• Wed. Oct 20th, 2021

昭和天皇の娘、“月収20万円”サラリーマンと結婚で皇室人気上昇! 「逆に好印象」だったお相手の経歴とは?

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――今回からは、昭和天皇の末娘(五女)にあたられる清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王の結婚についてお話いただきます。資料集めで世田谷の「大宅壮一文庫」に行ってきたのですが、昭和天皇の皇女がたの中で、もっとも人気があったというウワサは本当だったと思いました。貴子さん、ほとんどアイドルのような扱いをマスコミから受けていたんですよ。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 十代のころから、全国の少女たちの“憧れ”として君臨しておられましたからね。ご愛読の雑誌だった「新女苑」(実業之日本社、 1955年3月号 )には、編集部からの質問に「側近の方」を通して、16歳の貴子内親王がお答えになった記事が掲載されています。

 これによると、天皇陛下を「おもうさま」、皇后陛下を「おたあさま」と、御所言葉でお呼びになっていることがわかります。現在の天皇陛下も、少年時代、美智子様のことを宮中では「おたあさま」と呼んでおられたそうなので、これは宮中の伝統といえるでしょう。

 ちなみに和服を着る時以外、「化粧品は使用しておりません」とのこと。

――「新女苑」は「少女の友」(同)と並び若い女性に人気の雑誌だったそうで、いまだと「Seventeen」(集英社、現在は不定期刊行)や「ニコラ」(新潮社)が近いように思います。そこで特集される皇女がいるなんて、びっくりでした。この記事にはほかにも「相撲が好きです」とありますね。愛子さまも相撲ファンで有名ですよね?

堀江 はい。 “血”というものを強く感じてしまいます。

――ご成長後は「ファッションリーダー」として、ものすごい影響力がおありだったと聞きます。

堀江 インフルエンサーであったことは間違いありません。服だけでなく髪形にも注目が集まったとか。16歳の時、すでにデパートに通ってウィンドウショッピングをして、デザインの研究をなさっていただけありますね。

 1958年、19歳になった貴子内親王は、お姉さまがたと暮らしていた呉竹寮(くれたけりょう)を出て、皇居内にある通称“清宮御仮寓所”なる平屋の建物に一人暮らしを始めておられ、そこから学習院大学のイギリス文学科(現在の英語英米文化学科)に通学なさっていました。

 この年の「週刊読売」(読売新聞社、58年4月20日号)の貴子内親王のインタビュー記事には、有名なニックネームである“おスタちゃん”の呼び名がすでに見えますね。「す」がのみや「た」かこ、というお名前から一文字ずつ取って“おスタ”なのですが、スターという意味も含んでいると思われます。

――後に夫となる島津久永さんとの婚約会見では、「私が選んだ人を見てください」と発言して話題となられたとか……。

堀江 女性が男性にプロポーズという形で“選ばれる”のが普通だった、上流社会の結婚の常識をくつがえすようなインパクトあるご発言ですよね。ただ史実では、婚約会見でその有名なセリフ「選んだ人を見てください」を言ったわけではないようですよ。

 59年3月2日、貴子内親王は単独で記者会見をお開きになりました。その場で婚約が発表されたりはしていません。すでに島津久永さんが婚約者に内定済みという事実はあったようですが。

 この時、まだ20歳で、学習院の学生だった貴子内親王は記者から「好みのタイプは?」と聞かれ、その答えとして「わたくしの選んだ人を見ていただきます」とおっしゃったそうなのです。

 こういう質問が来ることを想定しておられたようで、さすがは“おスタちゃん”、マスコミ馴れもアイドル級です(笑)。しかし、なかなか大胆な発言ということは理解しておられたようで、「島津さんがどう思うかしら」と気にしていたという周囲の証言も「週刊明星」(59年4月5日号、集英社)には載っていますね。

――「明星」! まさにアイドルだったのですね。

堀江 そしてその会見から17日後の3月19日、貴子内親王が島津久永さんという「サラリーマン男性」と婚約なさったということが世間に発表されたのでした。当時は皇太子殿下(現・上皇さま)が、正田美智子さん(現・上皇后さま)とご結婚なさる1カ月前です。

 敗戦後、皇室の人気は少々低迷していました。しかし、おスタちゃんと皇太子殿下のご結婚という相次ぐ慶事が、皇室人気のV字復活につながる出来事の一つになったと言えるでしょう。

――貴子内親王は、マスコミ対応もお手の物でいらっしゃったと(笑)。

堀江 昭和天皇の内親王がたはお美しい方ばかりなのですが、輝くような強いスターオーラをお持ちだったのが、貴子内親王という方だったと思われますね。

 そんな貴子さんが(薩摩藩主の分家にあたり、佐土原藩主を務めていた)島津家の出身とはいえ、成城学園の実家から駅まで毎朝自転車を飛ばし、小田急線で電車通勤しているメガネにスーツのサラリーマン・島津久永さんを「選んだ」ということは、ひときわ大きなニュースとなりました。

 こういってはなんですが、貴子さんのお相手にしては地味に見えたのでしょう。

――たしかに地味ですね。芸能界では人気女優が一般男性と結婚、というケースがまれにありますが、往々にして“一般”とは言い難い経歴だったり、お金持ちだったりします。

堀江 しかし、島津さんはそういうわけでもなかった。「日本輸出入銀行」の銀行員であり、世田谷の高級住宅地である成城学園にお住まいとはいえ、そのご自宅の土地は借地、家屋は兄上の所有物です。お母様の久子さんは裁判所の調停員でしたが、二人あわせて一家の月収は(当時のお金で)3万円ほどだったとか。

 当時の大卒初任給が1.1万円だったといわれますが、島津さんの月給はこの時、1.3万円だったそうです。現代なら月収20万円ちょいで、手取りが10万円後半。ボーナスはあったでしょうが、現代でいうなら年収300万円には足りないくらいだったと推察されます。

――渡米前、都内の弁護士事務所に勤務していたころの小室さんの推定年収よりも低いかもしれませんね?

堀江 はい。それでも宮内庁では問題にならなかったのです。小室さんと同じく、島津さんもお父様を早くに失い、いわゆる“母子家庭”でしたが、ヘタに背伸びして贅沢な暮らしをしようとしていなかったことが、逆に好印象だったと推察されます。

 背広は3着しか持っておられませんでしたが、それらを大事に着回しているし、当時まだ高価だった自家用車も「購入予定ナシ」と島津さんは明言なさっています。そんな島津さんのことを戦後に没落した華族・皇族などを指す「斜陽族」の典型という人もいました(島津さんは元・伯爵家の出身)。

――それでも、島津さん自身あまり気になさっているような様子はないですね。マイペースを貫いておられる感じ。それが本当の高貴さといえるかもしれませんが。例の「週刊明星」の記事も、「発表翌日、昨日までと少しも変らない島津久永氏」と彼の写真にはキャプションが付いていますね(笑)。

堀江 ちなみに婚約発表日、島津さんはお母様の久子さんと共に、皇居内にある呉竹寮を初訪問なさったそうです。すでにお住まいは先ほどお話したとおり、別の平屋になっていたのですが、呉竹寮のほうが広いですからね。

 報道陣たちが殺到し、彼らに取り囲まれつつ、貴子内親王の手料理を初めて島津さんは召し上がったそうですよ。

 貴子内親王は、テレビで鶏肉料理を実演してみせるなど、相当な「お料理自慢」だったそうですが、この日は照れてしまって「(私が担当したのは)味付けだけですわ」などと「ごけんそん」だったとか……。

――かわいらしいところもおありなんですね(笑)。

堀江 発表の記者会見まで結婚情報は絶対にバレてはいけない! ということが皇室との取り決めだったらしく、島津さんと貴子さんとの結婚話は本当に誰にも知られていない、寝耳に水のお話だったそうです。島津さんの会社の方は、婚約内定のニュースにすごく驚いたのだそうですよ! 

 ――次回に続きます。