はじめまして、元金融屋事務員のるり子です。過去に都内の貸金業者に就職した私は、平成の間、営業及び経理事務の担当社員として無数の取り立て現場を見てきました。今年で52歳、定時制高校を卒業してから、世間的に「おばさん」と言われる年齢までこの仕事を続けてきた“元闇金おばさん”でございます。
皆さん、そもそも“闇金”をご存じですか? ドラマや映画で闇金をテーマにした作品を見たことがあるかもしれませんが、「国や都道府県に貸金業としての登録を行っていない貸金業者」のことを指します。私が勤めていた会社は、都知事の認可を受けた正規の登録業者で立派な登録証も掲げているので、一見にして法を順守する業者にみえますが、その実態は闇金業者と変わりませんでした。それどころか登録業者だということを強みにして、堂々と不正行為を行う有様で、警察や弁護士に対しても臆することなくキツイ取り立てを強行していたのです。
思い返せば、働き始めた当時は、サラ金(消費者金融のこと)や街金(商工ローン業者や小規模貸金業者のこと)による悪質な取り立てが社会問題となっており、ワイドショーなどでも「サラ金地獄」として定期的に特集を組まれていました。大声を出して威圧したり、勤務先に押しかけて居座るのは序の口のことで、家の玄関扉に「金返せ」「泥棒」などと貼り紙をされることも珍しくありません。
所持する金目のものは全部換金され、市中のサラ金業者を回らせて金を作らせたり、車や時計をローンで買わせて取り上げることも多かったです。法的に責任のない親族に対する取り立ても横行しており、実印と印鑑証明の重みを痛感する毎日でした。夜逃げした多重債務者の家は、占拠されるのが当たり前の時代で、金融業者の取り立てにより自宅を奪われる人がたくさんいたのです。
そんな時代の中、私のいた会社は、マンガ『ナニワ金融道』(講談社)の舞台である「帝国金融」と同じような組織で、その東京版みたいな感じといえばわかりやすいでしょうか。社長室にある巨大な金庫の中には、唸るほどの札束が保管されており、慣れぬうちは目に入るたびにドキドキしたものです。
具体的に、どんな会社だったかというと、主たる貸付対象は法人で、手形・小切手(当座預金で決済される。不渡りを2回出すと銀行取引が停止されるため必死に金策する)を預かり、連帯保証人(保証人と違い債務者同様の返済義務を負う)をつけさせ、多くの債権書類(借用書や保証契約書をはじめ、不動産や動産、売掛金などを簡易に押さえることのできる書類)を担保に貸し付ける「商工ローン」(事業者向け貸金業者のこと)をメインに取り扱っていた業者でした。
当時、学歴など資格的に応募できる会社は限られていたし、特にやりたいことも見つからなかったので、「なるべく給料が良くて残業のない職場」を就職情報誌(「とらばーゆ」か「サリダ」だったと思います)で探した結果、この会社に辿りつきました。
今回は初回なので、本題に入る前に自己紹介を兼ねて、私の生い立ちからお話ししたいと思います。
昭和45年、葬儀屋を営む家に生まれた私は、子どもの頃から、家の仕事のことで差別的に扱われることが多く、あまり友達のいない学生生活を送っていました。
「るり子の家に行くと、おばけに憑りつかれる」
小中学生の頃には、このようなうわさを立てられ忌み嫌われ、家に友達が来るようなことはなかったです。心霊写真のブームが起こった時には、特に激しくイジメられ、私自身がおばけ扱いされるようになりました。そのため、集合写真に写るのが嫌で、遠足や修学旅行の時には仮病を使って休んでいたので、楽しい思い出はありません。
学校内でも、多くのイジメを経験しています。買ってもらったばかりの靴を入れた下駄箱に絵の具を撒かれて台無しにされたり、通学カバンの中に大量のカマキリを入れられたこともあれば、大きなイボガエルのペアを机の中に入れられたこともありました。
ごく少数ながらかばって助けてくれる級友もいましたが、当時流行していた『ビー・バップ・ハイスクール』(講談社)に影響されたイジメっ子たちにそんな声は届くはずもなく、卒業までのあいだコンスタントにイジメられていたのです。男子に強く背中を叩かれて前のめりに転倒した結果、額を切って大流血したときには、「違う仕事をしてくれ」と泣きながら両親に懇願して、困らせたこともありました。
「きちんと葬ってあげないと、みんな天国に行けないんだ。お前に意地悪する人たちも、死んだときにはウチを頼って頭を下げにくるから、いまは我慢しよう」
実際、イジメっ子軍団の一員であった男子生徒の母親が若くして急逝されたときには、家族総出でお礼に来てくれました。それ以降、その子からイジメられることはなくなり、初めて父の言葉が理解できたのです。そしてこの言葉は、闇金で働いていた時に、何度も思い出すことになります。
その後、地元から離れた町にある私立の定時制高校に入学したことで、ようやくイジメから解放された私は、卒業するまで父の手伝いをしながら学生生活を終えました。その父が、腰を悪くして葬儀屋を廃業することになり、就職先を探すことになったのです。
面接の約束を取り付け、東京池袋の雑居ビルに入居する事務所に入ると、銀行のように殺風景で感情の見えない雰囲気を感じました。見るからに高級なテーラーメイドのスーツに身を包む社長に出迎えられ、通された応接室で懸命に書いた履歴書を差し出したところ、葬儀屋の娘であることに関心を持たれて質問されます。
「葬儀屋さんの手伝いってことは、ご遺体を目にすることもあったの?」
「はい。斎場や祭壇の設営を手伝うことがあるので、お花を入れたりするときには、一緒に合掌させていただいています」
「若いのに、大したもんだなあ。こんなこと聞いて申し訳ないけど、怖くない?」
「怖くはないですけど、事故で亡くなられた方とか、亡くなってから時間がたっちゃっている場合には、違う仕事をさせてもらっています」
ご遺体の損傷が激しかったり、腐乱している場合などには、ご遺体に近づく作業がないよう父が配慮してくれていました。目にするご遺体は安らかに眠っておられる方ばかりで、怖いと思ったことはなく、むしろ物言わぬお客さんを接待している気持ちでいたほどです。天上からチェックされていると思うと気は抜けず、一つひとつのことを丁寧にやらなければ、いずれバチがあたると思い込んでいる自分もいました。
「君ならウチでやっていけそうだな。明日から来てくれるか?」
どうやら物怖じしない気持ちの強さが気に入られたようです。すぐに採用となった私は、翌日の午前8時45分に出勤することになり、その日は区役所で住民票を取って帰宅しました。
入社当初の従業員は、早口で滑舌の悪い大阪出身の社長以下、営業部には男性社員が6名在籍しており、それに創業時から社長の下で働いているという経理責任者の愛子さんと私、合計9名の所帯でした。営業部で5年以上継続して勤めているのは、空手の有段者でVシネマ役者のような風貌を有する営業部長の伊東さんだけで、そのほかの人はまだ2年足らずの在籍です。
いま思えば、従業員を定着させるためによく社員旅行を企画し、行き先を海外など魅力的な場所にすることで福利厚生の充実を図っていたのでしょう。せっかく採用されても、あまりに非情な取り立てに耐えかねて退職してしまう人は多く、取り立てる側の精神負担も相当なものだと想像できます。
当時の法定上限金利は、出資法で年利54.75%までとされていましたが、実際には10日で1割から月1割(ツキイチ)くらいの金利で貸し出されます。もちろん違法な金利ですが、表向きの書面は法に則しており、現金を手渡しで貸し付けるため証拠は残りません。手数料や調査費、出張費といった名目を駆使して、証拠が残らないように領収証を切ることなく天引きしていたのです。
この業界が一番儲かっていた時期は、昭和40年代から平成15年くらいまでの間でしょうか。日栄・商工ファンド事件が起こり、闇金融業者が社会問題となって貸金業法が改正されて以降は、さまざまな制約の下、苦しい営業を強いられました。借り手が強く保護されるようになって旨味がなくなり、商売が成り立たなくなってしまったのです。
会社が廃業した現在、このような形で過去を振り返る機会をいただいたので、懺悔の意味合いも込めて、次回からは当時のエピソードをお話ししていきたいと思います。
※本記事は、事実を元に再構成しています
(著=るり子、監修=伊東ゆう)