近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『サバハ』
今から30年以上も前、入隊を控えた冬のことだ。ソウルの繁華街・鍾路(チョンノ)を歩いていると、若い女性から突然「あなたは“ド”を知っていますか?」と声をかけられた。そして「天の“ド”」やら「人の“ド”」やら長々と並べ立てられた挙げ句、運命を占ってあげるからと半ば強引にカフェに連れて行かれた。店内をのぞいた瞬間、当時、鍾路一帯で布教活動を行っている新興宗教団体があるという噂が頭をよぎり、自分が勧誘されていたことを理解した私は、挨拶もそこそこにその場から逃げ出した。
後になってその“ド”とやらは、仏教や道教での悟りの境地であり、宇宙の根本原理である《道》を彼らが身勝手に解釈して都合よく作り上げ、“ド”を極めて神になったという教祖の言葉を集めたデタラメなものだと知った。内容もさることながら、その宗教団体は、道端で人を捕まえては入会を強制し、入会費を要求したり団体の商品を押し売りしたりするなどの迷惑行為で警察の取り締まりの対象になっていた。そのような団体は減るどころかますます増え、ネット上にはいまだに「“ド”を知っていますか」と近づいてくる人への注意を促す書き込みなどが後を絶たない。
こうした新興宗教は韓国では「似而非(サイビ)」と呼ばれている。いわゆる「エセ宗教」だが、その数は数え切れないほど多く、昨年政府による集団礼拝の自粛要請を無視して新型コロナウイルス感染拡大の原因となった「新天地」はその代表格といえる。新天地のようなキリスト教系のエセとその弊害については、『フェイク~我は神なり』を取り上げた以前のコラムで紹介しているので、今回は仏教系の新興宗教による犯罪を描いた『サバハ』(チャン・ジェヒョン監督、2019)を取り上げ、その実態と共に、絶えずエセ宗教を生み出してきた韓国人の宗教的心性に触れてみたい。
<物語>
ある田舎の村に双子の姉妹が生まれる。足にかまれた傷を負った妹のグムファ(イ・ジェイン)と、グムファの足をかみちぎった姉の《それ》だ。《それ》は長生きしないとみられたが、16年たっても、小屋に鎖でつながれながら生きていた。
一方、新興宗教の不正を捜査している「極東宗教問題研究所」のパク・ウンジェ牧師(イ・ジョンジェ)は、“鹿野園”なる新興宗教団体を調べるために部下のコ・ヨセフ(イ・デビッド)を潜入させる。そんな中、トンネルの壁の中から女子中学生の遺体が見つかり、殺人の容疑者としてキム・チョルチン(チ・スンヒョン)が浮上、パク牧師は事件と鹿野園がつながっていると直感する。間もなくキムは自殺、そして彼が自殺直前に会っていた男チョン・ナハン(パク・ジョンミン)が現れる。チョンについて調べ始めたパク牧師は、彼がグムファを探していることを知る。徐々に明かされる鹿野園の謎。パク牧師はついに衝撃的なその実態と向き合うことになる。
エセ宗教団体の最も深刻な問題は、詐欺まがいの布教活動にとどまらず、最悪の場合、人命まで奪うような犯罪も起こしかねない点にある。映画では日本のオウム真理教によるサリン事件について言及があるが、韓国でも教祖や信者32人が集団自殺をした「五大洋事件」(先述のコラム参照)など、社会を揺るがせた事件が幾度も発生している。こうした事件を防ぐためには、「神を自称する者」を疑い、本質を見抜くべきだという、当たり前だが忘れがちな注意を本作は喚起しているといえるだろう。
実際イ・ジョンジェが演じるパク牧師は、国際宗教問題研究所の所長を務めながら「似而非」の不正や犯罪の実態調査に尽力し、エセ団体の信者に殺害された実在の人物タク・ミョンファン牧師をモデルにしており、本作は「似而非」がまん延する韓国の現実を反映した数少ないオカルト・ミステリーとして、230万人以上を動員するヒット作となった。世界的な舞踊家であり俳優としても活躍する田中泯がチベット仏教の高僧役で出演しているが、日本では一般公開されず、現在はNetflixで見ることができる。タイトルの「サバハ(娑婆訶)」とは仏教用語で、「円満な成就」を意味するという。
372年に高句麗に伝来したという長い歴史を持つ仏教は、エセの歴史も古く、またエセ仏教は儒教や道教、キリスト教といった既成宗教に朝鮮半島の民間信仰である巫俗(ムソク)までを都合よくミックスしているため、その実態を理解するのは非常にややこしい。そこで今回のコラムでは、本作のキーマンである“鹿野園”(東方教)の教祖キム・ジェソクを中心に、現代における仏教系「似而非」の存在感を見ていこう。
映画によるとキム・ジェソクは「1899年生まれで、成仏の境地に至り、朝鮮総督府の総督さえも師として崇めた。一方で独立運動の支援など抗日活動もした」人物である。この設定から連想されるのは、植民地時代の新興宗教「普天教(ポチョンギョ)」だ。西学(キリスト教)に対抗して生まれた東学(仏教・儒教・民間信仰を融合させたもの)に、道教の教理を混ぜ合わせた「甑山教(チュンサンギョ)」の一派として1921年に創始されたもので、教祖は1880年生まれのチャ・ギョンソクである。
信者が急増し教団が大きくなった1926年には、当時の朝鮮総督府の斎藤実総督が教団本部にチャ・ギョンソクを訪ねたという逸話もある。大韓民国臨時政府(上海臨時政府)設立に資金を提供するなど、ひそかに独立運動の支援活動もしたのだが、教祖の神格化や信者に対する財産寄付の強制などが批判され、36年に同教団の存在に危機感を抱いていた総督府により解体された。物語上のキム・ジェソクの「朝鮮総督との関わり」や「独立運動の支援」といった設定は、まさに普天教の教祖チャ・ギョンソクから借りているのだ。
映画のキム・ジェソクは、戦後(独立後)「日本に奪われた文化財や国有財産を取り戻したが、政局が不安定になると宗教界に私財を投じ、勢力を拡大させ、東方教を創始。社会奉仕活動をした」とある。韓国が正式に日本から文化財を取り戻すようになるのは、65年の日韓基本条約で「日韓文化財及び文化協力協定」が成立してからであり、66年に初めて仏像や陶磁器など1300を超える文化財が返還された。文化財の返還に力を注いだというくだりは、キム・ジェソクの歩みが少なくとも東方教という新興宗教を創始する前までは、成仏の境地に至った師として尊敬に値するものであったことを示しており、またその後「突然消えた」キム・ジェソクのミステリーの効果的な前置きとなっている。だが私が引っ掛かったのは、「社会奉仕活動」の部分である。
「似而非」が自らの怪しさを隠すために「社会奉仕活動」を建前とするのはよくある手法で、ここから思い浮かぶのは「チェ・テミン」である。パク・クネ政権の失脚をもたらした「お友達国政介入スキャンダル」で脚光を浴びた元大統領の親友チェ・スンシルの父であり、長い間パク元大統領との内縁関係を疑われてきた人物である。
チェ・テミンは70年代に「永世教」という仏教・キリスト教・天道教を組み合わせたエセ宗教団体を作り、弥勒菩薩を自称して教祖となった。ところがパク・クネとの交流が頻繁になると永世教を解散、今度は「牧師」になり(キリスト教側は金で牧師の資格を買ったのが発覚し追放したと主張)、「救国宣教団」という団体を作ってパク・クネを名誉総裁に仕立て上げた。この団体は「救国奉仕団」「セマウム奉仕団」と名前を変えながら、公には自然保護や貧民救済などの社会奉仕活動をしたものの、裏では権力を後ろ盾にさまざまな不正をはたらいて蓄財したことは韓国では誰もが知る話だ。
だが一番の問題は、チェ・テミンが牧師の仮面をかぶって、当時、母(パク・チョンヒ元大統領の妻)が暗殺され大きなショックを受けていたパク・クネに接近し、呪術的に操ったことだ(以前のコラム『KCIA 南山の部長たち』参照)。この関係性がテミンの娘チェ・スンシルにも受け継がれ、国を揺るがすスキャンダルに発展し、パク・クネは大統領を罷免されるという、韓国史上初の大事件につながったのだ。
そう考えると、本作のキム・ジェソクはさまざまなエセ教祖たちを組み合わせたキャラクターであり、ある意味では、韓国エセ宗教の縮図といえるだろう。とりわけ、成仏の境地に至り「老いない身体」を得たという設定は、消えては現れる韓国の新興宗教そのものに対するメタファーかもしれない。
本作には、キリスト教もまた一つの軸として取り入れられている。チベット仏教の僧に死を予言されたキム・ジェソクが、自らを守るため、弟子たちに女子中学生の連続殺人を教唆するのは、イエスの誕生を恐れていたヘロデ大王が、ベツレヘムの幼い男の子たちを殺したという聖書の記録から取り入れたものだ。そしてキム・ジェソクと対峙する双子の姉妹は、旧約聖書の創世記に書かれている双子の兄弟「ヤコブとエサウ」をモチーフにしたキャラクターと思われる。ヤコブがエサウのかかとをつかんだまま生まれたことや、エサウが全身毛だらけだったというのは、グムファと姉の誕生の秘密に盛り込まれている。つまり本作は、仏教からキリスト教まであらゆる宗教を混合させてきた韓国の新興宗教の特徴を、作品全体のオカルト的な世界観に落とし込んでいるといえるのだ。
最後に、映画の冒頭で描かれる巫女による儀式「굿(グッ)」の場面に触れておこう。伝染病により牛が大量死した牛舎の外では、追い出された医者たちが途方に暮れているのに対して、中ではこの不吉な事態を脱しようと、村人たちが呼んだ巫女が熱い儀式を繰り広げている。セリフや字幕もない短い場面ではあるが、朝鮮半島で最も古い民間信仰である「巫俗」をシンプルにわかりやすく伝えている。牛の大量死を前に村人たちが頼るのは、現代医学ではなく巫俗である。そこには、病気そのものではなく、病気をもたらす邪悪な何かが存在すると信じてきた、はるか昔からの土着的な宗教の心性が表れている。彼らは、「グッ」を通して邪悪な何かを追い払わない限り、病気を治すことはできないと信じているのだ。
病気だけではない。日常生活のあらゆる場面、人生の大事な局面では、仏教徒だろうがキリスト教の信者だろうが、宗教に関係なく「巫女の占い」に頼る人が少なくないのは、巫俗への信仰が数千年の時を経て、韓国人の意識のどこかに受け継がれてきているからではないだろうか。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。