“親子の受験”といわれる中学受験。思春期に差し掛かった子どもと親が二人三脚で挑む受験は、さまざまなすったもんだもあり、一筋縄ではいかないらしい。中学受験から見えてくる親子関係を、『偏差値30からの中学受験シリーズ』(学研)などの著書で知られ、長年中学受験を取材し続けてきた鳥居りんこ氏がつづる。
中学受験というものは、時に「残酷なイベント」と評されることがある。
その理由のひとつに、我が子そのものの価値ではなく、数字上の価値のほうを重視しがちになるということが挙げられている。保護者が「〇中学に合格できなければ失敗」「偏差値60以上でなければ行く意味なし」という考え方に縛られてしまうと、そのリスクが上がってしまいかねないので注意が必要なのだ。
もちろん、偏差値が高く、大学進学実績も良い中高一貫校が素晴らしい学校であることに異論はないが、私の長い取材経験から言わせていただくならば、どの中高一貫校も高い教育理念のもとに運営されており、総じて恵まれた教育環境にあるといえる。要は数字よりも、本人に合っているかどうかのほうが重要なのだ。
耕平くん(仮名)の父親である洋平さん(仮名)は家庭の事情で大学に行くことが叶わず、学歴社会が色濃く残る企業に高卒で入ったものの「辛酸をなめた」というサラリーマン人生を送っていたそうだ。しかし、数年でその暮らしに見切りをつけたという。
「学歴があるってだけで与えられる仕事の内容も違いましたし、もっと言えば、大した仕事もできない人間が学歴の傘に守られて出世していくような会社だったので、これじゃダメだと思って、金を貯めて夜学に入り直したってわけです。たまたま、私はうまくいきましたが、それでも、遠回りをしたことは否めず、耕平には私のような苦労は絶対にさせてはならないって思っていました」
洋平さんは苦労の末に、ある士業職に就き、独立して今は幅広く事業を展開している、いわゆる“成功者”であるが、この経験があるために、息子である耕平くんには早い内に「ゴールデンルート」を与えてあげたかったのだそうだ。
「当時は努力すれば、中学受験の勉強なんて楽勝だ! って思っていましたから、模試の結果が悪かったら、耕平を叱責するなんて当たり前でしたね⋯⋯。この中学(最難関中学)に行きさえすれば、将来の安泰切符を得られると思い込んでいましたから、中学受験の3年間の頑張りなんて大した苦労じゃないって思って、やっぱり、すごく勉強はやらせていました」
耕平くんは模試の成績も決して悪くはなかったそうだが、結果的に第3志望校にしか合格できなかったそうだ。
「驚きましたよ。まあ、第1志望校は無理だったとしても、合格率80%をコンスタントに出していた第2志望校もダメ。耕平が入った学校なんて、私の時代には不良が行く底辺学校だったものですから、正直、ガッカリはしましたね⋯⋯」
洋平さんの妻、佐智子さん(仮名)は笑いながら、こう語る。
「主人は、中学受験で燃え尽きたみたいで(笑)、中学入学後は耕平には関わらなくなったんですよ」
一方、洋平さんは苦笑いを浮かべながら、こう振り返る。
「ちょうど、新規事業を立ち上げる時だったんで、“関わらなくなった”というより、“関われなくなった”ってのが正しいんですが、まあ、中学生になったら、半分、大人のようなもんですから、あとは本人次第。親がどうこう言うこともないと思って、引いたって感じですが、耕平の学校が思いのほか、信頼できたってのもありますね」
耕平くんが入学した学校は、実際は洋平さんが思っていたような学校ではなく、だいぶ前から難関校のひとつとしてカウントされている学校なのだが、耕平くんには水が合っていたようで、耕平くんは部活に行事にと活躍。本人曰く「めちゃめちゃ充実していた」6年間を過ごすことができたという。
「親父は、さっき『スパルタだったので、それはよくなかったかもしれない』って言いましたけど、(多忙で)家にいる人じゃなかったんで、物理的接点がそんなになく(笑)。言うほど厳しくはなかったですよ。どっちかというと、僕の場合、中学受験の塾が結構、楽しくて。勉強すると、それなりに学力が上がるのが自分でわかるので、攻略ゲームみたいな感覚でした。ただ、第1志望校に入れなくて、期待していたであろう親には申し訳ないなっていうのはありましたね⋯⋯」
耕平くんの学校には、耕平くんが受験した第1志望校に落ちて入学してきた生徒もたくさんいたそうで、クラスメイト同士で「あの算数の大問3が天下分け目だったな!」という話をして盛り上がったりもしていたようだ。
耕平くんは現在、超難関とされる国立大学に通っているが、大学受験を成功させたモチベーションを聞いたら、こう答えてくれた。
「今、思えば、中学受験は自分の意思で始めたものではなかったっていうのが大きかったですね。ある日、突然、親父に命令されて『おまえは、この中学に行け!』でしたから(笑)。高校になって、周りも進路を考えだすようになるんですが、その時、友だち同士でこう言い合ったんですよ。『俺ら、大学くらいは(自分で決めた)第1志望に行こうぜ!』って」
耕平くんの通った中高一貫校は「(大学)受験は団体戦」と捉えている学校で、学校側も挫折を経ての入学者が多いことは重々承知している。
「我々は再生工場でもあるんですよ。そのためにも入学したら親御さんは(子育てから)手を引いてほしい。自分で自分の道を決めたヤツほど強い者はないですから」と、先生が親に子離れを促している学校でもある。
耕平くんの夢は、将来的にはお父さんの会社を引き継ぎ、自分の専門分野を生かして、さらに事業を大きくしていき、お父さんとともに、いっそうの社会貢献をしていきたいのだそうだ。