今期放送中の『大奥』(フジテレビ系)。同シリーズの熱心なファンである歴史エッセイスト・堀江宏樹氏によれば、歴史改変だらけの今作において、最終回で歴史的事実が描かれるとのこと。詳しく解説いただきます。
目次
・『大奥』には珍しい歴史的事実とは?
・村民を失った村での「疑似家族」
・田沼意知と大噴火は密接に結びついている
『大奥』には珍しい歴史的事実とは?
ドラマ『大奥』、前回(第10話)が、最終回ではなかったのですね……。「上様、死なないなぁ」と思っていところ、まさかのご喀血。病名は少なくとも今回は明らかになりませんでしたが、風邪ではなく、実は肺結核だったということでしょうか。
史実の15人いる歴代徳川将軍の中で、肺結核(あるいはそれを思わせる症状)で亡くなった人は一人もいません。
基本的に結核とは、不衛生かつ栄養の足りていない生活を送っていて、免疫が弱ってしまった貧しい層に多かった病気なのですが、当時の江戸の町では、大事に育てすぎた「箱入り娘」、もしくは頭のよい「箱入り息子」こそが結核になりやすいという風説さえありました。
「おたくのお子さん元気でうらやましいわぁ(うちは贅沢に育てすぎて、結核になっちゃったぁ)」というマウントの取り合いが江戸の町家のおかみさん同士でもあったり、当時の結核は特効薬がない「不治の病」なのに、恐れるよりも「黒猫を抱けば治る」とか、「恋すれば治る」とか、その程度の認識しかなかったのは、どうせ治らないのであれば、考えすぎて絶望することを防ぐための知恵だったのでしょうか。
それはともかく、次回(最終回)では、浅間山が噴火し、江戸でも火山灰が落ちてくるのが予告で確認されたので、家治が蟄居(ちっきょ)閉門を命じた田沼意次(例によって歴史的事実はありません)を呼び戻して云々……という内容だそうです。
これは天明3年(1783年)、浅間山の歴史的大噴火のことですね。史実ガン無視が通常運転の今期の『大奥』では本当に珍しい歴史的事実の登場で、徳川家治の治世末期に起きた大事件でした。現在の群馬県・長野県の県境に位置する浅間山は同年4月くらいから小規模な噴火を見せ始め、5月にも噴火、6月18日には大噴火を記録したのです。
さらに6月28日以降は連日連夜の大噴火が続いている中、7月6日の夜、超高熱の大量の溶岩流が突然、浅間山腹から吹き出し、時速100キロもの猛スピードで付近の村や田畑を土砂の底に埋めつくした……という大惨事となりました。
村民を失った村での「疑似家族」
現代人ならば避難を考えるのでしょうが、お上(幕府)の同意も得ないままで土地を離れる自由は当時の農民にはありませんし、そもそも極貧の地域だったので、村を出てもどこかで暮らしていける保証はおろか、逃亡資金などの確保も厳しかったのだと思われます。
土石流の被害の後も、そういう貧しい村が多かったので復旧作業の困難さは目に見えていましたが、もっとも被害の大きかった鎌原村は幕府の直轄領(天領)でしたから、すぐさま幕府が救援を開始してくれたのでした。
しかし、幕府=お上はお金を出してくれれば御の字程度なので、近隣地区の実力者が自腹を切って被災者を養い、公共事業を起こし、なんとかせざるを得なかったというのが実情に近かったでしょう。つまり何が起きても、自分たちのチカラでなんとかする必要があったのが江戸時代というわけですね。
さらに恐ろしいのは、鎌原村のように幕府の領地ではなく、貧しい旗本の領地だったりすると、その村の復旧はさらに遅れてしまったという事実ですが……。
ほとんどの村民を失ってしまった村々では、生き残った人々の間で急きょ、再婚の縁組、養子縁組が行われて「疑似家族」が構成され、無事に残った土地を均等に分け合い、それでなんとか絶望におちいりがちな心を癒やしあって、復興作業にも尽力できたという興味深い記録もあります。当時の日本においては身分を問わず、結婚とは愛情の問題というより、生活のためのユニットとして必要だったということですね。
絶望ほど恐ろしい病はありません。それこそ哲学者・キルケゴールの言葉ではありませんが、絶望、それは死に至る病ですから。
田沼意知と大噴火は密接に結びついている
天明期の浅間山大噴火のその後ですが、吹き上げられた火山灰が陽光を遮り、黒い灰が舞い落ちてくるどころか、空が昼でも真っ暗という状態が何年にもわたって続き、その日照不足が原因で、武蔵の国(現在の埼玉県)などでさえ2年連続凶作となるなど、かなり広い地域の人々の暮らしを長期間にわたって苦しめる惨事になりました。
噴火の翌年、つまり天明4年(1784年)には、田沼の息子・意知が遺恨で刺殺される痛ましい事件が起きていますが、それでも犯人の佐野政言(さの・まさこと)は喝采をあびる始末で、この噴火と飢饉が、田沼意次が蔓延させた金権政治への神の怒りだと世間では考えられていたことを象徴しているようです。この当時からいわゆる「陰謀論」が大好きな層は大勢いたことがうかがえ、興味深いですね。
このように天明期の浅間山の大噴火とその後の飢饉は、それまで飛ぶ鳥を落とす勢いだった田沼の失脚にも密接に結びついているわけですが、それでも家治が生きている間は、なんとか田沼の政治的生命も首の皮一枚でつながっていたという感じでしょうか。その後、田沼は天明6年(1786年)、家治の死とともに没落してしまいました。
浅間山の大噴火については拙著『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房・王様文庫)でも触れましたので、ご興味のあるかたはぜひご一読ください!