• 日. 12月 22nd, 2024

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朝日新聞のスッパ抜きに宮内庁は激怒! 天皇ご本人にも伏せられた“事実”に皇族の反応は……

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――前回から昭和天皇崩御の前後におけるマスコミによる病状の報道を、雑誌記事中心に振り返っています。1987年に開腹手術を受け、「腸の通過障害」の除去に成功したと報道されていた昭和天皇ですが、89年9月、大量の吐血を何度もなさったことで「重病」であるという事実が世界中に知れ渡り、騒然となりました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) それまで「回復中」だと宮内庁が発表していたにもかかわらず、実際は真逆だったということが問題視されたのだと思います。

 朝日新聞・共同通信社が、昭和天皇の病について実は「膵臓がん」だと報道した時、報道協定を破られた宮内庁は激怒しました。その事実がその時までは陛下ご本人には告知されていなかった可能性もあったようです。

 また、昭和天皇の「本当の病名」や「容態」は、陛下とは叔父と甥の関係である三笠宮寛仁親王にも、微妙に伝わりにくい状態だったらしいことが、親王のインタビュー記事からわかるのでした。

――寛仁親王によると、皇族の区分である「内廷皇族」と「内廷外皇族」で、与えられる情報に差があったとか。ほかにも、たとえば「内廷外皇族」の場合、陛下のお見舞いに出かけても、面会できないこともあったようですね。

堀江 「週刊読売」(読売新聞社、88年10月9日号)によると、「皇后さまのいとこ」の旧皇族の方々が皇居にお見舞いにこられたものの、陛下が9月に危篤になった直後の段階では、面会が許されたという情報は見つかりませんでした。

 一方、昭和天皇の(元)皇女(四女)の池田厚子さんは、当時の身分は「一般人」でしたが、それでも昭和天皇の病室に駆けつけ、病床の陛下と面会なさいました。また三女の鷹司和子さん、五女の島津貴子さんも池田さんに少し遅れて到着、陛下にご対面なさるということがありました。(元)皇女の方がたは陛下の手を握り、お励ましになったそうです。

――皇族であるかよりも、近親であることが重視されたみたいですね。

堀江 島津貴子さんは「週刊読売」のインタビューに答え、陛下には「ほんの短時間」面会できただけだったが、「直接お目にかかったところ、意識もしっかりしておられ、ホッとしました」という談話を残しました。一方、病名などに関して「宮内庁からは、まだ何の連絡もありません」とのこと。

 池田厚子さんは「(昭和天皇が)早くお治りになるよう願っています」とも言っているので、もしかしたら、一部の報道機関で報じられた「天皇が末期がん」という事実は、肉親(あるいは肉親の一部)にも長い間、伏せられ続けていたのかもしれませんね。もちろん、すべてわかっていても、娘として、父親の奇跡の回復を願う本心がそう言わせたのかもしれませんが……。

――現代と、昭和末期の病状の公表についての感覚の違いには驚きますね。

――そして朝日新聞・共同通信社が「末期の膵臓がん」をすっぱ抜いてから約3カ月後の翌89年1月7日早朝、昭和天皇は崩御なさいました。

堀江 島津さんや、池田さんたちお子様がたは、陛下の手を握ったり、おみ足をさすったりしてお看取りになったとのことです。実はこうした情報は、まさに陛下が崩御なさった当日、雑誌「SPA」(扶桑社)が島津さんと池田さんのお二人にインタビューを敢行しており、その記事がソースなのです。

――「父・陛下の最期は穏やかでした」という記事(「SPA」89年1月19日号)ですね。昔の「SPA」って、“中流サラリーマンの悲喜こもごも”みたいな記事が目立つ現在の誌面とはかなり違い、硬派な気が……。

堀江 私もびっくりしました。この記事もだいぶ驚くところがあって、インタビュアーもなぜかフジテレビのベテラン・アナウンサー(当時)の露木茂さんなんですね。

 昭和天皇崩御の当日早朝、宮内庁は「諸般の事由から慢性膵炎と公表してきましたが、最終診断は十二指腸乳頭部周囲腫瘍、腺がんとします」とついに発表しています。

 本来なら、(元)皇女である池田厚子さんと島津貴子さんには「本当はどの程度、昭和天皇の病状をご存じだったのですか?」と聞きたかったかもしれませんが、そういう話は一切ナシ。おそらく、そういう話で打診したら断られると感じたので、「陛下の最期のご様子と、父・昭和天皇との思い出を振り返っていただきたい」というオファーを送って、お二人のインタビューが成立したという経緯が感じられる記事でした。

――それでも昭和天皇の闘病生活を、お二人がどう見守ったかという質問がちらほら、断片的に出てきていますね。

堀江 そうですね。池田さんは9月に昭和天皇の重態が発表されてから、「20回以上」、岡山から東京まで通ってお見舞いされたそうです。

 一方、島津さんは「9月の半ばごろは私もだいぶパニックを起こしていたのですけれども、とても長いこと(昭和天皇が)頑張ってくださって、その間に、なにか心の準備をさせてくださったような気もします」とおっしゃっています。

 こういうコメントからは、さすがに宮内庁もお二人をはじめ、近しい親族の方には本当の情報を(少なくともある時期からは)伝えていたのだろう、と思うのですが、いかがでしょうか。

――そうですね。ただ、国民には崩御当日朝まで「がんではない」と言っていたにもかかわらず、やっぱり「がんでした」と認めるようなことになってしまったので、お二人も「本当は知っていた」とは言えない雰囲気も出ている記事ですね。

堀江 島津さんは混乱なさって、もしくは悲しすぎて思い出したくないからだと思いますが、ご結婚に際して、昭和天皇から贈られた言葉を「あんまりはっきり覚えてない」と発言しておられます。

 愛するお父さまが亡くなった日に、昭和天皇が国民にとっては「父」のような存在だったとはいえ、実の父親との思い出を語らねばならない立場……いくら(元)皇女というお立場とはいえ、つらかっただろうなぁと心が痛みました。

 縁起でもないお話ですが、今後、こういうことは、結婚によって皇室を離れた眞子さま、そして離れる可能性がある佳子さま、愛子さまなどにもあることですからね……。まぁ、「インタビューは受けない」という選択肢もあるにはあるでしょうが……。

――次回につづきます。

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