『らんまん』神木隆之介演じる「槙野万太郎」の史実がクズすぎ! 女たちとの奇妙な関係とは

国民的ドラマといわれるNHKの連続テレビ小説、通称「朝ドラ」。今期は天才植物学者・牧野富太郎をモデルにした『らんまん』が放送中だが、どうやらドラマでは描かれないヤバいエピソードを持つ人物のようで……。『本当は怖い世界史』(三笠書房)などの著作を持つ歴史エッセイストの堀江宏樹氏が、朝ドラ『らんまん』主人公の実像をひもとく!

 野口英世、中原中也、太宰治……ジャンルを問わず、近代日本史の偉人の私生活には、素顔の彼らがいかにクズだったかを証明する史料が数多く残されています。

 しかし、NHK朝の連続テレビ小説『らんまん』主人公のモデルにして、「日本植物学の父」として有名な牧野富太郎の私生活はクズの中のクズ。横綱級のクズだったといえるでしょう。牧野がクズになってしまったのは、若き日の彼の「重婚」を許してしまっていた、周囲の女たちの“過ち”であり、すべてそこからスタートしていたのかもしれません……。

 『らんまん』には決して描かれないであろう不都合な真実と、破天荒すぎる牧野の魅力を取り上げます。

『らんまん』で描かれない、最初の妻の存在

 その94年にも及ぶ長い生涯において、牧野は何度か自伝の類を残しています。しかし、それらの中で、一貫して無視されているのが、最初の妻・猶(なお)という女性の存在でした。

 牧野猶こと旧姓・山本猶は、牧野の従姉妹にあたります。

 彼の実家は、土佐(現在の高知県)・佐川町の由緒正しい造り酒屋「岸屋」でしたが、牧野にとっては祖母である浪子がすべて切り盛りしていました。牧野の両親が早くに亡くなっていたからです。

 牧野より2歳年下の猶を許嫁に決めたのも浪子で、両者の祝言が行われたのが明治17年(1884年)、牧野が東京から戻ってきた時だったといいます。この時、牧野22歳、猶は20歳という若さでした。

 最初の結婚については、牧野がだんまりを決め込んでいるため、すべては推測するしかありませんが、猶は美人ではなく、実務的な性格だったため、牧野のタイプではなかった一方、不幸にして猶は牧野に心底惚れていたようです。

 猶を妻に迎えたのは、牧野にとってスポンサーである祖母・浪子の意向にすぎませんでした。彼にとっては本当は気が進まない結婚でしたが、「別居していればいいか」程度に軽く考えていたのは明白です。しかも、猶の好意をいいことに、牧野は彼女を「金づる」として利用しつくしています。

 猶を土佐に残し、病気がちになってきた祖母の世話を含め、岸屋がらみの一切も任せ、牧野は明治17年(1884年)中に東京に再び舞戻りました。

妻からの送金で東京大学へ

 天才には奇妙なこだわりが多いもので、牧野は東京大学(時代によって頻繁に名称変更しているのですが、今回の原稿では東京大学、もしくは東大に統一します)の植物学の研究室に顔を出しながらも、師匠を持たない「独学主義」を貫き、正規の学生には一度もならずじまいでした。

 その理由を推測すると、大学には進級するための必修科目というものが絶対にあるのですが、植物関係にしか興味がない牧野は、それ以外の科目の勉強を拒否したのでしょう。それゆえ、牧野の最終学歴は小学校中退になってしまいましたが……。

 こういう奇妙な経歴に加え、裕福な牧野が醸し出す、ほんわかした雰囲気は、エリート同士がしのぎをけずる東大の研究室では異質中の異質。彼の土佐弁まるだしの植物愛に満ちたトークは、東大の研究者たちを和ませていたといいます。

 しかし、本来なら部外者でしかない彼が、東大の研究室に本当に溶け込めた理由は、実家の経済力を背景に資金提供をしていたからでしょう。

 岸屋の祖母の体調不良が深刻になった後は、すべてが牧野の妻――つまり、牧野に惚れ込んでいる猶の裁量となり、岸屋からの送金額は増加する一方でした。東大の研究室から、植物学研究の専門誌を創刊したい牧野は、高額な各種参考文献を買い占めただけでなく、印刷機まで自費購入してしまっています。

 関西でいう「ええカッコしい(=カッコつけたがり)」の牧野は異様な気前のよさを見せる一方で、金を積むだけでは入手しづらい研究室備品の専門書は一度借りると、私物化してなかなか返そうとせず、教授たちを困らせていたようですね。

妻と結婚したまま、ひとめぼれした14歳と同棲・妊娠

 さて、話を明治20年(1887年)にまで戻しましょう。当時、25歳だった牧野は、飯田橋で駄菓子屋をいとなむ没落士族出身の寿衛(すえ、14歳)と出会い、ひとめぼれ。猛烈なアタックの末、知人を介して結婚にこぎつけたといいます。

 しかし、牧野が自伝の中で寿衛との結婚について語ったこれらのエピソードの大半は「捏造」で、事実ではないそうです。

 牧野の発言をまとめると、寿衛とは知り合いの印刷屋主人・太田義二を仲人として“正式に”結婚したそうですが、すでに彼には猶という妻がいる以上、正式な結婚はできませんよね。

 真実は、牧野に口説かれるうちに本格的に惚れてきた寿衛が親元を飛び出し、上野の裏町にあたる下谷区・根岸の御隠殿(江戸時代には輪王寺宮の別邸があった地域)で彼との同棲をはじめたことを、後年の牧野が「結婚した」といっているだけ。

 現実はそうではありません。いちおう同棲は認めていたものの、わずか1年ほどの間に彼女が妊娠、出産までしてしまったことに寿衛の両親は驚愕しました。この時点でも籍など入っておらず、将来については口約束すら取れていない状態だったからです。しかも、東京の牧野家は借金まみれでした。

 妊娠・出産をきっかけに、寿衛は離別を望んでいる両親との関係を、悪化させました。牧野が土佐の有名な造り酒屋の息子だと聞いていたので、大目に見ていた寿衛の家族たちも、窮乏生活を娘夫婦(というか、主に寿衛)が送っていることに気づき、寿衛の母親は牧野との関係継続に強い反対姿勢を見せはじめたそうです。

 すると、健気にも寿衛は牧野をかばって、実家とは義絶してしまったのでした。その後も、寿衛と家族の関係は回復せぬままだったようです。

 寿衛と、かつて牧野の妻だった女・猶との関係も奇妙でした。寿衛は、その後も猶からの送金を受け取る窓口であっただけでなく、猶とは個人的なやりとりもしたり、猶の親戚筋にあたり、都会生活に憧れる男の子を家に置かされ、彼の面倒をみさせられたり……。

 しかし、こうした家庭上の問題に牧野は無関心でした。

 この頃の牧野といえば、先述のとおり、東大の植物学研究室で自分の理想とする研究誌を出そうという活動に没頭し、実家には多額の送金をせびるだけの日々でしたから、明治21年(1888年)、早くも岸屋は財政破綻してしまいました。

 そして、牧野は猶から懇願され、土佐に1年ほど、赴くことになります。当主である牧野のハンコがなければ、財産整理もおぼつかなかったからですが、そうした名目で、彼は妊娠中の寿衛と病気がちな長女を東京に置き去りにして、全くかえりみなかったのです。

 金欠と体調不良に苦しめられている寿衛からの手紙は次々と届いていたのですが、長女が死ぬまでなんと一通の返事すら書かず、ただ、おのれの欲望に突き動かされるまま、仰天の行動を連発していたのでした。

 しかも彼が没頭していたのは植物学ですらなく、音楽でした。妻子の窮乏をよそに、自身は土佐随一の高級旅館に宿泊し、なぜかクラシック音楽を故郷に根付かせようと奮闘していたのです。

――次回に続きます。

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