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過激ポルノ誌「ハスラー」創刊者、英王室・エリザベス女王の夫、伝説的音楽プロデューサー……【2021年に亡くなった海外セレブ】

ByAdmin

12月 30, 2021 #海外

 世界中で新型コロナウイルスのワクチン接種が進んだものの、変異株の登場により昨年同様、パンデミックに苦しめられた2021年。その中で多くの命が失われた。新型コロナ以外でも、著名な海外セレブが惜しまれながら亡くなった。21年に亡くなった海外セレブ10人の人生を振り返りたい。

フィル・スペクター(音楽プロデューサー) 1月16日死去、享年81

 故ジョン・レノンが「史上最高のレコーディングプロデューサー」と称賛した、伝説的音楽プロデューサー。新型コロナウイルスによる合併症のため、1月16日に搬送先の病院で亡くなった。81歳だった。

 1960年代に、音圧を上げて迫力あるサウンドを作る手法「ウォール・オブ・サウンド」を開発。女性グループ「ザ・ロネッツ」の「Be My Baby」、男性デュオ「ライチャス・ブラザーズ」の「You’ve Lost That Lovin’ Feeling」(邦題:ふられた気持ち)など、61~65年の間にヒットした40曲のうち20曲をプロデュース。売れっ子として音楽業界に君臨した。

 しかし、薬物を常習していたため、70年代になると奇行が目立つように。過激な行動を繰り返して業界から干され、表舞台から姿を消した。

 03年に女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕される。第2級殺人罪で起訴され、09年に禁錮19年の有罪判決が言い渡された。フィルは容疑を否認しているため動機は明らかになっていないが、元妻や元恋人は彼のDV癖を証言している。

 カリフォルニア州の刑務所に収監されていたが、亡くなる4週間前に新型コロナウイルスに感染したため、刑務所外の病院に入院。治療を受け刑務所に戻ったが、呼吸困難に陥り再び病院へ搬送され、息を引き取った。

ラリー・キング(司会者) 1月23日死去、享年87

 1985~2010年まで続いたCNNの生放送トーク番組『ラリー・キング・ライブ』で、世界的に有名になった司会者。敗血症のため、1月23日に入院先の病院で亡くなった。

 ニューヨーク州ブルックリン出身。正統派ユダヤ教徒の両親のもと生まれ育った。9歳の時に父親が亡くなって貧困家庭になったため、高校卒業後は進学せずに就職。夢だったラジオDJは彼の天職であり、「巧みな話術でゲストの本音を引き出す」と評判に。開局間もないCNNでスタートした『ラリー・キング・ライブ』では、政治家、世界を動かす実業家・活動家、ハリウッドスター、トップアスリート相手に、一対一で1時間かけてインタビューを行い、トークの帝王と呼ばれるようになった。

 「誠実な人柄が話し相手の心をほぐした」と言われているが、私生活は波瀾万丈で、7人の女性と8回結婚。

 『ラリー・キング・ライブ』降板後もウェブ番組などで司会業は続けていたが、17年に肺の悪性腫瘍、19年には脳卒中に見舞われるなど、病に苦しめられた。20年12月に新型コロナウイルスに感染し、入院。コロナには打ち勝ったが、ほかの感染症に襲われ、敗血症で亡くなった。

 過激なポルノ雑誌「ハスラー」の創刊者で、映画化されたほど波瀾万丈な人生を送った。心不全のため、2月10日ロサンゼルスの自宅で亡くなった。

 15歳の時に年齢をごまかして陸軍に入隊。2度目の退役後、オハイオ州でバーを開業し、その後にストリップクラブ「ハスラー・クラブ」を開業。4番目の妻アルシアも事業に参加して、74年に「ハスラー」を創刊。女性器のアップ写真、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの隠し撮りヌード写真などを掲載したことで全世界から注目され、雑誌は飛ぶように売れた。

 78年、雑誌に黒人と白人の性行為写真を掲載したことに腹を立てた白人至上主義者男性から銃撃され、下半身麻痺の後遺症が残った。死刑判決が下った犯人に対しては、「自分と同じ傷は与えたいが、彼を殺したいとは思わない」と死刑回避を求めて話題になった。車いす生活になっても精力的に活動し、00年には「ハスラー・カジノ」をオープンさせた。

 私生活では5回結婚。亡くなるまで一緒だった最後の妻とは23年間も過ごしたが、「自分にとって最愛の女性はアルシア(87年に薬物の過剰摂取により溺死)」と公言している。6人の子どもに恵まれたが、「ハスラー」後見者になった娘テリーザ以外からは雑誌に関わりたくないと言われ、親子の縁を切っていた。

 英王室のエリザベス女王の夫。老衰のため、ロンドン郊外のウィンザー城で亡くなった。

 ギリシャ王族として誕生。政情が不安定になり、幼い頃に祖国を離れて亡命生活を送った。イギリス海軍に入隊し、第二次世界大戦に従軍。その後、イギリスに帰化し、マウントバッテン姓を名乗るようになった。エリート軍人で将来を有望視されていたが、エリザベス女王に見初められて1947年に結婚。共同統治者である「王配殿下」の称号が与えられなかったこと、王朝名が女王一家の「ウィンザー」のままでフィリップの姓である「マウントバッテン」に変わらなかったことなど、屈辱的な思いをしながらも、公務に誠心誠意励み、70年以上にわたり女王を支えた。チャールズ皇太子ら4人の子ども、8人の孫にも恵まれた。

 歯に衣着せぬ性格で失言も多かったが、国と女王への献身を貫いた人物として人々に愛された。高齢のため17年にはすべての公務から退き、公に姿を見せることはなくなったが、18年5月に執り行われたヘンリー王子とメーガン夫人の結婚式には上機嫌で出席していた。

 2月に感染症の治療のために入院。退院したものの、3月には心臓の既往症の検査を行うため再び入院し、健康状態が心配されていた。そんな中、王室を離脱したヘンリー王子とメーガン夫人の暴露インタビューが放送され、殿下は「狂気の沙汰」と周囲に漏らしていたと伝えられている。葬儀は英国放送協会BBCで生中継され、涙をぬぐう女王の姿に世界中の人々が心を打たれた。

 1980年代後半から活動を始めた人気ラッパー。4月2日に薬物の過剰摂取により心臓発作を起こし、懸命の治療が行われたが、ファンの願いもむなしく9日に死去した。

 ニューヨーク出身。家庭は貧しく、母親や母親の交際相手から虐待を受け、暴力的な子どもに育った。万引きや学校への放火などのトラブルを度々起こし、14歳で家出。母親に強制的に入れられたグループホームで、ヒップホップ好きな友達に出会い、ラッパーとしての活動を開始。ヒューマンビートボックスも得意で、91年にヒップホップ専門音楽誌「ソースマガジン」に“未契約の有望ラッパー”として紹介されたことで注目され、レコードレーベルと契約。下積みを経て、98年にリリースしたファーストアルバムが初登場で全米チャート1位となり、人気ラッパーの仲間入りした。

 有名になってからも法的トラブルを頻繁に起こし、薬物不法所持、動物虐待、無謀運転、養育費未払いなどで繰り返し逮捕・収監された。犯罪歴が多かったが改心し、09年にボーン・アゲイン(新生)・クリスチャンとして宣教師に。コロナ禍でも宣教活動を行っていた。

 子どもの頃からコカインに手を出したDMXは長年薬物依存に苦しみ、16年にも薬物の過剰摂取で死にかけたと伝えられている。晩年は全盛期のようなパフォーマンスは行えないほど衰えていたが、ヒップホップ・アーティストがバトルするライブストリーミング番組『Verzuz』にスヌープ・ドッグと出演。「東海岸の猛犬(DMX)と西海岸の狂犬(スヌープ)の“ドッグ対決”」と、ファンを熱狂させていたばかりだった。

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