭にも招かれるなど、海外でもその完成度や芸術性を認められた作品である。
では、韓国で今現在のような美容整形がはやり始めたのは、いつごろからだろうか。整形手術の技術自体は西洋医学が到来したころからあったはずだが、新聞などの資料によれば、整形を促すような広告が目立つようになったのは1980年代からのようだ。ただし、これはあくまでも法的に問題のないクリーンな病院の広告であり、実は「ヤメ」と呼ばれる無免許の整形医は、それ以前から存在していた。「ヤメ」とは日本語の「闇医者」のヤミの韓国なまりで、「あそこの娘はヤメで鼻を直した」といった話を母から度々聞いたことをよく覚えている。
その後、広告が格段に増え、実際に施術を受ける女性も急増したのは90年代半ばからである。当時を象徴的に物語るのが、96年にあるインターネット会社が始めた「整形手術情報サービス」。有名な医師の紹介や手術の後遺症、注意点から、避けるべきヤメの情報まで発信したこのサービスは、韓国ですでにどれほど整形が日常化していたのかを端的に表しているだろう。
だがここで注目したいのは「90年代半ば」という時期だ。90年代に入って女性の社会進出が活発になったのはよく知られているが、それに伴って整形も右肩上がりに伸びたという事実は何を意味するだろうか。そう、就職活動において、数多くのライバルたちの中で、少しでも有利になるためである。
とりわけ、正社員の解雇が簡単にできるようになり、非正規労働者が爆発的に増えた97年のIMF時代の「就職大乱」は、女性を実力より外見で判断する「外見至上主義」を暴走させた原因のひとつとも言われる(ちなみに、整形しても就職できずに、今度は少しでも良い条件の男性を探して積極的に婚活することを「チジップ<취집、就職+結婚の合成語>」と呼び、嘲笑の対象となっていた)。
こうした流れは収まることなく年々拡大し現在に至っているわけだが、整形をあおる外見至上主義は「女の変身は無罪」といった広告コピーや「美人だから許す」といった類いのセリフを平気で口にするようなドラマを量産し、そこに潜む女性差別を、見えないものにしてしまうだろう。
そして近年は、「社会通念」と言ってもいいほど一般化しているのだ。このような状況は、本作で主人公のイェジが整形後の美女・ソレに変貌していく様子を通して生々しく描かれている。罵倒されたりバカにされたりしていたイェジが、「美しい」ソレに変わった途端、注がれる男たちの熱い視線は、イェジとしては味わったことのないものだった。当然ソレは、外見がすべてだと、ゆがんだ欲望に突き進むことになる。
だが問題は、こういった欲望は、そもそも「誰の」欲望かということだ。この場合、欲望の根源的な持ち主は女性ではなく、間違いなく男性である。ソレになったイェジの「美しくなりたい」という欲望は、自分を見つめる男性の視線を手に入れたいというものなのだ。精神分析の理論家ジャック・ラカンは、これを「他者の欲望」と呼んだ。
では、何がイェジや韓国の女性を、男性の欲望に合わせるように働きかけているのだろうか。私はその裏にはやはり、この上なく男性中心的な社会を築いてきた儒教のシステムが働いていると思う。システムに合わせなければ、つまり男性が欲望する「美しい」女性でなければ、社会の中に「進出」することはできない――それこそが女性に整形を強制させ、そしてほかの女性にも強制に加担させたのではないだろうか。いや、ある意味では男性の欲望の視線に合わせ、女性自らも自分自身を商品化してきたともいえるかもしれない。
もちろん、整形をめぐるこのような異常な社会を批判し、整形大会と呼ばれた「ミス・コリア」という美人大会のテレビ中継を廃止し、死亡者が出るなど後を絶たない整形手術の弊害を取り上げ、警鐘を鳴らそうとする動きが常にあったのも事実である。だが、男性中心社会の外側から中に入ろうとする女性たちに「美」を求める限り、ソレになりたいイェジのような女性はそこに存在し続けるだろう。
こんなことを考えているうちに、ふと思い出した日本のアニメがある。『笑ゥせぇるすまん』のエピソード「プラットホームの女」だ。整形に失敗し、本当の顔を仮面の下に隠している女性が、仮面の顔だけを見て「愛している」と告白する男に、怪物のようになった顔を見せながら「これでもあなたは愛してしてくれますか」と迫る。
男が悲鳴を上げ逃げてしまう背後から、喪黒福造の「どーん!」が聞こえてくるような気がするが、果たして「イエス!」と答えられる男性はいるだろうか。この問いかけに答えられない限り、イェジのゆがんだ欲望は、そして彼女をそうさせる男たちの欲望による「悲劇」は、果てしなく繰り返されるだろう――紛れもなくそれこそが、本作が伝えようとする力強いメッセージである。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。