時短、カンタン、ヘルシー、がっつり……世のレシピ本もいろいろ。今注目したい食の本を、フードライター・白央篤司が選んでご紹介!
今月の1冊:『今夜すきやきだよ』谷口菜津子著
心がモヤモヤしてならないとき、妙に料理したくなることがある。
食べ切るのに数日かかりそうなほどの豚汁を仕込んだり、あるいは手間ひまかけてじっくり肉豆腐に挑みたくなったり。それで何かが解決するわけじゃないけど、無心に具材の皮むきをする時間が、またはアク取りをしつつ煮えていく鍋中をぼんやり見つめている時間が、ほんのちょっと自分の気持ちを洗ってくれて、スッキリとさせてくれるのだ。
だから私は、本作の主人公のひとり「ともこ」にまず共感した。どうにもうまくいかないとき、腑に落ちないとき、彼女の心は料理に向かう。フリーのイラストレーターで絵本作家のともこ。売れておらず、生活は苦しい。それでもともこは仕事が行き詰ったときなど、「豚(のかたまり肉)を塩で8時間ひたすら」煮たり、丸鶏で参鶏湯を仕込んだりする。彼女もきっと「料理する時間」に、心ほぐされているんだろう。
ともこは小さい頃から料理が大好きで得意だった。「いいお嫁さんになれるね」「いいお母さんになれるよ」と周囲は言う。でも、そういう未来がまったくイメージできない。30歳になった今、恋愛感情が薄い、むしろ興味がないという自認がハッキリとある。
「私、何かが足りないのかって不安だった」
彼氏や恋愛に興味がないと言うと、「そんな人いるわけない」「変」と一語のもとに否定されてしまう。ともこはこれまでに、何度否定されてきたんだろう。
対してもうひとりの主人公「あいこ」は根っからの恋愛体質、結婚に憧れている。イキがいいというか、周囲から「姉御って呼ばせてください」なんて言われるタイプ。家事は超苦手、上手になる気もサラサラない。内装デザイナーとして活躍し経済力もある。家事は代行にして生涯働きたいと思っているのに、惚れるのは「良妻賢母」的なものを求める男ばかり。
ふたりは高校の同級生で、久々の再会から共同生活を始めるんですね。家事はすべてともこが担当、その代わり家賃はあいこが多く負担。利害の一致から始まったシェアハウスだけれど、だんだん信頼関係が深まっていく描き方がなんともテンポがよくてコミカルかつ、深い。
全編を通じてふたりはよく飲み、よく食べ、よく語り合う。あるときは揚げたての天ぷらを食べつつ晩酌し、あるときは朝から手づくりの肉まんをほおばる。その肉まんは牛すじ入りが“ともこ流”だ。
作者の谷口菜津子さん描く食べものがねえ……魅力的なんだ、とっても。ポップで流麗で勢いのある線が印象的。ただおいしそうなだけでなく、食いしん坊な料理好きが実際に考えそうなことがちょいちょい織り込まれてくる。“スーパーで安かった魚で作ったなめろうに漬物を刻んで加えてみた”、なんて小技がたまらない。こういうディテールが「ともこ」という人間に厚みを加えていく。
「普通ってなんだ?」というのが本作のひとつ、テーマだと思う。周囲から「普通はこうでしょ」「普通はそんなことしないよ」的なことを言われて疑問を感じたり、どうにも息苦しくなったことって、ないだろうか。
ともこもあいこも、私は普通じゃないのか、普通でなきゃいけないのか、ということを考え、悩む。けれど、自分でも同じような「普通の押しつけ」をしてしまうことがある。第4話であいこがともこに指摘されて反省する展開がね、いいんですよ。速やかに、しなやかに自分の価値観を見つめなおし、謝る。かくありたいよなあ、なんて思ったり。
だんだんと彼らは「補い合う関係」から「支え合い、鼓舞し合う関係」に成長していく。結婚観も含めて自分を見つめ直すあいこ。作家として何を描きたいのか突きつめて考え抜くともこ。ふたりが終盤、すき焼きをつつく多幸感にあふれるシーンを、ぜひ一緒に味わってほしい。
蛇足かもだが、最後に書いておきたい。
同性愛含め恋愛の多様性はいろいろなところで言われる時代になってきたけど、恋愛や性愛に興味がない、という人たちの存在も「普通」のひとつになったらいいな、と私は思っている。
人間、自分と違うことはすぐ「普通じゃない」と思ってしまいがちなもの。そんなときに「普通って、なんだろう」「私は決めつけをしてるかも……?」なんて立ち止まって考えられる人が少しでも増えたら……硬い言い方だけど、より良い社会になるんじゃないだろうか。
『今夜すきやきだよ』には同じ思いが満ちているようで、読んでいて嬉しかった。
白央篤司(はくおう・あつし)
フードライター。「暮らしと食」をテーマに執筆する。 ライフワークのひとつが日本各地の郷土食やローカルフードの研究 。主な著書に『にっぽんのおにぎり』(理論社)『自炊力』(光文社新書)など。
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