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『らんまん』が描かない、神木隆之介演じる主人公のクズ史実! 病死した長女と“現地妻”への理解できない言動とは?

ByAdmin

8月 26, 2023 #コラム

天才植物学者・牧野富太郎をモデルにしたNHKの連続テレビ小説『らんまん』。どうやら牧野はドラマでは描かれないヤバいエピソードを持つ人物のようで……。「牧野富太郎の私生活はクズの中のクズ。横綱級のクズだったといえるでしょう」と語るのは、『本当は怖い世界史』(三笠書房)などの著作を持つ歴史エッセイストの堀江宏樹氏。同氏が朝ドラ『らんまん』主人公の史実をひもとく!

▼前回

植物学者から一転、クラシック音楽の指揮者に?

 「新進気鋭の植物学者・牧野富太郎」。故郷・土佐(現在の高知県)でその称号を保持するには、莫大な金がかかりました。牧野からのあいつぐ送金要請に、彼の実家で、土佐・佐川町に江戸時代から続いていた造り酒屋「岸屋」は耐えきれなくなって、ついに破産。

 牧野は財産整理の名目で、ふるさとに帰ることになりました。

 本来なら人目を忍ぶ、失意の帰郷となるはずですが、牧野は「東京帰りの若き名士」として振る舞おうとしています。土佐でもなぜか超一流の豪華旅館「延命軒」に宿泊し、部屋代だけでも80円を蕩尽したとされます。当時の80円は現在の価格なら80万円ほど。

 東京の「妻」――実際には結婚もしていない状態で、2人も子どもを授かった「愛人」寿衛は牧野の作った借金で貧苦にあえぎ、10円(=約10万円)も返済できなかったのに……。

 土佐随一のハイカラなインテリを自称している牧野は、植物同様、クラシック音楽が好きだったようです。しかし、当地で牧野がたまたま耳にした音楽教師のリズム感が「ダメだ、なっていない」と感じてしまい、みずから西洋音楽の勉強をはじめ、オルガンなどの楽器も私費で購入、土佐初のクラシックコンサートも私費で開催、指揮者としてタクト(指揮棒)を振り回し……いったい何がやりたいの、あなたの夢は植物学者じゃなかったの……と溜息をつくしかない、にわか芸術活動に没頭しはじめます。

 一度、これだ! と思えば理性が働かず、欲望のまま、借金してまで際限なく浪費を繰り返す牧野ですが、なにより理解できないのは、この時期、東京に残してきた寿衛からは、何度も窮状を訴える手紙を受け取っていたにもかかわらず、ただの一度も返事を書かなかったことです。

病死した長女の死すら忘れるノンキさ

 牧野との関係を両親から反対されたことがきっかけで実家と絶縁している上に、牧野不在のまま、次女・おかよを一人で出産せねばならなかった寿衛は産後の肥立ちが悪く、病気がち。幼い長女はずっと深刻な病気で、生まれたばかりの次女まで体調不良。おまけに牧野の親戚筋にあたる若い男が家に居候しており、彼の世話までしなくてはなりません。

 寿衛は、借金取りから「旦那さんは遊んでばかりでいいですねぇ~」などと毎日のようにイヤミをいわれたそうです。

 土佐で豪遊を繰り返す牧野とはうらはらに、東京の家族が体調不良なのは、彼らにはまともな送金がなく、極端に貧乏であるがゆえ。栄養すらまともに摂れていないからなのですが、その元凶たる牧野が帰ってこないのを不憫にも恋しがり、「父ちゃん、父ちゃん」と言いながら長女・おそのは、4歳で病死してしまいました。

 長女の凶報を聞いた牧野は、さすがに土佐から東京に戻ってきたそうですが、この時のことを80代になってから振り返った牧野は、やはり長女の死など忘れてしまったかのように、“クラシック音楽の普及活動に携わっているうち、土佐での日々は夢のように過ぎてしまった……”などとノンキに回想しているのでした。

 実際は「夢のように」どころか、いろいろなことがあったはずです。

牧野と離婚後、最初の妻は……

 最初の妻・猶とは離婚し、「岸屋」番頭の和之介と再婚させることにして、牧野は「10石(=現在の価格で約10万円)」だけを元・オーナーとして受け取り、後は猶たちの好きにさせました。

 岸屋の再建を、地元で、まずは醤油づくりから目指した猶と和之介ですが、残念ながら失敗。悪いうわさを立てられたので土佐にいられなくなり、静岡の焼津に引っ越してから、小さなお店をやっていたようです。しかし、それでも猶は牧野に送金しつづける日々を過ごしたそうで、それだけ、牧野という男にすさまじい魅力があったからなのでしょうか。

 ほとぼりが冷めた頃、ひっそりと土佐に帰郷した猶たちは当地で亡くなり、牧野の祖母の墓の近くに葬られているそうです。牧野富太郎という男にさえ関わらなければ、猶はもっと幸せな人生を送れたのではないでしょうか。

 いや、一方的に離縁されてもなお、惚れていられるような運命の男に出会えただけでも、猶は女として幸福だったのでしょうか。男女の問題に正解はありませんが、想像するだけで複雑な気持ちになってしまいます。

 離縁された猶から、寿衛のその後に目を向けてみましょう。

 ついに牧野が猶と離婚したので、彼と正式に結婚できることになった寿衛なのですが、ここで彼女が牧野を捨て、次女を連れて実家に戻る決心をしなかったのは、理解しがたいと思う読者も多いでしょう。

 いくら彼女が牧野に岡惚れしていたとしても、長女が病気になり、そのまま亡くなってしまったにもかかわらず、それを見殺しにしたといってもよい牧野と正式に結婚してしまうという選択は、現代のわれわれにはなかなか納得しづらいものがありますね。

 明治時代に定められた民法では、結婚後の女性は、法律上の無能力者だとされたので、離婚の意思を夫に申し出ても、拒まれた場合、調定を受けることすら叶いません。しかし、寿衛は次女が生まれた時点でも、牧野の東京の現地妻にすぎず、牧野の正式な妻は土佐の猶という女性であり続けたので、「実家に帰らせていただきます」といえば、寿衛は牧野との関係を断ち切れたはずなのです。しかし、寿衛は牧野に執着してしまったのでした。

渋谷円山町で経営した店とは?

 牧野はのちに自伝を残していますが、55歳の若さで早死するまで、彼に尽くし続けた、妻・寿衛の死因については沈黙しています。しかし、状況証拠から寿衛が子宮がんだったことはおそらく間違いなく、13人もの子ども(成人したのは7人だけ)を産んだ彼女が、子宮の病気で亡くなってしまったことについて、伏せておきたい気持ちもなんとなく想像できますが……。

 牧野の妻として、寿衛の生活は最後まで苦労続きでした。しかし、50代になってから、現代風にいえば、「宴会場つきラブホテル」というような営業形態のお店を、渋谷の色街として知られた荒木山(現在の円山町)で経営し、玄人女性に仲間入りするとは、寿衛自身も想像さえしていなかったと思われます。

――次回、そんな寿衛のお話がつづきます。

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