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杉田水脈氏は“オジサン”の操り人形である――「ともかく目立つ」「弱い者を叩く」政治家としての処世術が限界のワケ

私たちの心のどこかを刺激する有名人たちの発言――ライター・仁科友里がその“言葉”を深掘りします。

<今回の有名人>
「重く受け止めております」総務大臣政務官・杉田水脈氏
参院予算委員会、12月6日

 月刊誌「新潮45」2018年8月号(新潮社)に寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論考で、同性カップルについて「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と述べた総務大臣政務官・杉田水脈氏。

 いくら言論の自由があるとはいえ、人権意識が著しく欠如した発言といえるだろう。このほかにも「チマ・チョゴリやアイヌ民族衣装のコスプレおばさん」など、杉田氏の問題発言は枚挙に暇がない。政治家にふさわしい教養や見識を持っているとは到底言えないが、ひとたび見方を変えると、ある意味、とても政治家向きなのではないだろうか。

 タレントなど、人気商売の人が公の場でする発言が本心であるとは個人的に思わない。テレビはショーであり、タレントはその出演者として、番組の制作側が想定する以上のパフォーマンスを披露し、視聴者を楽しませるのが“お仕事”である。

 番組の出演者全員が同じ意見では番組が盛り上がらないから、タレントは、本心は別にして、わざと真っ当な意見に反対してみたり、あえて嫌われ役を買って出ることもあるだろう。嫌われ役をやるのは不本意かもしれないが、視聴者からの注目を浴びることができるし、その役回りが定着した後に、「一周回って、いい人に見えてきた」と好感度が上がることもよくある話だ。

 原則的に、多くの票を得た人が政治家になれると考えると、政治家も一種の人気商売だろう。杉田氏の「生産性」発言は、決して容認されるべきものではないが、彼女は政治家として生き残るために、あえて嫌われ役を買って出て、あんな発言をしたように思えてならないのだ。なぜそう思ったのかというと、彼女自身とて、完璧な「生産性」を持っているとはいえないからである。

 最初に申し述べておくが、そもそも、人間を「生産性」で計ることは間違っている。が、なぜ杉田氏が政治家として生き残り、総務大臣政務官にまでなれたかを考えるのに、まずこの観点は必要だと感じるので、本稿ではあえてそれをキーワードに進めてみたい。

 同性愛者は子どもを作らないから、生産性がないという杉田氏の発言の裏には、「少子化はよろしくない」という発想があるのだろう。確かに子どもを生まなければ、労働人口が減り、社会は立ち行かなくなるかもしれないし、今の年金制度が破綻することは目に見えている(しかし、これもおかしな話だ。少子化の原因には、賃金が上がらないことや、いまだに保育園が足りないことなどが挙げられ、その背景には、日本が超長時間労働を基本としていることも関係しているだろう。そう考えると、少子化は個人の問題というより、政治家が率先して解決すべき重要な課題といえ、国民を責めるのは、お門違いというものである)。

 しかし、人口を増やすという観点でいうと、杉田氏自身も「生産性」に欠けているのではないだろうか。公式ウェブサイトによると、彼女にはお嬢さんが1人いるそうだが、彼女の主張を踏まえた場合、推計上3人以上生まなければ人口を増やすことにはならないので、「生産性がない」ことになる。

 3人産んだからといって、終わりではない。「生産性」を追及するならば、生まれてきた子どもたちには、立派な就労・納税者になってもらわねばならないだろう。その考えに立つと、生まれつき障害のある人、不慮の病気や事故にあって働けなくなった人、人間関係のトラブルなどからひきこもった人などは「生産性」がないとされる存在になる。

 子どもを3人以上持ち、その子たちに立派な教育をつけさせ、世に送り出す。さらに子どもたち自身も、ずっと健康体で働き、納税を行う――これで初めて「生産性がある」とするのなら、杉田氏だけではなく、ほとんどの日本人は「生産性」がないのではないだろうか。彼女を自民党にスカウトした大恩人の故・安倍晋三元首相も子どもがいないわけだから、「生産性」がないことになってしまう。

 大恩人を侮辱し、自分自身とて「生産性がない」と言われかねないのに、なぜ彼女は文章という残る形で、「生産性」について言及してしまったのか。それは「生産性」発言が彼女の処世術だからだと思う。

 政治家には、地盤(組織)、看板(知名度)、カバン(資金)の“三バン”が必要といわれている。その結果、これらを生まれながらに持っている二世、三世議員は、政治の世界で有利な立場といえ、実際、岸田文雄総理大臣も三世議員、安倍元首相も岸信介元首相ら多くの政治家を輩出した政治家一家の一員だ。自民党の女性政治家でいうと、総理大臣を目指すことを公言している衆議院議員・野田聖子氏、小渕優子氏も世襲である。

 そのほかの女性政治家では、自民党参議院議員の丸川珠代氏は元テレビ朝日の女子アナ、立憲民主党参議院議員の蓮舫氏も、音響機器メーカーのキャンペーンガール「クラリオンガール」を経てタレント活動を行っていた過去があり、また自民党衆議院議員の稲田朋美氏はかつて弁護士として働いていた。

 いくつかのケースから結論付けてしまうのは危険な行為だが、政治家の家に生まれなかった女性が政治家になるためには、女子アナ、タレント、弁護士といった“すごいプロフィール”が必要なのではないだろうか。

 一方、杉田氏は地方公務員を経て、政治の道を志した。現場を知る人が政治家になるのはいいことだと思うが、世襲でもなく、また女子アナ、タレント、弁護士といった目立つ経歴もない杉田氏は、選挙戦においてかなり不利な立場だったといえる。

 世襲やプロフィールで戦えないのであれば、発言で目立つ必要がある。政治家にとって、自分に投票してくれる支持団体は絶対に確保しておきたいところだろうから、特定のターゲットに刺さる内容であることも重要だが、そこで彼女が狙いを定めたのは、日本社会において最も優位な立場である“オジサン”という組織だったのではないか。

 杉田氏は過去に非公開の党の会議で、女性への性暴力をめぐる相談事業に関し、「女性はいくらでもウソをつける」と発言して、問題になったことがある。杉田氏にもお嬢さんがいて、性暴力に遭う可能性がまったくないわけではないのに、なぜこんなことが言えるかというと、“オジサン”の機嫌を取るために発言することが習い性になっているからのように思う。

 個人的な話をして恐縮だが、私は過去、ゴリゴリの男尊女卑企業に勤務しており、そこには「若い女性に、若くない女性の悪口を言わせたがる“オジサン”」が存在した。例えば、若い女性社員が、独身の先輩女性社員について「ああいうふうにはなりたくないです」などと言うと、手を叩いて喜ぶ“オジサン”がいたのである。彼らは、自身への糾弾を避けるため、自ら若くない女性の悪口を言うことはないが、若い女性に代弁させて「そうだそうだ!」と同調し、溜飲を下げていたわけだ。

 多様性の時代といわれる昨今。しかし、それはネット上、もしくは都市部の話であり、ちょっと都会を離れたら、「同性愛者を受け入れたくない」「未婚者や子どものいない者は、人として何かが欠けている」と思っている“オジサン”は確実に一定数いるだろう。これは、自身の優位性を脅かす女性や少数派台頭を疎ましく思うからだろうが、多くの“オジサン”は、自分の信用に関わるため、それを表立って口に出せない――そんな彼らの代弁者が、まさに杉田氏だったのではないか。

 支持団体がつけば、選挙に当選しやすくなる。当選回数が増えれば、要職に就くことができる。総務大臣政務官となった杉田氏の“オジサン”を味方につける作戦は、成功だったといえ、ある意味、彼女はとても政治家向きなのだろう。しかし、この“オジサン”ウケする「ともかく目立つ」「弱い立場の者を叩く」作戦には限界がある。責任あるポジションに就くと、「人権感覚に問題がある」とみなされ、このやり方が通用しなくなるのだ。

 12月6日の参院予算委員会で、杉田氏は「私の過去の発言などに対する厳しいご指摘、ご批判について重く受け止めております。傷つかれた方々に謝罪し、そうした表現を取り消します」と述べた。

 加えて、杉田氏に重く受け止めてほしいのは、“オジサン”にウケるための処世術として、女性や少数派の悪口を言っていたとしも、こういう大事な時に“オジサン”は彼女を守ってくれないことだ。綺麗ごとでは政治の世界を渡っていけないことくらいは承知しているが、彼女が“オジサン”の操り人形になった揚げ句、使い捨てられませんようにと思わずにいられない。

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