近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。そんな作品をさらに楽しむために、意外と知らない韓国近現代史を、映画研究者・崔盛旭氏が解説していく。
ペ・ドゥナ主演映画『私の少女』
「同性愛は精神病であり、喫煙者が禁煙治療を受けるように治療すれば治る」――このような同性愛に対する偏見と無知に満ちた発言がまさに今、韓国で大きな物議を醸している。
発言の当事者は、今月10日に発足したばかりのユン・ソンニョル政権の中枢を担う大統領秘書(大統領の国政運営を補佐し、直接関与する最重要ポスト)の一人。しかも、担当は「宗教・多文化分野」だった。この発言が秘書のFacebookから発掘されると、国内で大きな批判を巻き起こし、ユン大統領の人を見る目の乏しさや、任命責任を問う声が一気に高まることに。批判の矛先がこれ以上大統領に向くことを恐れたためか、最初は逃げ口上を並べていた秘書も、素早く辞任する機敏さを見せた。ただ、辞任後にもSNSを通して「僕の考え方に変わりはない」と、ゆがんだ信念を長々と発信、再び炎上した。
5年ぶりに保守派政権を奪還し、意気揚々と出航の旗を揚げたユン大統領にとっては、舵を取るや否や暗礁にぶつかったような結果といえる。だが注目したいのは、今の時代においてなお、異性愛のみを正しいと押し付ける儒教的伝統に基づく「異性愛イデオロギー」に、韓国社会がとらわれていることだ。このような人物が大統領秘書にまで上り詰め、なんら躊躇なく発言できてしまうさまを見れば、韓国における異性愛イデオロギーは根深く、そして、同性愛は徹底して抑圧、排除され続けてきたことがわかるだろう。
韓国で同性愛が公の場で議論されるようになったのは、社会全般に民主化が進み、性や人種、宗教などの違いによる差別をなくし「多様性」を認めようとする動きが出始めた1990年代後半である。とりわけ2000年に入り、映画やドラマで活躍していた俳優のホン・ソクチョンが韓国の芸能人として初めてゲイだとカミングアウトしたことは、同性愛をタブーとしてきた韓国社会に大きな衝撃を与え、社会的な議論に火を付けた。
だが、議論といっても実際は、当時の新聞記事に「私はホモ」「男が好き」といった類いの見出しが並んだことからもわかるように、ホンの勇気ある行動に対する嘲弄や嫌がらせがほとんどだった。結局、ホンは俳優活動を中断せざるを得ない状況にまで追い込まれたが、このことは韓国社会が同性愛をどう捉えているのか、その社会通念を端的に物語る出来事でもあった。
それでも、ホンによって触発された同性愛をめぐる議論が消えることはなく、次第に同性愛者を含む性的少数者(LGBT)の人権や、「異性愛イデオロギー」に抵抗した性の多様性を訴える運動にシフトしていった。インターネットを中心とする同性愛コミュニティや、2001年に始まった「韓国クィア映画祭」はその良い例だろう。
しかし同時に、こうした社会の動きをはるかに上回る形で、LGBTへの嫌悪や反発もまた強力になっていった。現に、国家・自治体による同性婚の不認定や、逆に認めてもらおうと法の判断を求める人々に対する保守的市民団体によるバッシング、さらに、LGBT集会へのヘイトスピーチが頻繁に起きている。一部では「同性愛反対法」という、性的アイデンティティの選択の自由を奪うような悪法の制定を促す動きも出ている。
このように韓国では、LGBT文化や多様性に対する社会的理解が成熟していく道のりを、社会自らがことごとく遮り、妨害しているといえる。そこで今回は、依然として未熟な状態にある韓国のLGBTは何と闘い、どう生き延びればいいのか、物語を通して象徴的に提示している『私の少女』(チョン・ジュリ監督、2014)を取り上げ、その答えを探ってみたい。
『私の少女』あらすじ
14歳の少女・ドヒ(キム・セロン)は、継父のヨンハ(ソン・セビョク)と祖母から虐待を受けながら、人里離れた閉鎖的な海辺の村で孤独な日々を送っている。ある日、ソウルから村の警察署長として赴任してきたヨンナム(ペ・ドゥナ)は、村の子どもたちにいじめられていたドヒを助ける。そこで、ドヒへの虐待を知ったヨンナムは自宅に保護し、次第にドヒもヨンナムに懐いていく。
だが、2人の幸せは長く続かなかった。ヨンナムに強い不満を抱くヨンハが、ヨンナムと同性の恋人がキスをしている様子を目撃し、「同性愛者」と騒ぎ立てたからだ。実は、ヨンナムは同性愛を理由に左遷され、この村に赴任したのだった。ヨンナムから引き離され、元の生活に戻されてしまったドヒは、ヨンナムと自らのために大胆な行動に出る。それは、今までのドヒとは思えない、衝撃的なものだった。
本作は、韓国映画界の名匠、イ・チャンドン監督が製作に名を連ねている。近年はプロデューサーとして、マイナーながら重要な作品を送り出しているイ監督の元からは、本作のチョン・ジュリ監督のみならず、『冬の小鳥』(09)のウニー・ルコントや、『君の誕生日』(19)のイ・ジョンオンといった女性監督が多く輩出されていることは、注目に値する。
おそらく、韓国社会のまだ語られていない部分を、女性監督ならではの繊細で緻密な視点から追求してほしいという期待がイ監督にはあるのだろう。
「弱者(子ども、女性、同性愛者)への暴力」の理不尽さをリアルに描いた『私の少女』は、カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で上映され、国内外の映画祭で多くの好評を得た。さらに、チョン監督の新作『다음 소희(次はソヒ)』(22)は、今年のカンヌでも批評家週間の閉幕作品に選ばれる快挙を成し遂げている。
チョン監督の手腕はいうまでもないが、主演ながら『私の少女』にノーギャラで出演し、『다음 소희』でも主役を務めるペ・ドゥナの存在も重要だ。
これまでも、ポン・ジュノ(『ほえる犬は噛まない』『グエムル~漢江の怪物』)や是枝裕和(『空気人形』『ベイビー・ブローカー』)、ウォシャウスキー姉妹(『クラウドアトラス』『ジュピター』)といった世界の巨匠たちと仕事をしてきたトップスターであるぺ・ドゥナが、オファーが絶えないであろう中で『私の少女』の出演を選んだ。
それは、ペ・ドゥナ自身が誰よりも韓国社会の問題点と、韓国映画が何を描くべきかに対して自覚的であることを物語っているだろう。これからも、彼女が選ぶ仕事に注目していきたいと思わせてくれる、韓国が誇るべき女優である。
それでは、『私の少女』の内容を具体的に見てみよう。本作では、LGBTに対する差別と偏見だけでなく、家庭内暴力(DV)や児童虐待、いじめ、そして外国人労働者への暴力に至るまで、さまざまな形の暴力が描かれている。したがって、どの暴力に重点を置いて語るかによって複数の見方もできれば、韓国社会が抱える総体的な暴力の問題として扱うことも可能だ。
そのような意味でも非常に鋭さを持った作品といえるのだが、今回はLGBTに対する暴力を中心に、登場人物たちが象徴していることや、映画のメッセージについて探ってみたい。
2人の主人公、ドヒとヨンナムをLGBTに対する偏見や差別という暴力を軸に捉えると、ドヒが象徴するものは明らかだ。家庭内暴力やいじめにさいなまれ、少女としての健全な成長も、平凡な生活を送ることもままならないドヒは、嫌がらせやヘイトなど、あらゆる暴力によって成長を阻まれ、社会として依然未熟な状態に置かれている韓国の「LGBTをめぐる社会的現実」を象徴する存在といえる。
こう考えると、偏見や差別という暴力にさらされ、傷ついたまま自らを抑圧の中に閉じ込めている「LGBTの当事者」であるヨンナムが、ドヒをこれ以上暴力の渦中に放置してはいけないと、必死に保護しようとするのは当たり前のように見える。ヨンナムにとってドヒを守ることは、「LGBTをめぐる社会の成熟」を確保することにほかならない。
だが、2人の前には儒教的な男性中心主義の象徴ともいえる継父や、その男性中心主義に加担する祖母が立ちはだかっている。継父はヨンナムを警察署長としてではなく女性として常に見下し、「親が娘をしつけるのもダメってことか」と何の罪意識もなくドヒに暴力を加える、典型的な儒教的男性だ。彼こそがドヒの成長を妨害する最大の敵であり、立ち向かって闘わなければならない壁なのだ。
また、祖母は息子のヨンハに対し狂気に近い執着を見せる、男児選好の亡者のような存在だ。「お父さん(息子)の言うことを聞かない」という理由でドヒを容赦なく殴ったり、ドヒに暴力を振るう息子を逮捕しようとするヨンナムに向かって「私の息子を殺す気か!」と怒り狂う祖母の姿からは、韓国における「息子に対する母の執着の強さ」が垣間見える。ドヒは、そんな儒教的男性中心主義の暴力の中に監禁されているといえるだろう。
本作において、未熟な韓国社会を象徴しているドヒが、継父や祖母の暴力から解放され、成長と成熟を遂げるためには、どうすればいいだろうか? 映画では「祖母の死に関与(疑い)し、継父を誘惑して罠に陥れる」ドヒの行動が描かれるが、そこにはLGBTを「病気」と断定し、「不道徳で不潔で罪」であるとしてきた「異性愛イデオロギー」にとらわれている前近代的な儒教的思想を断罪し、理性や論理に頼らない力ずくの脱却を訴える、作り手の強烈なメッセージを見いだすことができる。
ドヒと共に村を後にするヨンナムの姿は、決してハッピーエンドとしては描かれない。しかし、それまでの抑圧から解き放たれようとしている2人を通して、韓国の現実と希望が提示されたといえるだろう。
韓国には「끼리끼리(~同士)」文化というものがある。「男女七歳にして席を同じゅうせず」という言葉を引くまでもなく、幼い頃から「男女別々」の観念が頭に焼き付いている社会において、「男同士」「女同士」という概念はごく自然な文化であり、そこでは手をつなぐ、肩を組む、抱き合うといった同性同士のスキンシップは、当たり前のように「友情の印」を意味していた。
だが、同性同士の「ホモソーシャル」な関係は、「ホモセクシュアル(同性愛)」を徹底的に排除する異性愛イデオロギーの上に成り立っているため、そこにわずかでも同性愛の気配があると、「~同士」文化は根底から崩れることになる。
韓国社会におけるLGBTへの異様なまでの拒否反応は、己が築き上げた儒教、異性愛、ホモソーシャルな伝統の崩壊に対する無意識の恐怖であり、その脅威がすでに現実のものとなりつつあることを、この映画は教えてくれるのである。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。