歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が今期のNHK朝のテレビ小説『虎に翼』を史実的に解説します。
目次
・女性は20年ほど寿命が延び、介護問題も身近に
・『虎に翼』の時代、「寝たきり老人」が存在しえないワケ
・江戸時代以前、介護は長男の仕事だった
・実は80歳、100歳もいた江戸時代の高齢化社会
・富裕層だった杉田玄白がヘルパーを雇わなかった背景
女性は20年ほど寿命が延び、介護問題も身近に
『虎に翼』、「原爆裁判」の内容と並行して、ヒロイン・寅子が介護問題に直面するという内容が続きました。寅子にとっては頼れる義母だった星百合(余貴美子さん)が、認知症によって変わっていってしまう様子にやるせなくなった方も多いのでは。余貴美子さんは本当に幅の広い演技で魅せてくれる名優ですよね。
筆者の中では、ネトフリで昨年公開されたドラマ『サンクチュアリ-聖域-』で、余さんが主人公のワイルドすぎる母親を楽しそうに(?)怪演していた記憶がまだ鮮明だったので、病み衰えた百合の姿が、同じ女優さんが演じているとは思えないほどでした。
昭和30年(1955年)の調査によると、当時の日本人の平均寿命は男性63.60年、女性67.75年だったそうです。それに対して令和5年(2023年)は、男性が81.09歳、女性が87.14歳でした。男性より女性が長生きという傾向は昔から変わりませんが、女性は約68年の間で、20年ほども寿命が延びたことになります。
残念ながら、介護が必要ではないという意味での「健康寿命」には限りがあり、昭和中期にあたる昭和30年代にくらべて寿命が延びたぶん、さらに身近な悩みになっているはずです。
『虎に翼』の時代、「寝たきり老人」が存在しえないワケ
最近、『虎に翼』のドラマ内の時間軸は「◯年後」という感じで頻繁に飛んでいくため、正確に把握できているかは自信がないのですが、星百合に認知症の症状が出たのは昭和30年代はじめで、「家族に見守られながら静かに息を引き取った」というナレーションで死を告げられるまで、4年程度だったのではないかと思われます。
しかしこの時代、介護といっても現在とはかなり様相が異なりました。現在では、足腰の機能が弱ってきたら、理学療法士によるリハビリを受けられます。
ところがそうした機能回復訓練でQOLの向上を目指すことがはじまったのは1960年代か、それ以降の話で、ドラマの舞台である1950年代には一度、足腰が弱りはじめると静養させるくらいしか方法がなく、そのまますぐに寝たきりになって、その数カ月後には亡くなるのが一般的なケースだったのですね。つまり当時、基本的に「寝たきり老人」は存在しえない医療環境でした(新村拓『痴呆老人の歴史』法政大学出版局刊)。
たとえ認知症になっても、目を放したすきに転倒したり、骨折したりで寝たきりになってしまうとすぐに亡くなるしかない……ということで、介護問題が長引かないのが昭和中期までの日本の常識だったといえるでしょう。
それに対し、星家においては比較的裕福な家族と、通いのお手伝いさんが連携して百合の面倒をみることができていたので、寝たきりになることもなく、多少のトラブルはあったにせよ、最後の日々が穏やかに続いたという点で、昭和中期にはかなり珍しいケースだったといえるかもしれません。
1960年代以降の日本では、男女ともに平均寿命が延びる一方でしたが、それにリハビリの普及が貢献していたことは疑いようもないでしょう。ただ、それにともない医療費の増大は避けようもなく、現代に続く長寿社会の光と影をわれわれは経験させられているわけなのです。
江戸時代以前、介護は長男の仕事だった
社会問題をテーマとした小説で知られた作家・有吉佐和子が、『恍惚の人』を新潮社から刊行したのが昭和47年(1972年)のことです。アルツハイマー症になってしまった義父・茂造の面倒をヒロイン・昭子とその家族――しかし実際的には、主婦である昭子が主にみることになる筋書きでした。
『虎に翼』の星家のように連携して介護に当たれているケースは昭和期でも、もちろん現代日本でも少なく、一家の主婦の手だけになぜか委ねられてしまっていることのほうが多い気もします。
しかし、興味深いことに明治維新以前、つまり江戸時代以前の日本では、一家の長男が両親の介護をメインに取り仕切るのが常識だったのですね。武士などの場合は、親の病気が重くなると、介護休暇を(何度でも)申請することが認められたほど、介護は長男の仕事と相場が決まっていたのでした。
身分が低い武士でもそれは同じでしたが、「自分のような人間が休職して周りに迷惑をかけられない」として、自主的に武士を廃業するケースまであったとか……。いわゆる介護離職は、この頃からあったのですね。
長男が、老親を介護する理由については、当時が身分社会であったことが反映していると筆者は考えます。儒教的道徳において、家中でもっとも身分が高いのは親であり、彼らに親しく触れることができるのは、親の次に身分が高い長男だけという発想ではないでしょうか。長男の妻など、女性は論外というわけですね。
実は80歳、100歳もいた江戸時代の高齢化社会
よく「江戸時代の平均寿命は40代になる前に尽きていた」と語られますが、そういう状況は、明治後期の日露戦争あたりまでは同じでした。しかし、その理由は基本的に乳幼児の病死率が非常に高いからで、元気に20歳を超えられた男女は60歳を超えても普通に生きていることがよくあったそうです。
江戸時代には、日本全体を総合的に調査する「国勢調査」のようなものはありませんでしたが、盛岡藩における元禄10年(1697年)9月の調査によると、盛岡藩内には780人の80歳以上の男女がおり、100歳以上(すべて女性)も3人いたとか。このあと18世紀から19世紀にかけて、総人口の5%程度だった60歳以上が、15%を超える地域も登場するなど(詳細な理由は不明)、高齢化社会問題は現代日本特有の現象ではなかったとする研究もあるくらいです(柳谷慶子『江戸時代の老いと看取り』山川出版社刊)。
このように平均寿命の数字自体は短いけれど、長生きする人は結構、長生きできていた明治時代以前の日本において、高齢を理由としたリタイアが認められる年齢は、庶民の間では本人の意志次第だったところもあります。
しかし主君に命を捧げることがタテマエの武士社会では、はっきりとした理由がなければ認められませんでした。弘前藩・宇和島藩では60歳が老年を理由とした隠居が許可される基準です。金沢(加賀)藩・会津藩ではその基準がさらに厳しく、70歳だったといいます。
それ以前でも深刻な病気を理由に「もうダメです」となれば、武士でも隠居は認められましたが、そうでなければ働きに働いた結果、バタッと倒れて死んでしまうのが日本社会(とくに武士社会)における理想の「老い」と「死」だったことには驚かされますね。
富裕層だった杉田玄白がヘルパーを雇わなかった背景
「長寿」はめでたいが、足腰の不自由や痴呆など、長寿につきものの「老い」の問題は忌避される風潮があったので、寿命が長いと本人は人知れず、苦しむことにもなりかねませんでした。
オランダ語の医書『ターヘル・アナトミア』の和訳『解体新書』の成立に貢献した江戸時代の医師・杉田玄白などは、数え年84歳の長寿を誇りましたが、死の前年に書かれた『耄耋獨語(ぼうてつどくご)』という随筆の中で、老いの苦しみを表に出せていないだけなのに、「お元気で羨ましい」などと気軽にいわれることがプレッシャーという悩みを明かしています。
また、杉田はかなりの富裕層だったにもかかわらず、生活を補佐してくれるヘルパーを雇った形跡さえありません。それはおそらく医師が士分――つまり武士であるという社会状況が関係しています。
杉田が自分の老いの悩みを子どもたちに相談すると、当時の社会状況では仕事を休んで長男が傍につきっきりになるため、親としては迷惑をかけたくないという気持ちが強かったからではないでしょうか。
今回は『虎に翼』で見られた介護シーンから、日本史の中の老いや介護についていろいろとお話しましたが、儒教の影響が少なくなった20世紀の日本において、介護が主婦の仕事になっていったというのは興味深いことですね。