「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
――前回までは、現在の英王室と皇室に注目して、ウィリアム王子やヘンリー王子のキャラクターと秋篠宮さまと天皇のキャラクターの違いを考察いただきました。王族・皇族の世界は似ている部分も感じられますね。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 今年の9月8日のイギリスのエリザベス女王の崩御と、その前後の報道を見ていると、昭和天皇のときのことが思い出されて仕方ありませんでした。当時、私はまだ小学生でしたが、それでも「報道には秘密にされた部分が多いのではないか」と、ぼんやり感じていたものです。
しかし、大宅壮一文庫で昭和天皇崩御時の病状がどのように雑誌で報道されてきたかを読んでみたところ、秘密めいた印象は当時のマスコミ(とくに雑誌関係)の情報操作の可能性が高いと思われました。
当時の日本の宮内庁は、イギリスのバッキンガム宮殿の広報部に比べると、まったく秘密主義でもなんでもないといえるレベルに開示的だったのです。
――それは意外な気がします。最近の宮内庁は秘密主義ですよね? 皇后・雅子さまのご病気も「適応障害」であると、かれこれ20年近く前に発表があってから、詳しいことはそれ以上、あまりわからぬまま今日に至っています。
堀江 はい。ただ、こういう現代の宮内庁のマスコミへの態度も、昭和天皇崩御の際、多くの情報を出しても、それが思った効果をあげられなかったことへの教訓から情報解禁しなくなった側面も確実にありそうな気がしたのです。
あらためていろいろと調べてみて、大きな衝撃を受けたのは、昭和天皇の容態が1989年(昭和63年)9月24日に急変した時、ご本人にもおそらく伝えられていなかったらしい真の病名――(末期の)「膵臓がん」を朝日新聞と共同通信が勝手にスッパぬき、宮内庁の許可なく発表してしまった“報道禍”でした。
――ええっ!? それはさすがに宮内庁もクレームを入れてきますよね……。
堀江 当時の宮内庁長官・藤森昭一氏は、朝日新聞と共同通信に「陛下の意識がはっきりしておられる時期に、このような記事が出されたことは適切さを欠いていると思う。自制してほしい」と申し入れを行いました。しかし一度、表に出た情報を、再び隠せるわけでもありません。
「アサヒ芸能」(徳間書店)88年10月6日号の「大報道陣をイラつかせる宮内庁の秘密体質」という記事で、浜尾元東宮侍従が「わたし個人とすれば、一般社会で『ガン告知』の是非がいわれている現時点においては、いささかやりすぎ」とコメントをしているのですが、その後、彼と元祖・皇室ジャーナリストである河原敏明氏の対談では、要するに宮内庁の発表がまどろっこしかったから、国民の知る権利が優先され、こういうことになってしまったんだ! という主張になっているのです。
――うーん、でもこれは完全にマスコミのほうが悪いように思われます。一般的に本人への「がん告知」がなされていなかった時代に、自身の病気について報道で知るなんていくらなんでも……。
堀江 はい。イギリス王室も「秘密主義」で知られ、とくに王室のメンバーの健康状態については「詳しい発表はしない」という姿勢をバッキンガム宮殿の広報部にも固持させています。
それに比べると、昭和末の昭和天皇の病状については、体温や食事内容などがテレビのテロップになって何時間かごとに流されるなど、毎日、かなり詳細な情報が宮内庁からは出されていたことがわかります。
――しかし、それでも宮内庁は秘密主義であるとか、まどろっこしいといわれつづけ、あげくのはてにオフレコの情報としていた「陛下の病名はがん」が、一部の報道機関にすっぱ抜かれてしまったということなんですね。
堀江 そうですね。宮内庁がマスコミ相手に天皇陛下の病状を事細かに報道したのは、昭和天皇の事例が日本史初のことでした。だから、出すべき情報と、たとえオフレコでも出さないでおくべき情報の取捨選択がうまくいかず、結局はめちゃくちゃになってしまったということだと思われます。
がんの告知は、現代でも難しいテーマですよね。しかもそれが末期がんとなると……。
堀江 記録がある中、日本史において最初期に末期がん患者として余命宣告をされたのは、明治時代の大政治家・岩倉具視(いわくらともみ)なんですが、この時も外国人の主治医が、「あなたなら、死が近いと伝えられても衝撃に耐えられるだろうし、その時期を知っていたほうが職務上、いいと思った」
と、岩倉に「あえて」余命を告げた記録があります。実際、岩倉は告知に感謝し、死の直前まで仕事を続けて、亡くなることができたわけですが……。
――現在でも、高齢者の方にはがんの余命宣告をすることの“功罪”については議論がありますよね。陛下やご家族の方々は、本当に何もご存じではなかったのでしょうか?
堀江 直接、その疑問に答える記事は見つかりませんでしたが、かなり興味深いコメントを、昭和天皇の甥にあたる三笠宮寛仁親王がなさっています(小学館「女性セブン」88年10月20日)。
これは雑誌の発売時期から見て、同年9月19日深夜以降、何回か起きた昭和天皇の吐血事件の衝撃から1週間~10日前後あと……それこそ、朝日新聞などによる「膵臓がん」スッパ抜き報道を受けてのインタビュー記事だったと考えられます。
寛仁親王は、本当に天皇陛下は「がん」なのか? と聞かれると「ぼくは医学の専門家ではないから、陛下ががんに蝕まれていらっしゃるかどうか、全然わかりませんよ」と、言いつつも、この記事の前年87年9月22日に「腸の通過障害を除去する手術を受けられた」ことについて触れ(講談社「FRIDAY」88年10月7日号)、この「手術がいちおう成功して」という言葉遣いになっているわけです。
――「いちおう成功」……微妙な言い方ですね。
堀江 はい。昭和天皇には秘匿されていた可能性は高いですが、おそらく陛下に近しい方々、そして現役の宮内庁関係者は全員、「昭和天皇は余命1年」などと知っていたのではないか……と推察します。「腸の通過障害を除去する手術」は、昭和天皇の膵臓がんが腸を含む全身に転移してしまっていたことを受け、少しでも余命を伸ばすための方策であったのではないでしょうか。
――「陛下に近しい方々」とは具体的にいうと?
堀江 三笠宮寛仁親王ご本人が「女性セブン」のインタビュー記事でわかりやすく解説してくださっているのですが、「われわれ(=皇族)の世界でいうと、両陛下をはじめとして皇太子ご一家(=現在の上皇さまご夫妻と、そのお子さまがた)は内廷皇族と申しあげており、常陸宮さまから、秩父、高松、三笠、私、桂、高円という宮さまがたは内廷外皇族」とのことで、「陛下に近しい方々」とはここでいう「内廷皇族」の方々であろうと思われます。
内廷外皇族は天皇に対して「距離」があって、たとえ寛仁親王のように、天皇陛下とは叔父と甥の関係でも、お見舞いが自由にできる立場とは違うのだ、とお話されています。
実際、寛仁親王は、このインタビューの時点で、昭和天皇の容態急変から3回(だけ)お見舞いに行けて、陛下の容態次第だったとは思うのですが、言葉を交わせた程度の交流が1度あっただけだったと明かしておられます。
――そのほかの皇室関係者はどうだったのでしょうか?
堀江 たとえば、戦後すぐに臣籍降下した旧皇族の方は、少なくともこの時の陛下に直接お会いにはなれず、昭和天皇にとっては「忠臣」にあたるような人物……たとえば、第二次世界大戦末期、天皇による「終戦宣言」を録音したレコードを決死の覚悟で守り抜いた逸話のある徳川義寛(元)侍従長にも、大きな距離がありました。陛下がもう亡くなりそう、という電話連絡すら入らぬまま、徳川元侍従長は崩御をラジオで知ったそうです(光文社「FLASH」89年1月31日号)。
しかし、「一般人」でも、重体の陛下にお会いになれる方がいました。民間に降嫁なさった元・皇女の方々です。
――次回に続きます。