「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
目次
・美智子さまへのプロポーズの言葉はガセ?
・ご成婚に際して、正田家が16億円を負担したワケ
・天皇などの暮らしの面倒までお妃の実家が見る?
・美智子さまのドレスはイヴ・サンローラン
・戦後初の妃は、実業家の娘こそふさわしかった
美智子さまへのプロポーズの言葉はガセ?
堀江宏樹氏(以下、堀江) 前回までは、「美智子さまが運命の女性だった」と言い張っている三島由紀夫と美智子さま、そして上皇さま(当時、皇太子)にまつわる都市伝説についてお話してきました。
今回は終戦直後に落ちてしまった皇室人気がV字回復したと伝えられる、美智子さまと皇太子殿下のご成婚にまつわる興味深い「お金のエピソード」をお話したいと思います。
――美智子さまは聖心女子大のご出身。そして旧華族のお生まれではありません。明治時代以降、お妃は学習院出身の旧華族、皇族出身者で占められていたため、昭和中期においても異例の存在だったといわれますね。
堀江 そうです。実際、皇太子殿下も気が気でなかったのか、毎晩のように美智子さまにお電話をなさったそうです。
――愛の電話かと思い込んでいたのですが、それだけではなかったのですね。
堀江 相談や打ち合わせも、会話には多く含まれていたのではないでしょうか。ある時期まで、「嫁いでくれた後の心配はいらないから……」というような意味で、美智子さまに「柳行李(やなぎごうり)一つでよいから(=何も特別な準備は要らない)」とのセリフでプロポーズしたという逸話が世間に浸透していましたが、これは「ガセ」であることを上皇さまご本人――当時は平成13年(2001年)ですから、平成の天皇時代のご発言なんですが、「私が『柳行李ひとつで』と皇后(=美智子さま)に結婚を申し込んだとも今も言われていますが、このようなことは私は一言も口にしませんでした」とおっしゃって、完全に否定しているんですね。
それとは逆に皇太子時代の殿下は、結婚を渋る美智子さまに、皇族妃という職務の困難さをこんこんとお伝えになったようです。
昭和後期の黒木従達東宮侍従長は「皇太子(=上皇さま)としてのお心の定まりようこそが最後に妃殿下(=美智子さま)をお動かしした」と明言しています(『皇太子同妃両殿下 ご結婚20年記念写真集』時事通信社)。
――その難しい職務を任せられる女性は、美智子さま以外にはいないということですね。
堀江 はい。そして美智子さまが旧華族ではないにせよ、確固たる経済力を備えたご実家のご出身であることも、おそらく皇太子殿下は見越し、美智子さまという女性をお選びになられたのではないか……と、私には思われるのです。
ご成婚に際して、美智子さまの正田家が16億円を負担したワケ
堀江 われわれは皇室に嫁ぐことが決まった女性とその実家がご成婚に際し、どのような経済的負担をしているのかという問題について、あまり考えることはしませんね。
しかし、昭和34年(1959年)のご成婚までに、美智子さまのご実家である正田家に支給された「支度金」は一説に2000万円。皇室予算からの出費だったそうです。しかし、それだけではまったく足りず、当時のお金で1億円の予算が必要だったというのですね。
――現在の価値でいうとどれくらいでしょうか?
堀江 昭和34年の大卒国家公務員(上級)の初任給は1万200円だったそうです。90年代以降、今日まで約30年間、大卒者の初任給といえば、20万円くらいに据え置かれている現実には少々驚きますが、これで換算すると、正田家が負担したとされる残りの8000万円は現在の16億円ほどに相当……。
――16億円!!
堀江 その使い道なども「噂」にとどまっています。美智子さまの時は、皇室は戦前のような財力を失い、人気まで停滞していたので、皇太子殿下と美智子さまのご成婚によって、華麗で、しかも新しいイメージを打ち立てる必要があったのです。だからこその「1億円」だったようですが……。
戦前から、少なくとも昭和中期までは、皇族妃となった女性の「公務」にかかる費用のある部分を女性の実家が賄うことが常態化していたんですね。
天皇などの暮らしの面倒までお妃の実家が見る?
――平安時代くらいからそういう風習はあったと聞きました。
堀江 2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、天皇家に嫁いだお妃たちが華麗な宮廷生活を送っていましたが、あれは彼女たちの実家負担なんですね。天皇などの暮らしの面倒までお妃の実家が見るのです。
そういう習慣が多かれ少なかれ、昭和中期まで受け継がれてきたのですが、敗戦後、多額の財産税を課された末に経済的に弱体化してしまった日本の旧支配階層――旧華族や皇族の女性をプリンセスにすることは、現実的に難しかったのではないでしょうか。
逆にいうと古い家柄の出身者から見れば、美智子さまはなんとも恵まれ、小憎らしく感じられても致し方ありません。
また、その後――つまり美智子さまが皇太子殿下に嫁がれた後に、皇族妃となられる女性とそのご実家の経済負担も、かなり減らされていったのではないか……と思われます。
ちなみに1993年、皇太子殿下とご成婚になった雅子さまとご実家に皇室から支給されたのは「1000万円以上」(主婦と生活社『週刊女性』1993年6月15日号)、あるいは「3000万円」(浅見雅男・岩井克己『皇室150年史』筑摩書房)だったそうですね。
美智子さまのドレスはイヴ・サンローラン
――美智子さまと皇太子殿下とのご成婚に際し、さしあたりの出費といえばティアラやドレスだったのでしょうか?
堀江 ティアラなどの宝飾品については、昭和天皇の皇后陛下がかつての儀礼で用いたものを手直しして「再利用」したそうです。
しかし、興味深いのはドレスの采配ですね。皇太子妃が誰なのか、具体的にまだ何も決まっていない段階で、高松宮家の喜久子妃が皇室の第一礼装として有名なローブ・デコルテを、フランスの名デザイナー、クリスチャン・ディオールに依頼していたというのです。
しかし、美智子さまのドレスはディオール本人が急死したことを受け、その後任となったイヴ・サンローランが引き継ぐことになりました。そして細かい部分の調整は、皇后つきのデザイナーだった田中千代が担当しました。
合計3着分のドレスの費用が、当時のお金で数百万円。現在の価値で一千万円超えだったそうですが、正田家の注文ではなかったので、世間には気づかれず、マスコミに「高すぎる!」などとスキャンダル視されることもなかったといいますね。しかしオートクチュールのドレスなのですから、当然の価格帯ではあります。
戦後初の妃は、実業家の娘こそふさわしかった
――その費用も、正田家がご負担になったのでしょうか?
堀江 高松宮家の喜久子さまもご自分の「ポケットマネー」からそれなりにご出費くださっていたのでは?
もっと想像をたくましくすると、新しい妃殿下が誕生するという時は皇族妃全体で……つまり、お妃さまのご実家がお金を出し合い、その方を盛り立てようとしていたのかもしれません。
戦前の華族一家の「日常生活」は、庶民の家計の何百倍ーー600倍以上ともいわれるスケールでまかなわれてきたというお話も以前しました。それくらいの経済力があってもおかしくはない一族から、お妃は選ばれてきたのです。
しかし……やはり当時の皇后陛下や、皇族妃となっている方々から歓迎されていたとは言えない「民間出身」の美智子さまに対し、その手のカンパも大いには期待できない部分があり、そういう側面からも、戦後も実績を伸ばしている実業家のお父上をお持ちの美智子さまこそ、「新時代の皇太子妃にはふさわしい」と皇太子殿下はお考えだったのでは……と想像してしまうのですね。
――庶民の結婚でも、お互いの実家の負担分についてはモメたりしがちですが、想像以上でした。妃殿下のご実家が太くないと、現実的に皇族妃はつとまらないという厳しい現実があったのですね。
堀江 そういう背景を知ると、やはり、美智子さまに皇太子殿下が「柳行李一つでよいから」というようなことは絶対に言わなかった、言えなかったのだ……という理由がなんとなくわかる気もします。お人柄と、その出生背景――すべてが戦後初の妃殿下となるべく、美智子さまはお生まれになった方という話でもありますね。