「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回から全7回にわたって上皇陛下の長女で天皇陛下の妹である黒田清子さんをめぐるお話をお聞きします。
――戦後、皇室人気がV字回復する際の要(かなめ)となったのが、昭和34年(1959年)の皇太子さま(現・上皇さま)と、正田美智子さん(当時。現・上皇后さま)のご成婚でしたよね。
堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。昭和21年(1946年)1月1日、昭和天皇は有名な「人間宣言」を行い、「私たち皇族も、あなたがた庶民と変わらぬ人間である」と公式にお認めになりました。しかし戦後、正式に「身分」というものが否定されてもなお、皇族は特別な存在でありつづけました。そんな中、皇太子さまが、伴侶と見定めた正田美智子さんが旧華族・旧皇族の出身ではなかったことが、多くの国民を驚かせ、感動させたのです。
――旧来の身分制度に縛られないというメッセージを受け取った人が多かったんですね。「皇族」と「平民」の結婚は、戦後の自由さを象徴すると考えられたそうで、日本中で喜ばれました。
堀江 戦後ほど、皇族が国民のロールモデルとしての役割をもっとも果たしていた時代はないかもしれませんね。太平洋戦争の手痛い敗戦から15年が経過し、日本人が新しく生まれ変わっていかねばならなかった当時、天皇家の方々が国民に率先して新時代を切り開いている……そういうインパクトがあったのだと思います。
「結婚」によって、皇室への国民の支持は急回復しましたが、その後も、皇室に対する国民の関心が急激に上がるイベントといえば「結婚」という図式ができてしまったともいえるでしょう。
――女性皇族に関心が集まりはじめたのはいつくらいからですか?
堀江 戦後すぐの時期です。女性皇族には、皇位継承権がありません。その結婚もある意味で「私的」なものだといえるのですが、逆に国民には親しみを持ちやすいのでしょうね。ちなみに、結婚によって皇室を離れる女性皇族に、世間の女性たちにとってのロールモデル――いわゆるお手本として振る舞うことが期待されているようになっていったのは、戦後のマスコミが作った「新しい伝統」でもあります。
成城大学の森暢平教授の論文(『昭和20年代における内親王の結婚:「平民」性と「恋愛」の強調』)には、多くの興味深い調査結果が示されています。少しご紹介すると、敗戦直後の昭和22年(47年)には、当時人気だった4つの女性雑誌が掲載した皇室記事は合計11頁しかなかったそうです。
しかし、そのわずか6年後、昭和28年(53年)には、女性雑誌の皇室記事は合計337頁まで急増です。その後も、戦後すぐには0だった、個人として女性皇族を取り上げる記事がジワジワと増えていっているのが注目されます。昭和34年(59年)の皇太子さまと、正田美智子さんの結婚の報道で「大成功」を経験した雑誌メディアは、言葉は悪いですが、2匹目、3匹目のドジョウを狙おうとして、昭和天皇の未婚の3人の皇女がたに注目し、国民もこの方々に熱視線を浴びせるようになりました。
――サイゾーウーマンでも、昭和天皇の第三皇女の孝宮さま(後の鷹司和子さん)、第四皇女の順宮(後の池田厚子さん)、第五皇女の清宮(後の島津貴子さん)の結婚生活についての記事は大人気でした。
堀江 みなさんのご結婚相手はすべて旧華族出身の男性だったのですが、当時の雑誌では、「プリンセス」である皇女が、「民間」の男性と恋愛結婚なさったという論調での記事を書き連ね、人気を呼んだようです。太平洋戦争中の昭和18年(43年)、東久邇宮家の盛厚王(当時)とご成婚なさった昭和天皇の第一皇女・照宮(後の東久邇成子さん)の時には、この手の話題はほとんど出ていないのと対照的でした。
プリンセスがサラリーマンと結婚する意味
――照宮さまの時は、皇室の方のご結婚事情に庶民などが関与していい問題とは考えられなかったのでしょうか。
堀江 そうなのでしょうね。あるいは太平戦争も末期で、窮乏中の国民は、雲の上の方々の私生活に関心など抱く余裕もなかったのかもしれません。
一方、戦後最初の皇女の結婚は、昭和25年(50年)に鷹司平通(たかつかさ・としみち)さんとの婚約を発表した孝宮さまでした。敗戦から5年だった当時、鷹司さんが当時、日本交通公社の社員だったので、「プリンセス」が、「平民サラリーマン」(「読売新聞」、50年5月21日号)と結婚する――つまり「かつてない新しい時代がやってきた!」という論調で、雑誌、新聞といった活字メディアは記事を書きたてたのです。
――たしかに鷹司さんはサラリーマンでしたが、旧華族のご出身だったのでは?
堀江 はい。公家社会の中も最高の身分と格式を誇る5つの家、つまり五摂家のご出身です。平民になったのは、戦後、華族制度が廃止されたからなので、本来ならば、昭和天皇の皇女が、旧華族のご家庭に嫁ぐことになったと報道するほうが「正しい」のですが、とにかく皇女がたの結婚を「新しい時代の到来を象徴するイベント」に仕立て上げたいマスコミの手で、お二人は身分差を持つ者同士の「恋愛結婚である」と報じられてしまったのです。ちなみにプリンセスと庶民の新聞記者の淡い恋を描いた名作映画『ローマの休日』の公開も昭和28年(53年)。こういう自由を求める空気が流れていた時代だったのでしょうね。
※次回につづきます。