現在放送中のNHKの朝のテレビ小説『ブギウギ』。昭和の歌手・笠置シヅ子をモデルにしたヒロインを趣里が熱演している。視聴者の涙をさらったヒロインと愛助(モデルは吉本興業のゴッドマザー・吉本せいの次男である吉本エイスケ)の悲恋について、歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が史実の面から解説する。
目次
・『ブギウギ』スズ子のモデル、笠置シズ子の嘘
・笠置の献身的な看護と「ご褒美」
・すでに妊娠3カ月……ドラマと重なる描写
・自伝『歌う自画像』の謎とは?
・ドラマと史実で重なるパンパンガールとの交流
『ブギウギ』スズ子のモデル、笠置シズ子の嘘
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)になると、東京は何度も大規模な空襲に襲われました。『ブギウギ』のヒロイン・福来スズ子(趣里さん)のモデルである歌手・笠置シズ子は当時、父親とともに三軒茶屋の家に暮らしていましたが、ついに焼け出されてしまったのが、同年5月25日のこと。
空襲が激しくなる一方の東京での暮らしを切り上げ、笠置の父親は四国に戻りました。史実の笠置はドラマとは異なり、地方での慰問公演は少なく、東京の劇場での仕事のほうが多かったのですが、空襲で三軒茶屋の家を焼かれた直後は、京都に疎開するつもりでした。エイスケ(ドラマでは水上恒司さん演じる愛助)とは離れ離れになる覚悟だったようですね。
しかし、この時、笠置の前に「救いの神」が現れます。吉本興業の林弘高常務(当時)から「なぜか」エイスケとの同居が提案されたのです。荻窪にあった林常務の邸宅の隣は、かつてフランス人が住んでいた屋敷でした。林常務はそこを借り上げ、すでに被災していた林家の親戚やエイスケを同居させていましたが、そこに笠置も住めば良いといわれたのです。笠置は提案に乗りました。
笠置は、この時、林常務が彼女とエイスケの関係にまだ気づいていなかったと書いていますが、さすがにそれは嘘でしょう。林から、エイスケとの同居の誘いを受けた理由については、笠置の自伝『歌う自画像』には何もないのですが、林常務はエイスケの叔父でもあったので、エイスケの母・吉本せいが猛反対することを見越しながらも、甥っ子と笠置の関係を応援してくれていたようです。
笠置の献身的な看護と「ご褒美」
しかし、エイスケはこの屋敷の本館2階の洋室にいたのに、なぜか笠置は別棟の「八畳の茶室」に、林常務の焼け出された親戚たち5人家族とともに寝起きしていたようです。
笠置の自伝を読む限り、エイスケが特に肺結核が再発していたというわけでもないようですが、笠置はエイスケの部屋を頻繁に訪れ、掃除を熱心にしたり、汚れ物の洗濯をしたとも自伝に書いているため、なぜ、多少でも裕福な家庭にはお手伝いがいて当然の時代なのに、笠置がわざわざエイスケの身の回りの世話をこまごまと焼いたのかには疑問が残ります。
おそらく、ドラマの愛助ほど重篤だったではないにせよ、史実のエイスケにも肺結核の症状が出ており、笠置がエイスケの看護婦を買って出て、献身的に看病したということがあったのではないでしょうか。
林常務やその親戚の目を盗み、笠置とエイスケとは視線で通じ合い、「衆人環視の中で愛情の火花を散ら」して逢い引きを重ねる甘美な経験をしたそうですが、それが林常務から黙認されていたのは、笠置の献身的看護に対する「ご褒美」だったからかもしれません。
明日の命をもしれぬ戦争末期の東京に花開いた二人の恋愛を、笠置は「雨空の花火」にたとえ、「この荻窪時代が忘れ難いロマンス・アルバム」とも言っています。
しかし、二人の「同棲」はなぜか半年で終了してしまいました。
すでに妊娠3カ月……ドラマと重なる描写
笠置の自伝によると、林常務がようやく二人の関係に気づいたからだそうですが、気づいていなかったわけもなく、本当の理由は定かではありません。振り返れば、笠置とエイスケの同居が始まったのは昭和20年(1945年)の6月くらいからですが、同年8月15日に日本は終戦を迎え、少なくとも離れ離れのまま、空襲でどちらかが死ぬという最悪の事態だけは回避できたことから、林常務が解消を切り出したののかもしれません。
あるいは林常務が二人を同棲させていることが、エイスケの母・吉本せいなど吉本家に伝わってしまったのかもしれませんね。
しかし、同棲は解消しても、笠置とエイスケは逢い引きを繰り返していました。笠置の自伝によると、彼女がエイスケの子を妊娠していると医者に告げられたのが、昭和21年(1946年)10月のこと。すでに妊娠3カ月でした。
ドラマでは、箱根でスズ子と愛助が結ばれたことを匂わせる描写がありましたが、史実の笠置が妊娠したのは、この年の夏ごろだったようですね。ですから、その最悪でも時点まではエイスケはそれ相応に元気だったのかもしれません。
自伝『歌う自画像』の謎とは?
しかし、笠置の自伝『歌う自画像』には謎があります。なぜか笠置はエイスケが肺結核で寝付いたり、それで亡くなったという「事実」に絶対に触れようとしないのです。自伝には、エイスケが18歳で「ロクマク(肋膜炎)」を患い、慶大病院に入院したことは書かれているのですが、その後「どうも胸の方が弱くなった」と書いているだけなのですね。
エイスケの死因についても、笠置は本来ならば「奔馬性結核による急性肺炎」と自伝に書くべきところを、あえて結核とは書かず、「奔馬性急性肺炎」とだけ書いています。これらについては、愛娘・エイ子が将来、差別をうけないための対策だったのではないでしょうか。
当時、結核患者本人だけでなく、その家族も差別されるという現実がありました。結核が遺伝する病気ではないにもかかわらずです。笠置シヅ子の自伝『歌う自画像』の記述も、当時の世相を反映し、肺結核だったエイスケとの関係については、微妙に真実とは異なる内容が書かれている可能性は大きいと筆者は考えています。もしかしたらエイスケもそれなりに元気だったから笠置とセックスできたというより、遠からぬ自分の死を覚悟し、なんとか命のバトンをつなげようと笠置と愛し合っていたのかもしれません。
また、笠置はエイスケとは正式に結婚できず、エイスケは早逝しているので、エイ子は「父なし子」で婚外子というハンディも負っています。おそらく笠置の自伝『歌う自画像』が、エイ子の誕生の時点でなぜか終わってしまっている不自然さについても、この点から説明ができるでしょう。
将来、エイ子の人生に何か問題が発生し、吉本本家を頼らねばならなくなったときに、エイ子の来歴を証明するための資料が必要だから書かれ、出版もされたのが、笠置シヅ子の自伝だったはずです。それゆえに、エイスケや吉本家に都合の悪い真実も書かれなかったような可能性は大きいのですね。
ドラマと史実で重なるシングルマザー・笠置とパンパンガールの交流
当時の日本では、病気や境遇などが「普通」ではないと判断されうる人びとに対しては、現代以上に厳しい目が向けられ、差別されがちでした。笠置のように稼げる歌手であったところで、戦後すぐの日本を「シングルマザー」として生き抜くことは、本当にハードモードの人生となりました。
ちなみに『ブギウギ』、第20週「ワテかて必死や」では、おミネ(田中麗奈さん)がスズ子のインタビュー内容が不服として怒鳴り込んでくるシーンがありましたが、二人は腹を割って話し合った末に和解し、友情を育むまでになりました。
ドラマのおミネと仲間たちは、生活のために売春せざるをえない「パンパンガール」で、世間から差別を受けていたのですが、史実の笠置シヅ子も、「ラクチョウのお米」と呼ばれたパンパンガールの親玉的女性とわかり合える部分があったのか、交流を育んでいます。
お米たちは笠置のコンサートの常連客でもありました。ドラマ同様あるいは、ドラマ以上に、史実の笠置シヅ子は苦労人であったようですね。次回につづきます。
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