歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が今期のNHK朝のテレビ小説『虎に翼』を史実的に解説します。
目次
・『虎に翼』名字で悩んだのは息子だった
・清朝のプリンセスから「男装の麗人」になった川島芳子
・日本軍の女スパイとして活動、中国で処刑に……
・アイドル的人気者だった女性琵琶奏者・鶴田櫻玉
・46歳で男装奏者として復帰
『虎に翼』名字で悩んだのは息子だった
先週の『虎に翼』は、ヒロイン・佐田寅子と、交際相手の星航一が、名字問題で悩んだあげく、あえての事実婚を選択するという展開で驚かされました。
史実では、「名字を変えてよいものか」と悩んだのは寅子のモデル・三淵嘉子さんではなく、その長男の芳武さんでした。芳武さんは、義理の父親になった三淵乾太郎さんとはすぐに打ち解け、仲良くなれたそうですが、それでも亡くなった父親のものである和田の姓を生涯、名乗り続けていますね。
しかし、先週の放送内容でもっとも興味深かったのは、『虎に翼』の人気を支えてきた「よねさん」こと山田よねが、自身のセクシャリティやジェンダーについて語ったことでした。
「男装はしているが、男になりたいわけでもない」「恋愛相手としては、男も女も辟易した」という内容だったと思います。よねは現代風にいうと、性自認が曖昧な「Questioning(クエスチョニング)」「Queer(クィア)」と呼ばれるタイプかな、と感じつつも、戦前・戦後の日本には世間からステレオタイプの「女扱い」をされるのを嫌って、男装人生を意識的に選択する女性が存在していたのを思い出したのです。
清朝のプリンセスから「男装の麗人」になった川島芳子
彼女たちには、男性との関係に深刻なトラブルを経験した結果、男装するようになったケースが目立つようです。興味深い例としては、清朝の皇族のプリンセスとして、愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら・けんし)という名前で生まれながらも、日本人運動家・川島浪速の養女となった川島芳子という女性がいます。
彼女が日本に渡ることになったのは、明治44年(1911年)の辛亥革命で清朝が倒れたからなのですが、父親代わりに慕っていた川島浪速から、17歳になった芳子が性関係を無理強いされるというひどい経験をしています。この時、ピストル自殺を試みた芳子ですが、未遂に終わりました。
しかし、芳子は「私は女を捨てた」といって長い髪を切り落とし、男物の服を着るようになりました。清朝のプリンセスという血統、そして美しい容貌もあって、芳子の決意文は新聞に掲載までされた結果、彼女は「男装の麗人」として有名になっていくのです。
ドラマの山田よねは姉を救おうと悪徳弁護士を頼ったものの、報酬の代りに身体を要求され、応じざるをえなくなりました。すべてに絶望した結果、「女を捨てた」――つまり髪を切り、男装するようになったと記憶しています。
川島芳子の男装にも「(とくに男性から)女性として見られたくない」という思いが反映されていたと思われるのですが、ビジュアルのよさゆえに女子学生たちからアイドル視されてしまい、芳子の真似をして男装し、自分を「僕」と呼ぶ若い女性が増えたともいいます。
しかし、芳子もそういう世間からの想定外の好評を得て、自身の女性性の受け止め方に変化があったでしょう。 そして「私は女を捨てた」と宣言した2年後の昭和2年(1927年)、芳子は早くも女性として、清朝復興運動をしていたカンジュルジャブというモンゴルの軍人男性と結婚しています。結婚写真にはウエディングドレスを着た芳子が写っているのですが、夫の親族との関係が悪く、わずか3年で離婚してしまったのでした。
その後、上海に出た芳子は再び「男装の麗人」としての人生を選択しています。何か男性との間に問題が起きると、女を捨てたくなる=男装したくなるのは興味深いのですが、今度の芳子は男性軍人向けの軍服に身を包んでいました。そして、そのビジュアルゆえに彼女は社交界でも大人気となっていくのです。
日本軍の女スパイとして活動、中国で処刑に……
しかし、芳子は単にアイドル的存在であったわけではなく、日本軍の女スパイとしての活動も始めていました。「中国革命の父」孫文の長男にハニートラップをしかけたり、日本人軍人・田中隆吉少佐と道ならぬ恋愛に陥ったり……「業深い」と評するしかない女の人生を、男装しながら送るという複雑なこじらせぶりの芳子でした。
しかし、日本軍の傀儡政権だった満州国において、中国人が不当に虐げられている現実に衝撃を受け、その告発運動に携わったことで、日本軍から芳子に暗殺指令が出されてしまったのです。
はからずも中国と日本の両国から命を狙われるようになった芳子は、身を隠して暮らさざるをえなくなり、第二次世界大戦終戦後の北京で捕縛されました。そして彼女からすれば同朋である中国人たちから「裏切り者」として糾弾され、処刑までされてしまったのです。
川島芳子は「女を捨てた」ことで世間に注目され、その名声の中でさらに自分を見失ってしまった部分がありますが、芳子同様に男性との関係のトラブルの結果、「女を捨てた」ことで社会的に大成功を収めた女性もいました。
アイドル的人気者だった女性琵琶奏者・鶴田櫻玉
琵琶奏者・鶴田錦史(つるた・きんし)の例は特にドラマティックだといえるでしょう。
鶴田の人生は波乱万丈で、それこそドラマにしたら面白いかもしれません。北海道の開拓農民の娘・菊枝として生まれた鶴田ですが、7歳で父を亡くして上京します。
そして11歳で、当時人気があった薩摩琵琶を学び始めるやいなや、あっという間にプロの演奏家としてデビューするほどの上達を見せました。情熱的な演奏スタイルが「男っぽい」とも評されました。しかし芸名はまだ「鶴田錦史」ではなく、「鶴田櫻玉」という女性演奏家らしいもので、ブロマイドが売られ、アイドル的人気がありました。
女学生時代から兄の袴を借り、それで通学した逸話などがありましたが、周囲からは「少し変わった癖」として受け取られていただけのようですね。
鶴田は女性演奏家として琵琶を奏でながら、22歳になった昭和8年(1933年)には同い年の弟子の男性と結婚し、二人の子を設けています。しかし、夫の浮気を知ると愛情は一気に冷め、わが子も弟子家族の養子にしたり、元夫に押し付けたりして身軽になったのでした。
その後は戦争が激しくなって、世間が琵琶どころではなくなると、鶴田はナイトクラブ経営など水商売の世界の女性経営者に転身し、そこでも大成功を収めました。すでに恋の相手も、女性になっていたようです。
しかも次々と年若い美女たちを恋人にしたということはモテたのでしょうが、4人ほどいたお気に入りのうち、元・銀座の美人ホステスだった幸子は、鶴田にとっては妻であり、琵琶の弟子でもある大切なパートナーとなりました。
46歳で男装奏者として復帰
鶴田が46歳になった昭和33年(1958年)、彼女は芸名を「櫻玉」から男名前である「錦史」に変え、久しぶりに琵琶の世界に復帰しました。
しかしその時、鶴田は羽織袴の男装奏者として舞台に立ったのです。それでも女流奏者であるという意識自体は捨てなかったようですね。山田よねのように「男装しているから、男になりたいというわけでもない」からだったのでしょうか。「女装」の女性演奏家の演奏に求められがちな、「女らしさ」を嫌ったのかもしれません。
鶴田は、クラシックの音楽家・武満徹とのコラボレーションで世界的な名声を獲得していくのですが、武満との出会いは昭和39年(64年)のことでした。鶴田が奏でる独特の琵琶の音色に惹かれた武満は、東京・亀戸にあった鶴田の家を訪問したのですが、対応してくれたのは、鶴田の妻の幸子でした。
「先生はいまパチンコに行っています」といわれた武満が、鶴田の家で待たせてもらっていると、帰宅してきた「先生」のビジュアルが、スーツ姿の中年男性だったので、女流奏者だと聞いていた武満はびっくりしたそうです。
しかし、鶴田には神秘的な威厳があり、男装の理由や、幸子との関係を気軽に質問することなどは絶対にできなかったとか……。
今回は山田よねというドラマのキャラから思い出される川島芳子と鶴田錦史という「男装の麗人」二人を取り上げましたが、ひとくちに男装した人生といっても人それぞれのドラマがあるものですね。