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投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア〉

ByAdmin

10月 29, 2021

 デヴィッド・バーンは「ヨーロピアン」で「アート」的。ファンのあいだでは、たしかそんなふうに形容してた。

 1980年代ニューヨークのニュー・ウェイヴを代表するバンド、トーキング・ヘッズ。フロントマンのバーンは、スコットランドで生まれアメリカの名門美大を経てニューヨークの音楽シーンへ。これがロック史の教科書的な語り。『アメリカン・ユートピア』は、この語りの問題点をアーティスト自ら乗り越えようとしたような作品であり、数十年の時を経たアメリカ社会の変容を写す鏡にもなっている。

 本作は、デイヴィッド・バーンによる2019年初演の舞台の映像化である。元は2018年に同名で発表されたアルバム作品とライブツアー。そこからブロードウェイへと移って物語性を高めたミュージカル作品へと展開し、さらに舞台を撮影した素材を編集し映画として再構築された。映画版の監督には、アフリカ系の社会問題を挑発的に問うてきたスパイク・リー。アメリカでの公開は、コロナも吹き荒れる2020年秋。日本では2021年春公開となった。

「ヒート」と「クール」のバランス感覚
 本作はミュージカル映画だ。バーンのソロ作表題アルバムの曲に加えて、トーキング・ヘッズ時代の曲も含めて構成されている。象徴的なポエトリーのような歌詞が作品世界をつむいでいく。ダンスがある。シャープでコミカルだ。シンプルで見ていると踊りたくなる。計12名の演奏者は、すべて身につけた楽器を弾く。高い音響技術でノイズもなく音が拾われる。衣装は薄めのグレースーツに裸足で統一。照明によって消える色だという。

 曲と曲のあいだに時折り挟まれるのが、デヴィッド・バーンの独白劇。歌詞世界やダンスと同じく、洒落た笑いと軽快なタッチで、シリアスな社会問題を観客に問う。

 例えば投票率のネタ。

「地方選挙も問題だよね。なんと投票率は約20%。目で見えるようにするならこう。はい」
舞台が暗くなり、2割の観客席にだけ照明が当てられる。
「彼らだけが我々の将来決めてます。子供たちの将来も」
笑いが起こる。
「あとちなみになんですけど。投票者20%の平均年齢、57歳。(観客の一人がイェイ!)おめでとう!」
会場は爆笑だ。ほとんどスタンドアップコメディ。

 インディーロック発のアート映画が投票を促す、と聞くと驚く読者もいるだろう。特に盛期のトーキング・ヘッズのファンは、シニカルな彼らの印象もあってそう思うかもしれない。

 選挙や政治や社会課題という熱っぽくなりがちなものがクールに表現され、きゃっきゃと面白がってるうちに、なんだかグッときて最後は朗らかな気分になる。こういう経験ができる作品はけっこうめずらしいのではと思う。「ヒート」と「クール」の好バランス。

歴史を今につなぐ「プロテスト・ミュージカル」
 他にはどのような主題が扱われるのか。下に挙げてみよう。

「選挙の意義と投票率の向上、民主主義について」
「国籍、人種やジェンダーの多様性が社会に与える意味」
「警察機構の腐敗と歴史に遡る人種差別、とくに黒人差別。反人種差別運動」

 まさに現在、アメリカを含め世界中で突きつけられている問題だ。これらが先の要領で、とても軽やかで知的に言葉にされていく。爽快感がある。

 「過去と現在のファシズム批判」に触れたところを取り上げよう。クルト・シュヴィッタースやフーゴ・バルといったダダイストのエピソードで織りなされる。ナンセンス詩で知られるアーティストたちだ。

「彼らは理解不能な世の中を、理解するために、理解不能を使ったんだ。ちょっと説明が必要だよね。」
(バーン、意味不明な言葉を喋る)
「これが40分間続くんだ」
(会場笑い)

 シュヴィッタースが書いた音響詩《ウルソナタ》だ。不条理な現実を描く芝居は、このように「理解不能」な様になってしまう、というわけだ。

 バーンが説明を続ける。「これが上演された頃1930年代のドイツでは、経済不況に陥るなかでナチスが台頭し、ファシズムが人々の間で影響力を蓄えていきました。」ポピュリズム的指導者を大統領にした、現在のアメリカの影が重なる。

「フーゴ・バルは言いました。「戦争」や「ナショナリズム」のようなリアリティと別の次元で生きる、独自の価値観を持った人々が世の中にはいる――アーティストです。彼はこう訴えました。」
観客が喝采する。
〈I Zimbra〉の演奏がはじまる。ブライアン・イーノの勧めで、バーンがバルのナンセンス詩を引用した曲だ。

 現在アメリカ社会が抱える課題はファシズムだけではない。先に挙げたような様々な問題を引き起こした要因の大きな一つは、トランプ大統領の台頭がある。見方を変えれば、こうしたアメリカ社会の窮状を示す「症状」として現れたのがトランプだ。製造業衰退と交代するように跋扈する金融資本主義。こんな状況に嫌気がさして、人々の関心は排外主義やポピュリズムへと向かってしまった。当時のドイツでダダイストが憂いたように。

 1937年ナチスドイツは宣伝相ゲッペルスの元、シュヴィッタースを含めた近代美術の作品に“税金を無駄遣いしている”とキャプションをつけて「退廃芸術」として展示し、大衆の怒りを煽った。それに対比して開催された「大ドイツ芸術展」は「アーリア人的」で「正しい」ドイツ芸術を教育するものだった。アーティストは、こうした動きに表現で対抗する存在だ。

 本作が制作されたのはまさにトランプ政権下。映画の公開は、トランプ政権が続くか否かが問われた2020年の大統領選の真っ最中である。だからバーンは観客に選挙への参加を促す。

「2016年のツアーではね、まだの人は選挙人登録をしてねって声をかけたんだ。登録済みの人は投票してねって」

 アメリカでは、日本のように投票権が自動で送られてこない。投票にはまず登録が必要だ。

「ここでも同じことをしよう。HeadCountの協力で、ロビーで簡単に選挙人登録ができるようにしました。どこの州でもね。」

 HeadCountは、特にミュージシャンたちと連携して選挙や民主主義への参加を促進するNPOだ。

「あと、選挙人登録をしますという宣誓書を書くためのブースも設置しました。誓いに法的な拘束力はないけどね。自分への約束ってとこ」

 プロテスト・ソングならぬこの“プロテスト・ミュージカル”は、普遍的なメッセージを目指すいわば“芸術のための芸術”に留まらない。芸術の今と昔をつなぎ、具体的に政権交代につなげるため、民主主義を立て直すための社会運動の芸術である。

社会を語る、共に語る
 映画を監督したスパイク・リーは、まさしく芸術と社会運動の交差地点で活躍する急先鋒である。映画化のときに強調された大きなポイントは、人種差別是正を訴えるメッセージだ。バーンたちは、ジャネール・モネイによるプロテスト・ソング〈Hell You Talmbout〉をカバーする。

 タイトルの「何言ってんの?("what the hell are you talking about?"の略)」に続いて、「名前を呼ぼう!(Say her/his name!)エリック・ガーナー!」と、名前を順に呼ぶコール&レスポンスが続く。警察によって命を奪われた犠牲者の黒人ひとりひとりの名前を記憶しようというメッセージだ。この曲は、数々の差別発言にも関わらずトランプが大統領に当選した直後、世界各地で行われた(日本でも)抗議集会「女性の行進(Women’s March)」のスピーチでモネイが歌って以降、人種差別に抗議する代表的なものになった。

 映画は、警察暴力の犠牲となった数十名の肖像・名前・生没年月日が、次々に浮かび上がる演出が施された。その中には、公民権運動も前夜の1955年夏、白人によって目玉をえぐられる程のリンチで惨殺された14歳の少年エメット・ティルのような人物もいて、悲劇の歴史が今に続くものであるということも伝える。ともすると黒人当事者からの反感を招く可能性もあるカバーが、「黒人・活動家」というリー監督の当事者性によって、より広い観客層の共感を誘うものになっているだろう。むろん映画だけでなく、そもそも演者たちにも人種や国籍の多様性が高い。

 2020年5月ミネアポリスで、黒人男性ジョージ・フロイドが警官に9分ものあいだ首を地面に押しつけられて殺され、それを目撃していた人々が撮影した映像がSNSを通じて世界へと広がった。この事件以降、ブラック・ライヴズ・マターは世界規模に拡大し、より普遍的な人種差別・格差の構造を批判する社会運動へと展開した。映画版では、2019年初演を撮影した時には存命だった三名の被害者の名前がリーの手によって加えられ、ラストシーンでは画面を被害者名が埋めつくしAnd Too Many Moreの文字が示される。昨年はコロナ禍で延期になっていたが、今年9月から来年の3月までブロードウェイで上演中だ。そこでは三名の名前が歌われている。

 リー監督とバーンが協働したことで映画版は、さらなる当事者性と同時代性が加えられ、歴史が今に続く連続性を体現したものとなった。2020年のBLMの拡大は、人種を超えて広がったことに依るところが大きいが、バーンとリーが「共に語る」本作は、反人種主義運動が人種で分断されることなく、過去から現在、未来へとつながるという「ユートピア」を示したものになっている。

自分の「今」を見せ、歴史を語り直す
 さらに考えたいのは、デイヴィッド・バーンのアイデンティティである。人種差別に対する訴えでは、語りの中身とは別に、その声が当事者かという点が大きな意味を持つ。白人のスコットランド系アメリカ人(そして、貧しくもないだろう)のバーンが発するメッセージは、不可避にその属性を背負う。

 当事者性という点では、バーンが2012年にイギリスとの二重国籍を捨てアメリカで国政への投票権を獲得したことは大きい。「アメリカ市民」となり、彼自身、政治参加が「自分ごと」になったとインタビューに答えている。

「確かに世の中のシステムは全然完璧じゃない。政治不正もゲリマンダリング(不平等な選挙区割り)も、投票妨害もある。でも同時に、これらの課題解決に取り組んでくれる私たちの代表に投票することでしか、変化は起こらないんだ。私たちは“声”を持ってる。路上でデモをすることもできるけど、すべての市民は投票する権利という声を持っているんだ。これは長い時間をかけて勝ち取ってきたものだ。そこには失われた命があった。投票権を軽く扱っちゃダメだ。投票ができない国も山ほどある。私たちは、投票しなくちゃいけない」

 「アメリカのユートピア」という主題は、彼にとって民主主義の上でも「私たちの世界の話」となった。

 本作で用いられた楽曲も含めて、バーンはこれまでアイロニカルで風刺的な作品世界を生み出してきた。彼が、過去の楽曲も構成に入れて、アメリカ合衆国のユートピア=この世のどこにもない桃源郷について物語るならば、そこに否定的なシニシズムを読まれることは避けがたいかもしれない。しかしバーンが本作で実現したいことはそうではなさそうだ。実直に人々が協働して、新しいアメリカがユートピアになっていく可能性を見出したい、そんなポジティブなものである。

 これにはバーン自身の表現、また同時にアートヒストリーへの反省を必要とした。彼の過去の作風に付随するイメージを連続させつつ、現代社会において差別的であったり浅はかにならないよう工夫したようで、先に指摘したバランスの良さもこの結果ではないだろうか。現代の人々に誤解を持たれず、かつ自身のスタイルにも落とし込まなくてはならない。例えば、ライブツアー版で歌ったトーキング・ヘッズの代表曲〈Psycho Killer〉は猟奇殺人鬼の心象を扱ったものだが、ミュージカル版では、安易な社会悪批判または礼賛などと矮小化されるおそれがあるとして演奏するのをやめた。こうした微調整をしている。反人種主義運動を象徴する〈Hell You Talmbout〉をカバーするにあたっても、自身の非・当事者性が暴力として受け取られないか、モネイに直接「自分はこの曲を歌うことができるだろうか?」と相談したという。上演の中でも、女性の行進のときにその場にいてモネイが歌うのを聴いた、と触れた箇所がある。

 当事者性と対象との距離の取り方が非常に繊細な問題と受け取られる現在、「他者」が外側から安直な表現を行うことには共感が得られにくい。さらに、トーキング・ヘッズ時代にはプロモーションビデオの作中でブラックフェイス(=黒塗り。白人が黒人を演じた差別の歴史がある。過去記事の解説も参照)をする「失態」を犯したことも背景にあったと思われる。インタビューでも、無知だった当時の自分を反省していると述べている。

 これには、当時のニューヨークのアートシーンにおける、アバンギャルドとして「民族芸術」を扱う風潮について補足しておくべきかもしれない。例えば、1984年からニューヨーク近代美術館で催された「20世紀におけるプリミティヴィズム展:部族的なるものとモダンなるものとの親近性」では、キュレータのウィリアム・ルービンが、ピカソなど西洋美術史への非西洋芸術の影響や両者の類似性を強調する展示を企画した。これは「自文化」の近代西洋のアートの中に「異文化」を「発見」したり、また並列に見せようとする態度であり、文化相対主義と呼ばれる。文化人類学界隈などを中心に批評家たちからは、温情主義的な(=上から目線で過保護的な。パターナリズム)西洋中心主義だと批判された。この歴史の中でアメリカン・ユートピアを理解すると、アメリカ社会の多様性の高まり、あるいはアメリカ社会が「多様性」についていかに理解するようになったのか変化がよく見える。

 トーキング・ヘッズはミニマルなパンクに「民族音楽/ワールドミュージック」を取り入れたスタイルで知られた。1970年代後半からブライアン・イーノとのコラボレーションをきっかけにその傾向が高まり、アフロビートの名を世に広めたナイジェリアのフェラ・クティなどの影響下、ウェスタン・アフロ・ポリリズムなどの「民族音楽」的表現を多用した。植民地主義と帝国主義で非西洋を蹂躙してきた上に成り立つ西洋文化の実践において、「非西洋」を安易に“素材”にすることそれ自体の暴力性に自省的であれ――これがルービンの展覧会に対して文化批評家たちが投げかけた問いかけであるが、ポップミュージックシーンにおいてはこの批判はまさしくトーキング・ヘッズに対して問われるべきものであった(なお、クティは黒人解放運動にも参加して政治的な表現でも知られる)。

 しかし、美術界と比較してもポピュラー音楽界ではこうした「ポスト植民地主義批評」的な問いかけはあまり大きな声になってこなかったように見える。今回の『アメリカン・ユートピア』はバーンにとって、自身の表現やアートシーンにおける白人性への向き合い方を再提示する好機になったと言える。

 先にも触れたように、12名の演者には、肌の色や化粧など見た目からも多様性が伝わってくる。途中出身地を紹介するところがあり、アメリカでも東部・南部・中西部と様々で、国籍もフランス、カナダにブラジルと多様である。男女、女性、クィアを自認する演者もいる(とくに「多様性」を高めようという意図で演者を集めたのではないというが、とかくタテマエ的になりがちなこの点が目的化していないところもよい)。〈Hell You Talmbout〉のパフォーマンス前のトークでバーンはこう言う。

「この曲は可能性の歌です。変化する可能性。不完全なこの世界で。そして不完全な自分自身も。私もまた、変わらなくてはならない」

 バーンがブラックフェイスを行い批判されたのは、『ストップ・メイキング・センス』(1984)のプロモーションビデオだった。興味深いことに、これは多様な人物に扮したバーンが劇の主人公であるバーン自身にインタビューをしているというものだった。今回『アメリカン・ユートピア』で行った反省は、過去の自己を振り返ることでもあり、過去の自分が自分自身を見つめる仕方への反省なのである。この奇妙な符合は、「同時代の歴史」とは、主観からは逃れえないということへの省察をも示している。

他/人を観る
「ケーブルもワイヤーもない。ステージのどこにでも行ける。とても解放的だ。この演出について考えていて、気がついた。私たち「人間」が見るのが一番好きなのは、人々だってこと」

 劇中で、劇の演出自体にふれつつ、つまりメタフィクション的にバーンは言う。我々が本質的に大切にするのは「人」だ、という素朴でストレートなメッセージ。メタなアイロニーも風刺も効いてはいるが、それらは究極的には人のためにある。実直にこう宣言している。

 劇中で〈Everybody’s Coming to My House〉について、自分と高校生たちで解釈がこんなに違うと説明するシーンがある。

「自分にとっては、家に来た人々にうんざりして早く帰ってくれないかなっていう曲だった。同じメロディ、同じ歌詞。なのに高校生たちの読みは全然違ったんだ。たくさん人が来てくれて嬉しい、つまり社会包摂(インクルージョン)だったんだよ。ある意味こっちの方がいいよな」

 表面上は同じものでも、しかし、今の彼に見えているのは未来であり「人」である。高校生をとおして彼が見たのは、“まだ見ぬ”「自由」の可能性ではないだろうか。

 しかしなおもバーンらしいのは、その包摂を、理解し合えない「他者」同士の共存や認め合いだとしていること、そして、それをコミカルにオチにしているところだ。「彼らがどうやってそう解釈したのかはわからない。でも悲しきかな、自分は自分だからね」。単に同じ意見の持ち主で塊になるというだけでは、それは「善きこと」だとしても、また別の形の全体主義が生まれるだけだ。「他者」との共存について、「うんざり」なのか「人が多くて楽しい」なのか異なる解釈がぶつかり合う。「人」を見て、異なる解釈同士を認め合うことが、「リベラル/保守」などとグループで対立し合う分断の政治に効く一番の処方箋ということなのかもしれない。

 冒頭の曲〈Here〉がユーモラスに歌うのは、人間の脳がサウンドを「言葉」に変換して意味にすること、つまり「メイクセンス」することの傲慢さだ。ハーバーマスが「近代」のことを、ローティが「アメリカ」のことを「未完のプロジェクト」と名指したように、『アメリカン・ユートピア』という寓話は、まだ見ぬ、しかし見えつつある理念だという宣言から始まっているのだ。それはとても爽快だ。この感覚は、本作のルーツとも言えるトーキング・ヘッズ時代の演劇的コンサート映画『ストップ・メイキング・センス』が描いた「“意味がとおら”なくてもよい」のシニシズムから、『アメリカン・ユートピア』という「まだ見ぬアメリカの夢」という可能性の希求へと、デイヴィッド・バーンが歩みを進めたことから来ているのだろう。「アメリカ」という社会が「人」へと眼差しを向け、再構築を始めたことを感じさせてくれる。それが「ユートピア」なのだとしても。

選挙の前に観るアートミュージカル
 本作を二度観た。一度目は東京都議会議員選挙を週末に控えた日、二度目は衆議院議員選挙の公示日のすぐ後だった。偶然にも二度とも選挙の前だった。渋谷の劇場では、上映前に投票を促すCMが流れた。「毎日は未払いの請求書だ、そして毎日は奇跡だ」――劇中で〈Every Day Is A Miracle〉のサビが流れたとき、都議選のことが頭に浮かんだ。「個人的なことは政治的なこと」で、「海の向こうの話」ではない。これらがつながる小さな奇跡。

 次のテロップで映画は終わる。「ユートピアは「U」の文字、つまり「あなた」から始まる。世界中どこにいても、選挙人登録をしよう。(Utopia Start with U(You): Wherever you are in the world, please register for a vote.)」

 「アイロニー」から「ストレート」へ。デヴィッド・バーンの“転向”は「正しい」と「楽しい」を結びつけてくれて爽快だ。選挙の時期になると、「友達呼んでカクテルでも作って、アメリカンユートピアでも観るか」なんて言いたい気分。選挙や政治参加に感じがちな義務感とかより、政治を「お祭り」にしてくれる一作。

※本文中の訳出はすべて筆者による。
※映画版は、東京都など一部劇場で上映中。セル/レンタルは12月8日開始。演劇版は、BroadwayのSt. James Theatreで2022年3月まで上演中。

参考資料
Eric Kohn, “David Byrne on Voter Suppression and Talking Heads Reunion” IndieWire October 1, 2020.

Jem Aswad, “David Byrne Apologizes for Wearing Blackface in 1984 Promo Video” Variety September 1, 2020.

Toyin Owoseje, “David Byrne Apologizes for Donning Blackface in 1984 Video” CNN September 2, 2020.

Daniel Kreps, “David Byrne Can't Vote But Hopes You Will” Rolling Stone November 4, 2008.

“Janelle Monáe at Women's March: "I March Against the Abuse of Power”

HeadCount

David Byrne's American Utopia(※ブロードウェイでの上演情報)

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