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ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】

 ジャニー喜多川さんが亡くなってから早3年。7月9日の命日にその功績を偲んで、ジャニーさんと縁が深いアメリカ・ロサンゼルスの「高野山米国別院」にお話を聞いてきました。同院は、僧侶だったジャニーさんの父が戦前に主監を務め、ジャニーさんきょうだいが生まれ育った場所。2019年8月、ジャニーさんが亡くなって1カ月後にジャニーズJr.の美 少年が同地で公演を行い、最近でもTravis Japanが訪れるなど、現在でもジャニーズ事務所とつながりのある寺院です。高野山米国別院の第10代主監、松元優樹さんにジャニーさんや喜多川家にまつわる歴史を聞きました。

・松元優樹(まつもとゆうき)
米国ロサンゼルスの高野山米国別院、第10代主監。1979〜82年まで高野山米国別院に開教師として赴任。その後、シアトル高野山に5年務めて帰国。2020年1月から高野山米国別院で主監を務める。

ジャニー喜多川さんの父、 3代目主監・喜多川諦道先生

 高野山真言宗の海外布教が始まって、公式には今年で110年になります。1912年、米国へ船に乗ってひとりのお坊さんがやってきました。ロサンゼルスには既に日本人の移民が住んでいましたので、浄土真宗はじめ、さまざまな日本の仏教がロサンゼルスで開教していました。真言宗の教宣に関しては1912年ということになっています。

 高野山真言宗の組織は、いわゆる管長猊下(げいか)という宗教上のトップがおりますが、運営側のトップとして宗務総長というお役職があります。その下に、教学部長とか財務部長、法会部長というお役職があり、宗教団体としてのピラミッドができています。それが、高野山真言宗という宗教団体の組織です。

 明治期、すでに日本人の海外移民は行なわれていました。中国大陸をはじめ、ハワイ、アメリカ太平洋沿岸地域に進出していた日本人に対し、高野山でもこれらの地域での開教に強い関心を持っていたのです。そこで、時の管長猊下より北米宗教事情を視察と開教を命じられた青山秀泰(しゅうたい)というお坊さんが、1909年(明治42年)、船に乗ってサンフランシスコに上陸したのでした。

 その方がこの高野山米国別院、初代主監・青山秀泰先生であります。真言宗が北米大陸に初の布教所「米国大師教会」を設立したのが12年(明治45年)ですから、実に3年もの間、苦労を耐えて初志貫徹されたということです。青山先生は1921年(大正10年)に帰国されました。

 青山先生の跡を継いで米国大師教会第2代主監に就任したのが高田宝戒(ほうかい)先生という方でした。高田先生は1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで主監をお務めになられました。この方も非常に秀才でして、説教をさせたらほかの宗派の人も敵わないというくらいお話が上手な方だったそうです。

 そして、3代目が喜多川諦道(たいどう)というお坊さんです。この喜多川諦道先生こそ、ジャニー喜多川氏のお父さまです。この方の履歴が面白い。

 世の中にはいろいろなタイプの人間がいるように、お坊さんにもいろいろなお坊さんがいます。諦道先生は、明治29年に大分県でお生まれになりました。諦道先生が13歳のとき、高野山に登って、お坊さんの修行を始めました。諦道先生のお葬式をしたのは、高野山の山の中にある普賢院様というお寺ですが、この普賢院様に、諦道先生は弟子入りをしました。その関係で、普賢院さんにお葬式をお願いをすることになったんだろうと思います。

 諦道先生がお坊さんになった当時の普賢院様のご住職は、重松寛松僧正という方でした。重松僧正はいろいろな政界、財界の方と懇意にされていらしたそうです。その中のお一人が大隈重信さんでした。重松僧正が上京する際には、しばしば諦道先生をお伴としていたようで、諦道先生も、大隈さんから可愛がられていたようです。

 そのようなご縁があったことから、諦道先生も胸の内に海外への関心は大きくなったようです。しかも、このような中央政財界の方から「あなたも、一度世界を見てきてはどうか」と勧められ、十分な餞別まで喜捨していただき海外に行く段取りをしました。こうして世界一周の旅の準備も整い、1923年(大正12年)9月15日の船の予約をとり、アメリカに向けて出港することにしていました。

 ところが、9月1日に関東大震災が起こったために、諦道先生は一時渡航を延期してお見舞いのために上京されます。この時、永田秀次郎東京市長より犠牲者の供養を依頼され、遺骨を持って高野山までお帰りになったというエピソードが残っています。実際に諦道先生が外遊の旅に出たのは、翌年の1924年(大正13年)の2月でした。

 また、こんな話もあります。外遊の準備を進めていた時、大阪の山下敬二郎外事課長という方が喜多川先生の「諦道」という名前を見て、「もしあなたが僧侶であるなら『開教師』の辞令を所持していたほうが何かと便利であろう」と助言をしてくれたおかげで、時の高野山宗務長であった藤村密幢師に願い出て辞令を交付してもらい、渡米したという経緯が残されています。

 諦道先生は、サンフランシスコ行きの船に乗り合わせていた米国大師教会信徒の植松磯男氏のすすめで、ロサンゼルスの大師教会に参拝し、高田主監にあいさつをしました。そして、高田先生に手伝いを頼まれてしばらく滞留することになりました。

 最初は2〜3カ月のつもりでしたが、高田先生が急に日本へ帰国することになり、「次の先生が来るまで」という約束で大師教会を任せられることに。しかし、なかなか後任者が現れなかったために、諦道先生は一大決心をして大師教会のために尽力することを決め、大阪から栄子夫人を呼び寄せたのです。ここに、喜多川諦道第3代主監が誕生したのです。

 喜多川先生は、とにかく非常にユニークな方で、ご自身のことを「ヤクザ」「遊び人」と平気で言う方でした。とはいうものの、それだけにとどまる人ではなかったことは明らかです。そうでなければ、10年間も教会の運営に携わることなどできたはずがないのです。諦道先生の帰国後は、どういう経緯か定かではありませんが、大阪で「杵万」というおかき屋、ぜんざい屋をやったりするほどの方で、ちょっと桁外れな、お坊さんらしくない方ですね(笑)。

 諦道先生は、1924〜34年まで10年間主監を務めました。その間に喜多川さんがやったことのひとつに、ものすごく大きなことがあります。それは「グループを作る」ということだったんです。

 まず、真っ先に手をつけたのは、諦道先生の主監就任時にすでに衰退していた「大師教会婦人会」を復興させることでした。なんと、喜多川先生は教会で料理講習会を開いたのです。当時、ロサンゼルス第一と言われていた料理人を招き、日本料理から西洋料理に至るまでを講習してくれるというので、あっという間に大人気となり、教会に入り切らないほどの盛況ぶりであったと聞いています。その上達した料理の腕前を披露したのが、日本海軍水兵さんたちへの歓迎・接待会でした。

 ロサンゼルスから南におよそ1時間のところに、サンペドロという港があります。そのサンペドロに日本からの軍艦が着く。軍艦が着くと、日系人はこぞって将校さんとか、いわゆる上の位の方々のお接待をしていました。

 でも、諦道先生は違いました。高野山の婦人会はペーペーの水兵さんたちを「いらっしゃい。お接待してあげますから、うちにいらっしゃい」と招待していました。だから、その昔、高野山は「水兵さんのお寺」といわれるほどでした。

 やがて、この高野山婦人会の奉仕活動は世間が知るところとなり、手伝いを申し出るご婦人方や食材を寄進してくれる人々も現れ、ロサンゼルス日系人社会では名物となっていったのです。この企画、立案、実行によって高野山婦人会が急速に充実していったことは言うまでもありません。

 また、「ボーイスカウト第379隊」の結成は諦道先生の大きな功績の一つです。大師教会には信徒の子弟を中心に、青年会、少女会、日曜学校がありましたが、折り目正しい生活と、強い倫理観、責任感を養い、かつ全世界共通の規律によって規制された人種差別のないボーイスカウトのスポンサーになろうと、諦道先生は決心したのです。この隊はのちに、米国中で最も優秀な活動だと選ばれて、アメリカ大統領に謁見をすることになります。

 そんなボーイスカウトの晴れ舞台は、2019年に美 少年(ジャニーズJr.)も出演した、リトルトーキョーのフェスティバル『ニ世ウィーク』(二世週日本祭)のパレードで先頭を行進すること。この行進は今でも続いているのです。諦道先生はボーイスカウト379隊の初代チャプレン(宗教的指導者)として名を残しています。

 このように、エンターテインメントや、団体を立ち上げこと、人を喜ばすことにものすごく頭の切れた方が、実はジャニーさんのお父さまだったのです。

 今ここは「高野山米国別院」という名前で、「米国大師教会」時代から名称と建物が変わっていますけれども、新しいお堂を作ろうというムーブメントを起こしたのも喜多川先生です。

 諦道先生を中心に多くの人たちが集まってくるので、お堂が狭くなってどうにもならなくなりました。折りしも米国大師教会の地主であった会社から立ち退きを命じられ、ほかの場所へ移らなくてはならない事態が起こったのです。そして、このリトルトーキョーのど真ん中に土地を求めることになり、そして今「高野山米国別院」というのがここに建っているわけです。

 さて、喜多川先生がいよいよ日本に帰ることになると、ものすごい活躍をした方だけに、当然地元の日系人からは惜しまれるわけです。「まだ帰らないでくれ」という署名運動も起こり、アメリカの日系人の新聞「羅府新報」に「温情開教師喜多川師出発。誰からも持たれし親しみ」というタイトルのもとに10年間に及ぶ師の開教生活を讃える記事が新聞に載ったくらい、帰国が悲しまれたそうです。

 記事には、「大師教会開教師喜多川諦道師は愈々明日午後四時出帆の秩父丸に乗船,家族同伴帰朝の途に上る事になった。(中略)大師教会の事業は,救済,社会矯風,教育凡百の方面に亘って居るが,水兵の歓迎,困窮者の救助,下町方面の諸問題の解決等謂はば侠客的な潜行運動が多く,それは喜多川開教師の温情主義から発生した救民衆生済度で,在留同胞の実情からして無くてはならない一つの社会運動であった。従って個人的にでも団体的にでも同師の世話を受けた者は少なくない。今回の帰朝に際しても協会員は勿論一般同胞からも惜しまれて,引き止め運動なども起きたが事情止むなく,故国の教化界に入って活動することになったのである」(原文ママ)と載っています。

 そして、喜多川さんは日系人社会から感謝状をもらって、秩父丸という船で、昭和8年(1933年)8月26日に長く住み慣れたロサンゼルスに数々の思い出を残して日本に帰ることになりました。

 ここに、「高野山米国別院五十年史」というのがあります。その中に、喜多川諦道先生については、何ページにもわたって功績がつづられ、記録が残っています。

 終戦から4年後の昭和24年(1949年)、ジャニーさんらきょうだい3人は学業修了のために、またロサンゼルスに帰ってきます。高校を卒業するためですね。それはごきょうだいがアメリカで生まれ、アメリカの市民権を持っていたからこそ実現したのです。そのときに米国別院にいたのが、高橋成通先生というお坊さん。喜多川諦道先生の後を受けてやってきた4代目の主監です。

 ジャニーさんきょうだいは高橋先生とも面識があったので、よく別院にも出入りをしていたようです。それは、ジャニーさんの好きな芸能がたくさんあるところだったからです。父・諦道師が心血を注いできた芸能が、その後もこの別院で受け継がれていました。ジャニーさんは別院で催し物があるときは、よくアルバイトとしてステージ周りの手伝いをしていたそうです。

 当時、ジャニーさんは、リトルトーキョーで写真館を営む、写真家であり米国別院の信徒である宮武東洋さんの家族と仲が良かったようです。この宮武さんは、戦前・戦中・戦後を通して日系人の写真を撮り続けた人物で、日系人界では名の知られた方です。

 宮武さんは人気写真家で、戦後すぐの頃日本からロサンゼルスを訪れた有名人・芸能人のほとんどを撮影していて、宮武さんのアルバムには、1953年に訪米した当時の皇太子(現・上皇)も写っています。ここに、ジャニーさん兄弟と高橋さんの長女、フランセス中村さんが一緒に撮影した写真があります。フランセスさんは父の高橋先生と一緒に、諦道さんのお父様が営んでいたぜんざい屋を訪ねてごちそうになったこともあったそうです。

 また、ジャニーさんが渡米した翌年の1950年に朝鮮戦争が勃発するのですが、彼はアメリカ国民として米軍に徴兵されています。その後、朝鮮半島での兵役を終えた後、ジャニーさんはアメリカには戻らず、経由地である日本に残り、そしてジャニーズ事務所を設立したのです。

 日系人というのは、戦前・戦中・戦後を通じて人種差別の対象でした。私も40年前にロサンゼルスに来たときに、やっぱり差別を受けました。そういうこともあったので、日系人は戦前〜終戦後、自分たちの文化を外に発信することができなかったんです。

 例えば日本の空手、柔道、剣道で「試合をしましょう」「会場を借りましょう」となっても、「日本人には貸さないよ」と言われる。そういうことが続きました。そこで、高野山はどうしたかというと、多目的ホールを造ろうと。試合をやったり、日本の浪花節や三味線のお師匠さんが来たときに披露できるようなステージもあるホールを。

 今、ここの高野山ホールのキャパシティは600人です。ステージがあって、その奥にお堂があります。お堂の前の戸板をパタパタと閉じると、お堂の中は見えない。このステージを使って、例えば浪曲や三味線や歌舞伎などもやっていた。ジャニーさんは、そういうショーがあるときに、ステージボーイとして大道具を出したり、小道具を渡したり、幕を閉めたり、ライティングをしたり、マイクロフォンをセッティングしたりしていました。

ジャニー喜多川さんにはお父様の「人を楽します」血が流れていた

 その後、ジャニーさんは日本に帰って、テレビ界に進出していくことになるんですけれども。おそらくジャニーさんの血の中には、お父さまのそういう「人を楽します」とか「人を喜ばす」という、その血がそのまま流れていたんでしょう。

 また、ボーイスカウトを作ったり水兵さんを招待するくらい、お父さまは若い人たちを集めるのが得意だった。やっぱり影響されていたのかもしれないですね。やはり「血」と言いますか、「DNA」だと思います。

 「別院百周年記念誌」には、フォーリーブスが訪問した記録も残っています。美 少年、Travis Japanと訪問が今でも続いているのは、喜多川ファミリーの心の中に、アメリカに対する感謝の気持ちと、米国別院への懐かしい記憶があるからだろうと思います。ジャニー氏、メリー女史とも、アメリカにおける数々の経験や、父親との高野山別院との関係を懐かしく感じていらしたことは確かでしょう。

 現在、高野山にあるジャニーさんのお墓は、お父さまの喜多川諦道先生が弟子入りをした普賢院様の管理する墓所の一角にあります。それは取りも直さず、普賢院様と喜多川家との密接な関係の中で築かれたということでしょう。

 喜多川諦道僧正というお父さまが、大分県から高野山に登って、そして普賢院というお寺のお弟子となり、そして「世界を見てこい」と言われて、アメリカへ渡った。そこではみんなに慕われて、慕われて、慕われて、そして日本に帰り、今度はその後を追うように、ジャニーさんがアメリカに戻ってきて、そこでさまざまなことを勉強した。そして日本に帰り、彼は花を咲かせた。そして帰ってゆく場所は、お父さんのふるさと、高野山だった。

 「阿字(あじ)の子が 阿字の古里 立ちいでて また立ち還る 阿字の古里」という御詠歌があります。「あ」という字、「あ」という音はインド語の母音からきていて、日本語で「あ」は一番最初の音。英語でも「A」から始まります。「あ」という響きには、ものの始まりという意味があるんです。この和歌は「ものの始まりから始まった私たちは、またものの始まりに立ち返っていくのだ」という意味。大分から普賢院、アメリカ、やがて日本で花を咲かせて、また普賢院に帰っていった。すべては縁ですね。

 2019年に美 少年が『二世ウィーク』でパフォーマンスをしたときのことです。JA CCC(日米文化会館)という、アメリカで一番大きな日系文化センターに800人が入るホールがあり、音響も素晴らしく、オーケストラもできる設備が整っています。そのホールの庭で、美 少年はパフォーマンスをしました。

 JA CCCエグゼクティブアートディレクターの小阪博一さんが「パフォーマンスをするんだったら、高野山米国別院でやったらどうか」と言って、それで美 少年は別院でもやることになったわけです。

 本当ならばJA CCCのホールでやれば800人入りますし、音響、照明、全て設備がそろっているからいいかもしれないけれども、ジャニーズ事務所も「高野山でやるんだったら」ということで、音響も照明も外部発注、電気も電源車まで入れて、『ARIGATO KOYASAN』コンサートをやってくれました。

 今年は、Travis Japanに『二世ウィーク』へ出ないかとJA CCCがオファーをしましたが、なにかご予定があるのか修行中だからか(笑)、出演はかないませんでした。

 私が主監に就任して2年半の間に、ジャニーズ事務所と関係ない若い人たちが、どこから聞いたのか「日本に帰る前にお参りさせてください」とコロナ禍であってもお堂にやってくるんです。「音楽をやってるなら、一度は別院を訪れたほうがいいよ」と言われたと言うんですね。私はホールの明かりをつけて、ステージでトップサスペンション(照明)を浴びさせてあげています。日本の芸能を楽しんでもらおうと奔走した人が作ったステージの上に、あなたは立っているよ、と。

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