近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『バッカス・レディ』
ミスク(ユン・ヨジョン)は1950年、朝鮮戦争が始まる1週間前に生まれた。戦争についての記憶はないが、それが残した悲惨さだけは、身に染みるほど経験しながら成長した。彼女の故郷は韓国にはない。戦争勃発後、両親が南北軍事境界線(=北緯38度線)以北から南へ避難してきたためだ。南には親戚も友人もいない両親が、戦後の混乱の中で流れ着いたのは、北からの避難民たちが集まる貧民街、解放村(ヘバンチョン)だった。
避難民たちは「38따라지(サムパルタラジ)」と呼ばれ、冷遇・差別されて、北の出身という理由で厳しく監視もされた。幼いミスクにとって、サムパルタラジとは戦争以外の何物でもなかった。そんな状況の中でも、両親は生き延びるため昼も夜もあくせく働いたが、貧困はあまりにも重い足かせだった。
その足かせからは、ミスクも自由ではなかった。いやむしろ、それは分厚い壁となってミスクの人生に立ちはだかった。中学を卒業した彼女は、同じ境遇の多くの少女たちがそうであったように進学を諦め、「식모살이(シクモサリ、食母暮らし)」を始めた。
貧しい家の少女が、経済的に余裕のある家に預かってもらう代わりに、無給で家事を手伝う――シクモ(食母)とはそんな存在だった。食べさせてもらうだけでも感謝しろということだ。ご飯の支度、洗濯、掃除から夜の戸締まりまで、終わらない家事に明け暮れる毎日が何年続いただろうか。だが、ミスクの家は一向に楽にならなかった。口を減らすだけではだめだ、金を稼がなければ意味がない。ミスクはシクモサリを辞める決心をした。
新聞広告を見たミスクが訪れたのは、ソウルの清渓川(チョンゲチョン)にある小さな「工場」だった。子どもたちの縫いぐるみを作るその工場で、ミシンかけの仕事が彼女に与えられた。仕事は単純だったが、朝から晩まで、ときには徹夜で、ほとんど休憩もなく彼女はミシンをかけ続けなければならなかった。
地下のミシン室は狭く、換気もできずにほこりにまみれていた。何度か喀血し倒れたこともあったが、ミスクは粘り強く耐えた。「給料が欲しければ働け!」と怒鳴る社長の声が耳に刺さる。「このままでは死んでしまう!」とミスクは叫びたかった。あまりにも理不尽な境遇だったが、そう思うたびに目に浮かぶのは両親の顔だった。自分が倒れれば両親は生きていけない。我慢を重ねたミスクの体は日に日に衰弱していった。そんなある日、彼女のもとにある誘いが舞い込んだ。1970年、ミスクがちょうど20歳を迎える年だった。
それは、お国のために米軍を慰安する仕事、「米軍慰安婦」への誘いだった。工場の前で、若い女性に声をかける男をニュースや新聞で見たことがあった。当時新聞では「(北の)人民軍から韓国を守ってくれている米軍兵士の心身を癒やすことこそ愛国である」と「政府も奨励」しており、慰安婦たちは「外交官のような存在」だと持ち上げられていたが、ミスクはそんなことはどうでもよかった。実際世間では양공주(ヤンゴンジュ、洋公主)と蔑まれていることは百も承知だったが、お金が必要なミスクに、この誘いを断ることは到底無理だった。
報酬はドルでもらえて、工場で働くより何倍も稼げるというのは、どんな言葉より魅力的だったのだ。数日後、工場を辞めた彼女は、男と一緒に「동두천(ドンドゥチョン、東豆川)」行きのバスに乗った。京畿道北部にある東豆川は、米軍基地と周りを囲む基地村(キジチョン)で知られた町だ。ミスクは、○○クラブという看板の掛かった古いアパートの一室に案内された。廊下にはすでに何人もの米軍兵士が彼女を待っていた。
こうしてミスクは「ソヨン(So-young)」になった。まだ年若い彼女につけられたニックネームだった。米軍兵士相手の売春がどんなにつらくとも、それでお金を稼いで家族が幸せになれるのなら我慢できるとミスクは思っていた。だが、いくら働いてもお金はたまらなかった。収入のほとんどが、米軍兵士のあっせん料や家賃、食事代などの名目で「パパ」と呼ばれる男に奪われ、いつしか借金ばかりが膨らんでいった。
ミスクが基地村にいることを知られて以来、両親との連絡も途絶えてしまった。彼女の居場所はもう基地村にしかなかった。絶望して自暴自棄になったこともあったが、ミスクには、ソヨンとして基地村で生き続ける以外に選択肢はなかった。
それからどれほどの歳月が流れただろうか。60歳を過ぎたミスクに、もはや米軍兵士の慰安はできない。「ソヨン」を求める米軍兵士は10年も前からいなかった。それでもミスクは残りの借金返済のため、若い米軍慰安婦たちの世話役に回り、掃除や洗濯に精を出した。そして返済が終わった今、ようやくミスクは基地村を離れる時が来たと思ったのだ。
バスターミナルに向かうミスクは、悪夢のような日々の中で、つかの間に味わった幸せを思い出していた。かつて、「スティーブ」という黒人兵士と恋に落ち、2人は子どもを授かった。必ずミスクと子どもを呼ぶからね、と約束を交わして帰国したスティーブだったが、その約束が果たされることはなかった。
スティーブと愛し合い、これまでの苦労が一気に報われるような幸せを感じていたミスクに、さらに過酷な現実が待っていた。赤ん坊を抱えたままでは仕事にならないので、やむを得ず子どもを海外養子縁組に出した。ミスクはずっと、赤ん坊を捨てた悪い母親だと自分を責めながら生きなければならなかった。心の片隅ではスティーブからの便りを待っていたが、連絡が来ることはなかった。それでもミスクは、自分の人生はそう悪いものでもなかったと思う。米軍兵士に殺された慰安婦は数知れず、死には至らなくても殴られ、蹴られるという暴力は日常茶飯事だったからだ。
ソウルに出てきたものの、ミスクにできる仕事などほとんどなかった。生まれながらの貧困が、今もなおミスクを苦しめていた。食堂の手伝いなどで辛うじて生計を立てていたある日、ミスクは妙なうわさを耳にした。鍾路(チョンノ)にあるタプコル公園に、老人男性相手に売春をする「박카스 할머니(バッカス・ハルモニ、バッカスおばあさん)」がいるといううわさだ。己の年齢を考えて何度もためらったが、覚悟を決めてコンビニでバッカス(日本でいう「リポビタンD」のような栄養ドリンク)を何本か買うと、ミスクは鍾路へと向かった――。
以上は、高齢者の売春や貧困問題をテーマにした『バッカス・レディ』(イ・ジェヨン監督、2016)を見て、映画に登場するいくつかの手がかりをもとに、当時の韓国社会と照らし合わせつつユン・ヨジョン演じるミスクのそれまでの人生を描写したものだ。
あくまで私の想像を小説の形式を借りて書いたにすぎないが、本作を見て真っ先に私の頭に浮かんだのは、ソヨン(本名はミスク)の存在が持つ悲しい歴史の文脈だった。映画の冒頭でバッカス・ハルモニとなって公園にたたずむ彼女が、どんな人生を歩んで、なぜそこに立っているのか、「何が彼女をそうさせたのか」を理解する必要があると思ったのだ。今回のコラムでは、ソヨン(ミスク)の人生を通して、本作の意味を考えてみたい。
<物語>
鍾路一帯で老人男性を相手に売春をして生活している67歳の「バッカスおばあさん」のソヨン。客の間では“セックスのうまい女”として、鍾路一の人気を誇っている。性病の治療のために訪れた病院で偶然出会った混血児の少年ミノ(チェ・ヒョンジュン)を保護したソヨンは、トランスジェンダーの大家・ティナ(アン・アジュ)や義足の青年ドフン(ユン・ゲサン)らが暮らすアパートにミノを連れ帰る。
ある日ソヨンは、脳梗塞で倒れた常連のソン(パク・ギュチェ)から「自分を殺してほしい」と依頼される。かつての凛々しさを失い、家族からも見捨てられたソンへの憐憫に駆られたソヨンは、迷いつつもソンの頼みを受け入れる。これをきっかけに、ソヨンには同じような依頼が相次ぎ、彼女は戸惑いながらも彼らの死に手を貸すようになる……。
物語からもわかるように、本作は高齢者問題のみならず、トランスジェンダーや障がい者、混血児といった社会的弱者を中心に置き、「弱者が弱者を助ける」構図を見せることで、逆にそこに福祉や人権が不在・欠如していることを可視化した。本作はほかにも、韓国社会が抱えるさまざまな問題を含んでいる。その詳細を見ていこう。
ソヨンの過去が推測できる手がかりとして、劇中には4つのセリフが登場する。出てくる順は前後するが、「38따라지(サムパルタラジ)」-「식모살이(シクモサリ、食母暮らし)」-「工場」-「동두천(ドンドゥチョン、東豆川)」の4つだ。ソヨンが自らの過去を語ることはほとんどないが、言葉少なに彼女が口にするこれらの単語だけで、韓国人ならば彼女が「差別と蔑視、貧困」の中で生きてきたことに気づくだろう。
映画の中盤で、鍾路を追われたソヨンは、新たな立ち場所を求めてソウルの公園をさまよう。そこで本名の「ミスク」と呼びかけられたソヨンは、かつての知り合いと再会し、観客はソヨンが「ドンドゥチョン」という基地村の「米軍慰安婦」だったと知ることになる。そして、恋人だった米軍兵士のスティーブに捨てられ、彼との間に生まれた子どもを海外養子縁組に出したことも。さらに、バッカス・ハルモニの取材をするドキュメンタリー監督に請われて、しぶしぶソヨンは、「シクモサリ」や「工場」で働いた後に米軍慰安婦になったと語る。
そして終盤、ソヨンはミノ、ティナ、ドフンを誘って遠出をする。そこは38度線近くの臨津閣(イムジンカク)だ。ティナの「お姉さんはサムパルタラジだったのよね?(字幕では「38度線を越えた?」)」との問いかけに対し、ソヨンは遠い目で「その言葉を久しぶりに聞いた」と話す。最後に刑務所で彼女の生涯が終わったとき、朝鮮戦争が勃発した1950年から2017年までを生き、無縁仏となったソヨンの人生の全貌が観客に理解されるのだ。
コラムの冒頭に書いたソヨンの人生は、こうした手がかりに基づいて想像力を働かせたものだ。さらに、60年代後半、仕事を求めて地方から上京する少女が激増し、「食母」「工場」「バスの車掌」が三大職業だったという社会状況や、町工場が集中していたソウルのチョンゲチョンで、劣悪な労働環境にデモが多発し、70年には活動家のチョン・テイルが抗議の焼身自殺を遂げたといった歴史も加味している。だがその中でも、「米軍慰安婦」についてはもう少し説明を加えておきたい。
「米軍慰安婦」という言葉自体は、朝鮮戦争直後から新聞の見出しに登場するが、公式的な行政用語として浮上するのは、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権下でのこと、きっかけは69年の「ニクソン・ドクトリン」であった。当時の米大統領ニクソンが発表したアジア防衛の新政策に、韓国からの米軍撤収が含まれていたのに慌てたパク政権は、米軍の撤収を止めるために躍起になった。そこで米軍側の要請に従い、「基地村の環境改善」と「米軍慰安婦たちの性病予防の徹底」を実践したのである。
「基地村浄化運動」(1971〜76)と称して、全国の基地村に性病診療所を設置。定期的な検査を実施したほか、英語やアメリカ文化に関する教育を行い、米軍兵士に対してより丁寧な接待のできる「米軍慰安婦」を養成した。さらに、地域の市長や警察署長が頻繁に訪れて、「あなたたちこそ愛国者だ」と慰安婦たちを激励した。法律では売春を禁じていたにもかかわらず、米軍慰安婦に関しては法律を無視して政策として積極的に推し進めるという矛盾を、パク政権は躊躇なく実践し、守るべき自国の女性を惜しむことなくアメリカに差し出し続けたのだ。
だが実際、米軍慰安婦がメディアの話題になったのは、「お国のために献身する愛国者」としてではなく、米軍兵士によって惨殺された「被害者」としてであった(米軍兵士による慰安婦殺害事件に関しては、コラム『グエムル 漢江の怪物』を参照)。
2000年には、耳の不自由な68歳の元慰安婦が、米軍兵士と部屋に入った後に凄惨な遺体で発見されるという痛ましい事件も起きている。散々体をもてあそばれた挙げ句に、あっけなく殺され捨てられる道具としての慰安婦を生んだのは、韓国という「お国」であり、女性を性的客体として位置付けてきた韓国の「男性中心主義」にほかならない。「サムパルタラジ」から「シクモ」へ、そして「ソヨン」から「バッカス・ハルモニ」へと、ミスクがミスクであることが一度としてなかったのは、その象徴であると言えよう。
このように考えると、ソヨン=ミスクが、老い衰えてプライドを失った男たちを、彼らの望み通りに「殺してやる」のは、彼女の人生を絶えず踏みにじってきた「男性(中心社会)」への彼女なりの復讐ではないかと思えてならないのだ。
脳梗塞で倒れて体が思い通りにならないから殺してくれだと? 物忘れがひどくなったから死にたいだと? 妻が先立って寂しいからあの世に行きたいだと? ふざけるな! 私の人生に比べれば、おまえたちはどれほど幸せな人生を送ってきたことか。わかるか? おまえたちにはわからないだろう。こんなことくらいで死にたいだの、殺してくれだの、あきれて物が言えないよ。どこまでもバカな男たち、だったらいくらでも殺してやろうじゃないか。
心優しいミスクだが、その奥には、こんな無意識が渦巻いていたのではないだろうか。韓国現代史の陰で常に犠牲を強いられてきたミスクには、男たちの死への願望は、「贅沢な甘え」としか映らなかったに違いない。
ちなみに、90年代後半、戦時中に日本の従軍慰安婦だった女性が初めて名乗りを上げて以来、韓国にとって「慰安婦」は日本との歴史問題にとって極めて重要な存在となり、神聖化されることになる。そして、韓国がアメリカのために法を犯してまで用意した「米軍慰安婦」はあらゆる意味で邪魔とされ、その名は抹殺された(※)。ミスクのような存在は、最後までお国の都合でもてあそばれたのだ。
※2010年代に「基地村浄化運動」に関する資料が公開され、歴史に埋もれてきた問題として浮上した。また、14年に元慰安婦たちが国家賠償訴訟を起こし、2審では初めて国家の責任を認める判決が出た。しかし、現在も最高裁で係争中。その後、元慰安婦たちの名誉回復と生活支援の救済法が発議されたが、進展がない。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。