近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『7番房の奇跡』
韓国でよく使われる言い回しのひとつに、「세상에 이런 법은 없다(セサンエ・イロン・ポブン・オプタ、世の中にこんな法はない)」というものがある。例えば濡れ衣を着せられたときや納得し難い状況に直面したときに、「こんな理不尽なことを許す“法”が世の中にあるわけがない!」と悔しさや理不尽さを強調するための表現だ。これがいつからどのように使われるようになったかは特定できなかったが、ある韓国の歴史からその背景を探ることは可能かもしれない。それは、法の名の下で不当な判決を繰り返し、「冤罪」の犠牲者を数多く生み出してきた、韓国の司法における負の歴史である。
帝王的独裁を敷いた初代大統領のイ・スンマンから、最も長く政権を維持したパク・チョンヒ、光州事件を首謀した罪を最後まで否認したまま昨年亡くなったチョン・ドファンとその後継者ノ・テウまで、韓国で長く続いた軍事独裁時代には、権力者の命令が法に優先して扱われ、彼らの意向に合わせて法が利用されていた。『弁護人』『1987 ある闘いの真実』『チスル』『殺人の追憶』などのコラムで言及してきたように、警察・検察の拷問による虚偽自白や証拠捏造、それに対する司法の黙認、法ではなく権力に従った判決など、当時の政治・社会的構造そのものが冤罪とその被害者を作り出してきたのだ。
受け入れがたい不当な判決を受けるたびに、被害者や遺族をはじめ多くの国民は、「世の中にこんな法があるはずない!」と憤慨してきただろう。そしてそれがいつの間にかひとつの言い回しとなって定着していったのではないだろうか。少なくとも法の執行において、司法が法に基づいた公正な判断ではなく、権力者の顔色を判決の尺度にしてきた歴史があることは事実だ。
今回のコラムでは、ファンタジーを交えながら冤罪を描いた『7番房の奇跡』(イ・ファンギョン監督、2012)を取り上げ、映画の基になったという実話や、「韓国史上最悪」と言われる裁判について紹介したい。死刑制度そのものは残っているものの、刑の執行は停止されて事実上死刑が廃止されている韓国の現状が、どのようにもたらされたかを知るヒントにもなるだろう。
<物語>
1997年、知的障害を持つイ・ヨング(リュ・スンリョン)は、幼い娘イェスン(カル・ソウォン)と2人暮らし。駐車誘導の仕事に就いているヨングは、イェスンが欲しがっていたランドセルを買うためにお金を貯めていたが、店にあった最後のひとつが売れてしまい、がっかりする。数日後、最後のランドセルを買った少女が、同じものを売っている店まで案内してくれるというのでついていくが、路地でヨングは転んでしまい、ようやく追いつくと、少女はなぜか倒れて死んでいた。訳がわからず、警備の仕事で教わった救命措置を施すヨングだったが、その様子が逆に怪しまれ、彼は誘拐と殺人の罪で逮捕されてしまう。
収監された刑務所の7番房の面々にいじめられるヨングだったが、ケンカに巻き込まれた房長(オ・ダルス)を自分の命を顧みずに助けたことで信頼を得る。恩義を感じた房長は、娘に会いたがっているヨングのため、聖歌隊の慰問を利用してイェスンを7番房に招き入れる。再会に歓喜する父娘の姿に、7番房のメンバーもヨングの無実を信じるが、アクシデントから帰りそびれたイェスンは、密かに7番房で一緒に生活することに……。
一方、自身もヨングに命を救われた刑務所課長(チョン・ジニョン)は、ヨングの罪に疑問を持ち、事件を調べ始める。そして亡くなった少女が警察庁長官の娘で、なんとしても犯人逮捕しなければならなかった警察の強引な捜査によってヨングが犯人にされてしまったことがわかると、刑務所総出でヨングに証言を練習させて裁判に備える。しかし迎えた公判でのヨングの証言は、練習とはまったく異なるものだった……。
知的障害を持つ社会的弱者が、権力によって殺人犯に仕立て上げられ、娘を守るために自らを犠牲にする――泣かせる映画の典型ともいえる本作は、「お涙頂戴作」「感動を強制してくる」といった批判が少なからずあったものの、1,280万人という驚きの観客動員を記録。韓国映画の歴代興行ランキングでも8位(映画振興委員会統計)と大ヒットを飛ばした。前回のコラムで取り上げた『エクストリーム・ジョブ』でうだつの上がらないコ班長を演じたリュ・スンリョンが、一躍スターとなった作品でもある。
本作で描かれる純粋な親子の愛情、刑務所内の友情が万人に受け、観客は泣いたり笑ったりしながら物語に共感したことは間違いないが、それ以上に、この映画が「死刑と冤罪」を描いている点、そして悲劇的な結末を迎えるこの物語が「実話」に基づいている点を見逃してはならない。
本作の基になった事件とは、1972年、春川(チュンチョン)で起こった「春川女児レイプ殺人事件」である。貸本屋にテレビを見に行く(テレビの普及率が低かった当時は、お金を取ってテレビを見せる貸本屋が多くあった)と家を出た10歳の少女が何者かに誘拐、レイプされて殺されたのだ。幼い子どもに対する残忍な犯行ゆえ、社会を震撼させたこの事件は、さらに被害者が警察署長の娘だったこともあって、警察は犯人逮捕に総力を挙げた。そして難航する捜査に激怒した当時の大統領パク・チョンヒは、警察の家族が殺される=国家権力がなめられたことになると叱咤し、10日以内の犯人逮捕を厳命したのだ。
軍事独裁政権下、絶対的であったパクの命令に追い詰められた警察がとった手段は、犯人を「捕まえる」のではなく「作る」ことだった。証拠や目撃者を「捏造」した警察は、満を持して貸本屋の店主、チョン・ウォンソプを犯人として逮捕、彼が犯行のすべてを自白したと発表した。その後の裁判でチョンは、「自白は拷問によるものであり、警察が証拠として提出した。血液は自分とは血液型が異なる」と無実を主張したが、それらは徹底的に無視された挙げ句、無期懲役の判決が言い渡されたのである。
犯人逮捕後の過程で、警察、検察、裁判官たちの眼中に「法の下で保護されるべき人権」はみじんもなかった。彼らの目に映るのは、パクの「顔色」のみだったのだ。チョンは15年の服役後、模範囚として仮釈放された。彼は己の無実を証明しようと何度も再審請求をしたが、その都度退けられた。2007年「真実・和解のための過去史整理委員会(過去史委)」が再調査に乗り出し、裁判所に再審を勧告してやっとやり直し裁判が認められて、もちろん「無罪」の判決が下された(「過去史委」についてはコラム『KCIA 南山の部長たち』を参照)。
だが、殺人犯のレッテルを貼られ、本人のみならず家族までもが社会からの厳しい非難と差別の中で生きなければならなかった歳月と、踏みにじられた人生は二度と取り戻せない。真犯人は明らかにならないままであり、権力の手下になった司法が招いた悲劇として記憶されている事件である。
映画は、物語の大枠においては実際の事件を下敷きに用いているが、最終的な判決は無期懲役から「死刑」に変更している。それによって悲劇的な効果が高まり、観客の涙を誘っているわけだが、そこにはもうひとつ、死刑制度のあり方を問いかけるメッセージが込められていると考えられる。なぜなら、物語の時代設定が「1997年」であるからだ。
韓国では97年を最後に死刑の執行が停止されており、国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」からも「実質的死刑制度のない国」と分類されている。民主化が進んだ90年代後半、この事件のような冤罪による被害、中でも人の命を奪う「死刑」(特に軍事独裁時代は、権力の暴走による理不尽な死刑が多発した)をめぐっては慎重になるべきだという議論が高まって以来、死刑廃止の賛否について、いまだ世論が対立している状態である。
こうした議論は、パク政権時代に実際に死刑宣告を受けたキム・デジュン元大統領が、在任中に死刑廃止を主張してから始まったとされている。そして廃止論者がその根拠として言及する代表的な裁判が、「司法殺人」の代名詞ともなっている「人民革命党事件」である。略して人革党事件とも呼ばれるこの出来事は、64年と74年にKCIAが「北(北朝鮮)のスパイ」と罪を捏造したことで無実の人々が死刑になったという、独裁政権の最も悪らつで汚い手口が露呈した事件だ。
64年といえば、翌年結ばれることになる日韓基本条約の締結に反対する学生デモが、連日全国各地で繰り広げられていた。それに対してパク政権が非常戒厳令を敷き、大々的な鎮圧に乗り出すと、KCIAはデモの混乱に紛れて「北の指令を受けて人民革命党を組織し、国家をかく乱しようとしたアカ(共産党員)たちを検挙した」と発表。ジャーナリストや大学教授、学生らを拷問し、彼らが存在すらしない「人民革命党」の党員で、国家の転覆を企んだと自白させたのだ。あからさまな捏造と凄まじい拷問に、さすがの検察も起訴を断念しようとしたが、KCIAは逆らうことのできない相手であり、良心にさいなまれた担当検事は4人中3人が自ら辞職する結果となった。
その後、捏造の疑惑と拷問に社会は強く反発。結局「捏造された主犯」たちは懲役1~3年の実刑判決を受けたが、そうでなければ間違いなく死刑になっていたことだろう。だがこれは序の口にすぎなかった。それから10年後、韓国史上最悪と言われる2回目の人民革命党事件、いわゆる人民革命党再建委員会事件の裁判が彼らを待っていたのだ。
72年、永久独裁をもくろんだパクが、憲法まで改悪して「維新体制」を宣言する(維新体制についてはコラム『1987 ある闘いの真実』を参照)。
三権分立などお構いなしですべての国家権力を一人の独裁者に集中させた維新体制は、国民の自由と民主主義を踏みにじる前近代的なものだと当初から反発は大きく、中でも大規模な学生デモは独裁政権にとって何よりの「脅威」だった。どんな手を使ってでも抑え込みたかったKCIAは74年、またしても「学生デモを背後で操っているのは北のスパイ」とのでっち上げを発表した。そして、KCIAの筋書きに合わせて、10年前に「人民革命党党員」と決めつけれた被害者たちを含む新たな「北のスパイ」が引きずり出されたのである。
かつて「人民革命党党員」に仕立て上げられた被害者たちは、10年の時を経て、今度は党を再建し、学生デモを背後で操り国家転覆を狙ったとして、再びKCIAによって「北のスパイ」の汚名を着せられることとなったわけだ。裁判では事件の「主犯」と名指しされた8人に死刑が言い渡され、当然上告したが、大法院(最高裁判所)が棄却し、刑が確定。
そして信じがたいことに、刑の確定からわずか18時間後の75年4月9日に死刑が執行され、無実の8人の尊い命が奪われたのである。驚くべき速さでの死刑執行は、家族にすら知らされなかったという。独裁者に逆らえばこうなるという見せしめのような仕打ちであった。
あまりに短時間のうちに行われた独裁政権の蛮行は、国内外からおびただしい非難を招いた。アムネスティ・インターナショナルは抗議声明を出し、国際法律家委員会(ICJ)はこの死刑を「司法殺人」と非難、執行日の4月9日を「司法暗黒の日」と宣言するに至った。人民革命党事件をめぐる裁判と判決は、韓国の消えない汚点として、世界に記憶されることになったのである。
この事件はその後、2000年に当時のキム・デジュン政権が立ち上げた「疑問視真相究明委員会」(前述の「過去史委」はノ・ムヒョン時代の名称で、両者は同じような位置づけ)が再調査によって、捏造による冤罪事件であることを発表、犠牲者たちの再審が行われ、07年、8人は無罪となった。その死から30年以上がたって彼らの名誉は回復されたが、権力のスケープゴートにされて奪われた命を思うと、そのむなしさが晴れることはない。
このように、冤罪と死刑をめぐる2つの歴史的事件の教訓として、韓国では97年以来、死刑執行が停止されている。映画『7番房の奇跡』は、刑務所を舞台に父と娘のあり得ない奇跡が展開するファンタジーではあるが、最終的に「死刑の執行」が2人に決定的な別れをもたらし、成長した娘は自分自身で父親の名誉を取り戻す。そこには、韓国の悲しい歴史とその転換点となった「1997年」という数字がしっかりと埋め込まれており、作り手たちの強い気持ちを見いだすことができる。
映画の終盤、刑務所内で仲間が作った気球に乗り込んだヨングとイェスンは、そのままフワフワと空高く舞い上がっていく。観客の誰もが「なんとかこのまま2人を脱出させてあげたい」と思ったに違いない瞬間、刑務所の壁にロープが引っ掛かり、2人は元の場所に戻されてしまう。観客がどんなにヨングの無罪を望んでも、間違った裁判で理不尽な判決が出ても、「悪法も法だ」という言葉がある通り、法は守られなければならない。気球の場面は、そのことを象徴的に描いている。
だからこそ、私たちは法が「正常に」機能しているかを常に監視しなければならない。独裁時代が終わったとはいえ、「権力」が厳然と存在する限り、いつどんな巧妙な手法で彼らが再び「法」を乗っ取るか知れないからだ。今の韓国で死刑は執行されていないが、制度そのものはなくなっていない。「世の中にこんな法はない!」と叫びながら死んでいく人が、二度と現れてはならない。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。