日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。10月30日の放送は「あの日 僕を捨てた父は ~孤独な芸人の悲しき人生~ 後編」。
『ザ・ノンフィクション』あらすじ
フジタは45歳の「ゲーム芸人」で、レトロゲーム界隈では知られた存在だ。フジタがゲームにはまったのは自身の壮絶な幼少期と関係している。フジタの母親は彼が幼稚園の時にくも膜下出血で死去。その後、父・陽人は、フジタの同級生の親でシングルマザーの朱美(仮名)と内縁関係になる。陽人は朱美の元で暮らし、フジタには週に一度3万円を渡すだけで、フジタは小学生にして一人暮らしをしていたのだ。
陽人は朱美の息子をかわいがり、フジタにはきつくあたったそうで、旅行の途中で自分だけ帰らされたこともあったとか。現在82歳の陽人は一人暮らしだが、朱美との関係は続いており、月に一度3万円を渡しているという。そんなある日、陽人はフジタを呼び寄せ、行政書士の立ち合いのもと、財産をフジタに譲ると言い出した。
しかし、陽人はその後アルツハイマー型認知症と診断される。2カ月分の年金を1カ月で使い切る、キャッシングを利用するなど、金の使い方が荒くなってきたことを心配するフジタは、金が朱美に流れているのではないかと懸念。一方の朱美も、内縁の夫である陽人が自分に断りなくフジタに財産を渡したことが気に入らなかったようで、彼のことを快く思わなくなってしまう。
フジタは陽人からキャッシュカードなどを預かっていたのだが、陽人はそれを返してほしいとフジタを呼びつける。認知症もあってか、フジタの説得がなんら届いていない陽人。同じ不満を何度も漏らす陽人に、フジタは声を荒らげるしかない。
また、フジタは陽人の日々の様子を見るため「見守りカメラ」を部屋に設置するが、そこには、陽人が朱美に対して「フジタが働かず自分の金をあてにしている」といった内容を電話で話している姿が。それを真に受けた朱美はフジタへの不信感と不満を番組スタッフに話し、フジタからの電話も忙しいからと取り合わない。
当の陽人は認知症のため、そのようなことを言った記憶もないようだった。高齢の陽人にとっては、“YouTubeで稼ぐ”というフジタの働き方が理解できず、遊んでいるようにも見えたのだろう。
しかし、うんざりしかけたフジタに思わぬ救いの手が入る。朱美の孫で、朱美と一緒に暮らす21歳の俊(仮名)だ。俊は祖母・朱美が毎月3万円を受け取っている事実を知らなかったようで、それがなくても大丈夫なことや、その3万円は自分の養育に必要だったのかもしれないとフジタに説明する。
さらに俊は、荒ぶる朱美をなだめ、陽人、朱美、フジタ、俊がいる場での話し合いの場を用意。そこでフジタは陽人の借金の現状や、フジタ自身がきちんと働いていて収入があることを朱美に説明し、その場はひとまず収まる。
ただ、陽人の金への執着は増すばかりで、フジタが金を預かると「盗んでいる」と言う。また、陽人の家の鍵付きタンスに金を保管すると、フジタの知らないスペアキーで出してしまう。食器棚に入れワイヤーキーで施錠しても、隙間から「孫の手」を使ってでも取り出す有様だ。往診に来た医師は認知症が進んでおり、これから半年でさらにその症状は悪化するだろうと話し、施設での生活も勧めていた。
番組の最後、フジタは陽人と朱美を軽井沢旅行に連れて行く。陽人の年金は朱美が預かることになったという。
軽井沢旅行の場で、朱美に対し、陽人をなぜ好きになったのか尋ねていたフジタ。朱美は「(私の)子どもを虐待しないってこと。だから安心してお付き合いできる」と答え、フジタはその代わりに自分が虐待された、と冷静に説明していた。虐待されていたフジタを前に、朱美のこの答えはあまりにも配慮がないと思うし、私が朱美ならもっと取り繕い、よりによってこの理由を選ばないだろう。
その後フジタは陽人にも、「土日だけ朱美の家に行く」のではなく、毎日フジタを一人家に置き去りにしたのはなぜかと尋ねるが、「(自分が朱美を)好きだからじゃないの?」と答えていた。素直と言えばそれまでだが、これも幼少期に置き去りにされたフジタに対して配慮がない一言だと思う。
しかし、陽人と朱美に今さら謝られたところで、私ならどんな回答であっても結局、腹が立ちそうだ。ただ、いち視聴者がどう思おうが、これらを確認することがフジタにとって必要な過程だったのなら、それでいいのだろう。
それにしても、朱美に陽人の年金の管理を任せて大丈夫なのだろうか。『ザ・ノンフィクション』は続編も楽しみの一つだが、こればかりは続編がないことを願いたい。陽人と朱美に振り回されるフジタをこれ以上見たくない。
次週は「そこにいていいんだよ ~もじゃくん夫婦と不登校の子どもたち~」。不登校の子どもたちの居場所づくりに奮闘する元小学校教師のもじゃくんと、ちーさん夫妻。ただその運営は手弁当のギリギリな状況だ。夫妻と子どもたちを見つめる。