「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回から引き続き、昭和天皇崩御の前後について雑誌記事中心に振り返ります。
――昭和天皇がいよいよ危篤だという時には、どういう情報が出ていたのでしょうか?
堀江宏樹氏(以下、堀江) 天皇が崩御なさった昭和64年1月7日は土曜日で、NHKは早朝から特設ニュース枠にて特別放送をしていました(WEBマガジン「NHK政治マガジン」、2017年12月11日「昭和最後の日へタイムスリップ」)。
この記事によると「皇太子殿下(=現・上皇さま)が皇居にかけつけた」「宮内庁が『ご危篤』と発表した」「竹下総理大臣(当時)が皇居にお見舞いに行ったあと、総理大臣官邸に入った」……などなどのニュースが次々と報じられ、「午前7時55分、宮内庁の藤森長官(当時)は、昭和天皇が午前6時33分に崩御したことを発表。NHKも、昭和天皇の崩御と今の天皇陛下(=現・上皇さま)の即位を伝えました」。
その直後に、ご最期まで隠してきたが、昭和天皇のご病名は「十二指腸乳頭部周囲腫瘍、腺がん」だとする発表が宮内庁からもあったのは、前回お話したとおりです。
――朝日新聞などが「膵臓がん」とフライング発表してしまったのですが、その病名はあえて「踏襲せず」なのですね。
堀江 宮内庁のプライドということもあるでしょうけれど、進行後のがんは転移しやすくなりますので、実質的には「全身がん」の状態だったでしょうね。陛下の直接の死因となった症状が、その「十二指腸乳頭部周囲腫瘍」だったということでしょうか。
お話が現在のイギリスに飛びますが、この約33年前の宮内庁より、2022年のイギリスのバッキンガム宮殿広報部のほうがすさまじく秘密主義だと思いました。
女王の死因は「老衰」であると公表はされたので、昭和天皇の「(全身)がん」とは違う衰え方だったかもしれません。しかし、晩年の女王について体調不良や病状の公表はわずかに1回あっただけ。昨年(21年)末、“episodic mobility problems”(一時的な歩行の問題)が伝えられただけなんです。
女王が亡くなった9月8日も、昼過ぎに「女王の医師団が、女王陛下は健康が懸念される状態であり、医師団の監督のもとに置かれる」という発表があっただけ。
――振り返ってみれば、これが実質上の危篤宣言であったようですね?
堀江 はい。しかも、危篤宣言だったにもかかわらず、“The Queen remains comfortable and at Balmoral”――女王は(滞在先の)バルモラル城で「comfortable(快適)」に過ごしている……などと訳せる衝撃の文章がついていたんですね。
――すごい矛盾を感じざるを得ません。この3時間ほど後に女王は亡くなったのですよね?
堀江 はい。死の直前でも快適……先ほども申し上げましたが、女王の死因は「老衰」だったので、この「comfortable」という単語を「何かの痛みに苦しむことなどはなく」と訳した媒体もありましたが……。とにかく、ヨーロッパでは国家の命運を体現する存在が君主であり、君主が体調不良でネガティブな状態に陥ることなど公にはありえない、認めないぞという超伝統的な立場を貫いたとも読めますね。
とにかくすごい秘密主義だと思わせられるわけですが、それに比べると、昭和末期の日本の宮内庁は情報公開を「頑張った」ほうだといえるでしょう。
堀江 しかし、君主の体調不良については、どれほど情報を公開しても、「もっと、もっと!」とマスコミからは求められ、そのことが君主ご本人にとって「良いこと」にはならない可能性があったと思います。昭和天皇のときは、それが顕著だったのではないでしょうか?
――どちらが良いのかわからないですね。天皇家の方々における、とくに重篤な病状の公開は、昭和天王崩御時の報道フィーバーを考えると、今後は慎むほうがよいと堀江さんはお考えですか?
堀江 そうですね……。深刻な体調不良が明らかになると、国民生活への影響が大きいというのもあります。実際、昭和天皇重体報道が飛び交うと、日本中で「異変」が起きました。
その名も「皇族はどう考えていらっしゃるか 『陛下の御心を思うに国民の行事自粛は行き過ぎです』」という三笠宮寛仁親王のインタビュー記事(小学館「女性セブン」1988年10月20日号)では、「相次いだ“自粛・取りやめ”」の例として、各地のお祭りの類いが自粛となったのに続き、「日産自動車の新型車CMのコピー、井上陽水がいう“みなさんお元気ですか”というセリフが口パク」になったとか、東京トヨペットが「生きる歓び」というポスターを撤去したとかいろいろとありますね。
――ほかには東海3県のスーパーが、お赤飯を置かないと決定したとか、びっくりの反応があったようですね。
堀江 だいぶ空回りしている感じはします。「陛下の体温が39度を超え、危機が報じられた(88年)9月24日には、フジテレビでは『おそ松くん』『オレたちひょうきん族』『ねるとん紅鯨団』『オールナイトフジ』が放送中止に。他局もバラエティやプロレス番組が中止」となり、「五木ひろしはじめ、芸能人の豪華挙式の延期」も相次いだそうです。
――お笑い系は勝手に自粛されてしまうわけですね。なつかしの人気テレビ番組や、「芸能人の豪華挙式」とか、いかにもバブル時代って感じがして、つい遠い目になってしまいます。
堀江 しかし、こうした世間の反応に対し、寛仁親王が「予定通りにさまざまな行事は執り行ってほしい。それが(昭和天皇の)思いに叶うのだから……」という主旨のことをお話しているのですが、やはり日本各地でこの手の自粛・延期は続きました。
――ここまで深刻な自粛体制だったとは驚きでした。
堀江 そうなんですよね。だからこそ、現・上皇さまのご退位という決断も、自身に今後「もしものこと」が起きても、前・天皇であれば国民生活への影響を最低限に留められるのでは、というご配慮が感じられるものでした。
「昭和最後の日」にお話を戻すと、昭和天皇崩御と、平成の天皇即位のニュースとともに「平成」の元号が発表されました。発表をした小渕恵三さん(当時官房長官、のちに内閣総理大臣)が「平成おじさん」として有名になりましたね。
堀江 しかし、この元号の発表にも実は驚きの事実が隠されているのです。「FRIDAY」(講談社、88年10月7日号)では、昭和天皇が同年9月19日深夜に大量吐血なさったことをうけて、輸血用の血液輸送車が到着、現・上皇さま、上皇后さまが車で皇居にかけつける様子を記事にしているのですが、この時、「陛下『重体』の情報が流れはじめた。政府も『万一の自体に備えて』、ついに『新元号』の検討を始めた」とあるのです。
――新元号の検討開始が、昭和天皇がご存命中なのに、世間に宣言されてしまっているのですね! さすがに失礼な気もします。
堀江 「アサヒ芸能」(88年10月6日号)によると、「天皇陛下のご容体が急変した翌朝(9月)20日、政府は早くも新しい元号を決める準備作業に入った」として、「政治部記者」が「実は、新元号の候補案はもうできあがっているんです。3案あって、首相官邸の金庫の中に封印されて入っている」と明かしています。
そして、「昭和」が決まったときのように宮内省ではなく、政府が主導して選定に尽力ともあります。政府筋にも、昭和天皇が末期がんであるという情報は入っていたと思われます。だからこそ、このタイミングでの元号選定開始が試みられたのでしょう。
しかし、依然として宮内庁は本当の病名を隠しつづけたのは、たしかに不条理な気もしますよね。秘密主義と叩かれても仕方ないというか。しかし、改めて考えると、当時の宮内庁には「そうするしかなかった」……そういう気もしてきたのです。
――次回につづきます。