“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
中村万里江さん(仮名・36)は、末期がんの母、晃子さん(仮名)を最期に高次脳機能障害の父、博之さん(仮名・69)と過ごさせたいと考え、隣県の有料老人ホームに2人を転居させることにした。
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母と兄、3人で最後の自宅生活
晃子さんが退院して、ホームに移るまでの4日間、中村さんは母と兄の3人で過ごした。生活保護を受けて大阪で暮らしている兄を呼ぶことに、不安がなかったわけではなかった。
「兄に帰って来るか聞いたら、『来る』と言うので。兄はお願いしたことはやってくれるようになっていたので、まあいいかと思いました(笑)」
訪問看護師の手配などはしていたが、自宅にいる間はホーム入居の準備、親戚や晃子さんの友人対応で忙殺された。晃子さんの瞑想グループの来訪は伯母から断ってもらったという。
夜中の介護も想像以上に大変だった。
「母は30分から1時間おきに起きるので、兄は『全然眠れなかった』とこぼしていました。翌日は私が介助したのですが、兄の言うとおり、寝ようとすると起こされるんです。これは体がもたないと思い、3日目は兄と交替で介助をすることにしたので、ちょっと楽になりました」
そして晃子さんはホームに移った。訪問看護師から晃子さんの状態が厳しいと伝えられていたので、翌日には博之さんも入居した。
「十数年ぶりに家族全員が揃うことができました。コロナ禍でしたが、看取り期なので、家族の面会も許されていたんです」
その後、晃子さんの状態は徐々に低下していった。一度尿量と血圧が低下し、危ないと連絡が来た。兄も再び上京してホームに泊まったが、幸いヤマは越えた。
「これからこうしてたびたびホームに呼び出されても、自宅から1時間以上かかるのですぐには行けません。それでホーム近くのホテルに泊まり込むことにしました。ちょうどGO TOキャンペーンもはじまっていて、恩恵を受けることができたのはラッキーでした」
ホテルに泊まり込んで2週間。ホームに面会に行きつつ、ホテルから仕事にも通った。博之さんもたびたび晃子さんの部屋を訪れ、2人で過ごしていた。
「父はずっと母の手を触っていました。失語でしたが、歌は歌えたので、『上を向いて歩こう』を歌っていましたね」
そして、がんばってきた晃子さんの最期のときが来た。
「1週間くらい、ときどき10秒くらい息が止まることがあったんです。『はい、息して!』と呼びかけたりしていたんですが、このときも母が大きく息を吸って、吐いて、また呼吸するだろうと思って待っていたら、それが最期でした。これがあの最期にするという下顎呼吸だったのか、と冷静に考えていました」
「今日がヤマ」と言われてから2週間。晃子さんの最期に立ち会えたのは、貴重な時間だったと中村さんは振り返る。
「いずれ私も死ぬんですし。最後の医師の処置なども興味津々でじっと観察していました」
博之さんは、晃子さんの死を理解していたのだろうか。
「母が息を引き取ってまもなく昼食の時間になって、食堂に行く途中にある母の部屋にいつものように入ってきました。母に近寄ると、『生きてる』と言ったんです。それから、食事をしたあとにまた部屋に入ってきて、看護師さんが処置をしてくれている母の姿を見て、『アーメン』と。亡くなったとわかったのかな、と思いました」
晃子さんの部屋を片付けたあと、葬儀社が引き取りに来るまでに、最期に晃子さんに会うならこのときしかないと、博之さんを呼んだ。
「でも父はなかなか動きません。ようやく連れて行ったら、突然大声で『死んでる!』と。それからは興奮してしまって、戻らなくなりました。葬儀社の方が見えて母を外に出そうとすると、父も興奮したまま外に行こうとする。それをスタッフが止める……ほかの入居者がそれを見ると、母の死に号泣している父の悲しい別れの場面に見えたらしく、ほかの方たちももらい泣きされていて……なんだか不思議に笑える光景でした」
こうしてものごとを俯瞰的に見ることができたのは、いかにも中村さんらしい。
――続きは5月15日公開