――神社仏閣の歴史や神話、民俗学に詳しく、書籍も数多く手掛ける上江洲規子氏に、パワースポットやスピリチュアルな話題について、“別視点”から解説してもらいます!
神の声が聞こえる、仏と話ができると主張する宗教家や霊能者、スピリチュアルな人々がいる。しかしその声が本当の神仏か、あるいはホラ話かを見極める方法はない。いくらその声が「間違いなく神だ」と断言しても、それを証明することはできないのだ。
「神社や寺院でお願い事をするのは失礼です。参拝できた感謝だけを伝えましょう」と発信する者もいる。もちろん、神仏に失礼な態度をとるべきではないが、何をもって失礼と言うのだろうか? 今回は、日本の歴史に鑑みながら、スピリチュアルな人々のまやかしについて考えてみよう。
――神様に失礼なことをしてはいけない、とよく聞きます。お酒を飲んで参拝するのはよくない、とか。
上江洲規子氏(以下、上江洲) こんな話を知ってますか? あの名高い一休和尚が、お地蔵さんに小便をかけたというエピソードです。とんでもなく失礼な行為ですよね。
三重県亀山市の関宿にある地蔵院に伝わる話なんですが、地蔵が完成したとき、たまたま一休和尚が通り掛かったので、「開眼供養(※)」を頼んだところ、快く引き受けてくれたそう。しかし、「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵(意訳:釈迦は亡くなり、弥勒はまだ救済にこないこの憂き世に、目覚めよ地蔵)」と詠むと、地蔵に小便をかけて立ち去ってしまった。
※仏像や墓、位牌などに魂を入れる法要のこと。
――一休和尚って、いわゆる「一休さん」ですよね。小便をかけるなんて罰当たりな行為する人物には思えないですが。
上江洲 当然、小便をかけた一休和尚に驚いた村人たちは、別の高僧を呼んで立派な開眼供養を施してもらいました。しかし、その夜に村人たちは悪夢を見たとか。「せっかく素晴らしい開眼供養をしてもらったというのに、なぜつまらぬやり直しなどをするのか」と地蔵に叱られる夢です。
そこで一休和尚を追いかけて理由を話すと、「これを地蔵の首にかけてあの歌を詠め」と、褌を渡したとか。村人がそのようにしたところ、地蔵の怒りは治まったーーという話です。
――お地蔵さんは、小便をかけられて満足してたんですね? でも村人は失礼だと思って、やり直してしまった。
上江洲 はい。同じようなところで、子どもたちが地蔵と泥だらけになって遊ぶのを、大人が咎めて地蔵をきれいに洗い、丁寧に安置したところ、その夜の夢に地蔵が現れて「せっかく楽しく遊んでいたのに邪魔をするな」と叱ったという伝承が、各地で聞かれます。
上江洲 もちろん、仏像に小便をかけたり、泥だらけにしたりしろと言うわけではありません(笑)。一休和尚の真意を私などが解説するのはあまりにもおこがましいですが、しいて説明するのならば、釈迦が入滅し、弥勒菩薩が衆生を救ってくださるまで5億年以上もある暗い時代だからこそ、小便をかけられても平気な地蔵が求められる――というところでしょうか。
地蔵としても、一休和尚から「それほど力のある地蔵」として開眼されたにもかかわらず、通り一遍の開眼供養をやり直されたことは、屈辱だったのかもしれませんね。さすがは神仏だけあって、我々並の人間とは感覚が違うと思わされます。
――考えがぶっとんでます(笑)。神仏と和尚さんは、一般人の考えが及ばないところにいるんですね。
上江洲 それでも、人間目線からまことしやかな「正しい神仏への接し方」が発信され続けていますよね。もちろん、「鰯の頭も信心から」が、日本人的感覚であり、純粋無垢に信じるならば、その作法はありがたいものと言えます。
しかし、一休和尚ほどの徳もないスピリチュアルな誰かが勝手に語っているだけのルールやマナーを押し付けられるのは、ごめんだと感じる人もいるでしょう。
――「こういうことをやってはいけない」「正しい方法はこれ」と掲げるスピリチュアルや霊能者は少なくないでしょうね。
上江洲 神の声が聞こえる、神の姿が見える、と言う人もいますよね。「今昔物語」巻第二十には、「愛宕護の山の聖人、野猪に謀られたる語」とのエピソードがあります。愛宕山に聖人がいて、日々祈りを捧げていたが、あるころからか夜になると普賢菩薩が見えるようになるが……という話です。
聖人を尊敬する猟師は疑問に思い、その普賢菩薩の姿を確認することに。夜半過ぎ、本当に白い象に乗った神々しい菩薩が現れますが、猟師は矢をつがえ、射抜いてしまいます。驚き嘆く聖人に対し、猟師は「聖人に菩薩が見えるのは当然ですが、私のように経も読めぬ者に見えるのは変です。大方、狸の類いでしょう」と答えました。
そうして、朝に血の跡を追ったところ、大きな野猪が倒れていたといいます。
――イノシシを神様だと思ってしまったのですか。
上江洲 聖人は無垢な人で、彼を敬う猟師がいたほどなので、高潔な人物だったのでしょう。しかし、「今昔物語」の著者は「此様の獣は、此く人を謀らむと為る也。然る程に、此く命を亡す益無き事也と語り伝へたるとや(意訳:獣は人を欺こうとするものだが、そんなふうに命を落とすのは益のないことだ)」と結び、彼の智恵のなさに苦言を呈しています。
聖人の「常識なき信仰心」ゆえに、寺の小僧や猟師まで危険にさらした可能性もあるんですね。
――「常識なき信仰心」が、身内や関係者を危険にさらす……。昨今の宗教やスピリチュアルでのトラブルにもあてはまりそうです。要注意ですね。
上江洲 神の声が聞こえる、仏と話ができると主張する人々がいますが、しかしその声が本当の神仏か、あるいは野猪かを見極める方法はありません。
猟師のように「私に仏が見えて良いものだろうか」と疑ってみるのは重要なことで、疑ってもみない人の「神仏の話し」を鵜呑みにするのは避けたほうが良いかもしれませんね。
■参考文献
岩波書店『今昔物語集 本朝部(中)』池上洵一編 2002年7月25日 第二刷
岩波書店『今昔物語集 本朝部(中)』池上洵一編 2002年7月25日 第二刷発行