• 日. 12月 22nd, 2024

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月収20万円のサラリーマンに嫁いだ皇女、「週3」で東京プリンスホテルに勤務!? 結婚10年目の知られざる「所得事情」

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――戦後の日本の空気を華やかにした、注目の女性皇族・清宮貴子さま。昭和天皇の末娘(五女)にあたられます。貴子さまの結婚相手は、「民間人」であるだけでなく、現在でいえば年収200万円台のサラリーマン男性でした。お二人の新婚生活はどうなったのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 皇女という「雲の上」の存在が、清貧サラリーマンの家庭に嫁ぐことになった面白さもあり、新婚のお二人の周りはマスコミの記者だらけとなりました。新婚旅行先だった宮崎にも当然のように報道陣がついてきていたのです。

――まるでストーカーめいていますね。

堀江 しかも旅路の様子まで、生放送の番組で取り上げられようとしていました。戦後に復活しはじめた皇室の人気を支えた元・皇女としては、マスコミからの要請をそう簡単に蹴るわけにもいきませんからねぇ……。

 宮崎へは神戸から船旅でしたが、その様子が1時間に渡って生中継されたのです。しかも、途中に「便秘薬」のCMが流れたことも大きな話題になりました。

――結婚式を生放送したタレントは知ってますが、新婚旅行を生中継とは……。昭和の芸能マスコミの勢いというか下品さというか、すさまじいですね(笑)。そしてCMは便秘薬ですか(笑)。

堀江 読売テレビの悲願の企画で、貴子さんサイドからのOKは出たというのに、スポンサーが放送日の数日前まで付かなかったそうなんですよ。島津さんと貴子さんを追い回している番組のスポンサーになると、逆に会社のイメージが悪化するだろう……と企業側が遠慮したようです。それでもなんとか出資してくれることになったのが、「関西の製薬会社」で、便秘薬のCMになってしまったという(苦笑)。

 ちなみに昭和中期の頃、宮崎は日本にいながらにして南国情緒が味わえる場所として有名で、新婚旅行に行く人も多かったのですよ。しかし、当地に到着しても出迎えの人があまりに多かったので、予定どおり大分の高崎山でサルを見たり、別府の名所“地獄めぐり”もできなかったり。貴子さんは旅の疲れもあって、不機嫌そうだったと「週刊公論」(1960年5月17日号、中央公論社)では報じられています。

――なんだか、おかわいそうですね……。一生に一度の思い出なのに。

堀江 旅行後、テレビ番組『スター千一夜』(フジテレビ系)に出演した貴子さんは、今後も旅行などしたら大変なことになるだろうと予測し、「いつになったら二人きりになれるのでしょう」とも発言しておられます。

 しかし、結婚から約10年が経過した後も、貴子さんの人気は衰えぬままでした。31歳になった貴子さんは、新しいチャレンジとして、東京プリンスホテルでお仕事を始められたのです。東京プリンスホテルの地下には高級ショッピング街「西武ピサ」があり、その中でも特に一流品の品々を特別なお客様にお勧めする「ロイヤル・サロン」での接客、その名も“サロン・アドバイザー”が貴子さんのお仕事です。

――皇族として一流品に接して成長なさった貴子さんの見識が生かされる職場ということでしょうか。

堀江 まさにそうですよね。「女性セブン」(小学館)、1970年11月26日号の記事「島津貴子さんの評判と実力」によると、お店での呼ばれ方は“様”づけで、“島津様”。職場からは(契約社員なのに)通勤用のハイヤーが出されるという厚遇ぶりでした。貴子さんは自分で運転して通勤したいと希望なさっていたようですが……。

――販売員ということは成績も重視されますよね?

堀江 入社1カ月目にして、来客数が大幅に増え、サロン全体の売上金額も2割上がったそうですよ。貴子さんの勤務日は毎週火、水、木の午後1時~5時まで。契約社員なのですが、宮内省が「元・皇女が、一般企業に就職するのは考えものだ」と発言したり、社会全体で賛否両論を生んだ就職ではありました。

 ただ、貴子さんは「時間がなくなったために、かえって家事がキチンと進むようになった」と発言、お家の仕事と外での勤務を両立させ、それを生活の活気に変えていた様子です。

――ご主人の島津さんはどういうご意見だったのでしょうか?

堀江 貴子さんが仕事をするのは島津さんの了解を得てのことです。ちなみに結婚当初、銀行マンとしての島津さんの年収はボーナスをいれたところで、現在の貨幣価値では300万円もなかったようですが、お二人の結婚から10年たつと、随分と事情が変わっていますね。

堀江 島津さんが芝税務署に申告した「所得」は「527万円」にハネあがっています。所得=手取り額といえるでしょう。日本銀行によると「昭和40年の1万円は、令和2年の約2.0万円」とされますので、現代なら(単純計算で)1000万円以上の手取りが島津さんにはあったというわけです。

 貴子さんの就職も、そのお給料を島津家の家計に回すものとしてではなく、女性として自分の生き方を模索したいと思ってなされたことだと説明されていますね。主婦が家の外で仕事をするのに、いちいち夫の顔を立てねばならない時代だったのだなぁ、と思われてなりませんが。

――しかし、島津さんは一般人なのに、具体的な所得の数字がスッパ抜かれているのが恐ろしいですね(笑)

堀江 昭和のマスコミの勢いはすごいですね(笑)。当時の島津さんは、すでに日本輸出入銀行の経理課長に出世なさっていらっしゃいました。当初は1年契約だったようですが、現在でも貴子さんはプリンス・ホテルの職員としての籍を残しておられるという情報もあります。

――名実ともに、自由奔放な“末っ子キャラ”でいらしたのですね。華やかな人生を駆け抜けた貴子さん。今年で82歳を迎えられたそうですが、いつまでもお元気で!

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