【サイゾーオンラインより】
今回・第6回もテンポよく物語が進み、楽しく拝見できましたね。
番組公式ページによると、次回(第7回)は「好機到来『籬(まがき)の花』」と題し、「蔦重(横浜流星)は今の倍売れる細見を作れば、地本問屋仲間に参入できる約束を取り付ける。しかし西村屋(西村まさ彦)と小泉忠五郎(芹澤興人)が反発し、阻もうとする」といった内容になるのだそうです。
前回も後半あたりで、鱗形屋の孫兵衛(片岡愛之助さん)と西村屋の与八の密談を聞いた蔦重が、あまりの言われように腹を立て、証拠を掴んでいた鱗形屋の重板(=他の版元の出版物をパクって出版する犯罪行為)を密告しようかと思い立ち、しかしさすがにそれは自分のやり方ではないと自制するシーンが出てきました。
脚本の森下佳子先生は伏線の仕込みがうまいですね。蔦重から持ちかけられた「面白い青本を作りましょうぜ」というアイデアを、孫兵衛と蔦重が今でいうブレスト(ブレインストーミング)風に膨らませている最中、「源四郎」という「甘い汁を吸う」悪い「手代(=使用人)」を出して云々……と言ってしまっていました。
史実でも鱗形屋から「重板」が出たのは、同店の手代――つまり「悪い使用人」が起こした事件として処理されたのです。ドラマの鱗形屋の孫兵衛もついつい日頃考えていること、やっていることがブレスト中に丸出しになってしまっていた、という描かれ方でした。
うまいのは「甘い汁を吸う」という、なかなか実践していなければ出てこない言葉も、実際に鱗形屋孫兵衛と西村屋与八が蔦重にやっていたことでした。まさに「そなたもワルじゃのう~」というしかない会話を蔦重本人に聞かれてしまったのはイタかったですね。
史実では詳細がわかっていないあれこれをドラマ化していく手腕がお見事だと感じました。
ちなみに、鱗形屋の孫兵衛が江戸の子どもたちのために「赤本」を作ったのはオレの爺さんでよ……みたいなことも言っていましたが、歴史に詳しい方も「赤本」はあまり聞いたことがないかもしれません。
「赤本」とは子ども向けのおとぎ話や教訓物語が描かれた10ページくらいの廉価本で、値段を抑えるために悪い紙に刷られ、鱗形屋では家族総出で、店の奥座敷で手作り製本したといいます。読み捨てされたのでほとんど現存しない「幻の書物」としても知られています。もし保存状態がよいものが発見できれば、1冊100万円単位で値段がつくとか……。目印は赤い表紙の薄い本ですから、敷地に古い蔵があるご家庭の方は掃除がてら、ぜひ探してみてください。
前回のドラマには、尖ったファッションで吉原に乗り込んでくる「キンキン野郎」も描かれましたが、まさにそういう主人公を出して大ヒットさせた作品『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が鱗形屋から、この時期(安永4年・1775年)に発売されました。もしかしたら流行りに敏感な蔦重が、鱗形屋孫兵衛にアドバイスして作らせた本といえるかもしれませんね……。
まぁ、鱗形屋孫兵衛が「簡単に安く作れて、ドッカーンとヒットする本を作れ(要旨)」などと気軽に言っていましたが、筆者の周辺の編集者たちはここで苦笑したそうです。出版社のエラい人は、今でもそういうマインドだとか。そんなに簡単にいくわけがないのを知っているからこそ、夢を語りたくなるのでしょう(笑)。
さてさて、前回のおさらいはこれくらいにして、次回のメイントピックとなりそうな蔦屋版の「吉原細見」についてお話してみましょう。「吉原細見」は、吉原ガイドブックというべき書物の総称です。春と秋の年2回発行で、江戸時代にはかなりの人気を誇った「売れ筋」の本だったのです。
しかし、ドラマでも「重板」の罪で鱗形屋の孫兵衛や手代たちが捕らえられてしまっていましたが、それで安永4年の秋に出版せねばならない「吉原細見」の発行ができなくなってしまいました。主犯の手代は江戸から追放されましたし、孫兵衛にも重い罰金刑が課されたからです。
当時、「吉原細見」は鱗形屋の独占状態でしたが、蔦重は最大のライバルが本を出せなくなったスキに自分のアイデアを満載した、新しい「吉原細見」製作に乗り出します。蔦重の「吉原細見」の最大の特色は、それまでの「吉原細見」より紙を倍の大きさ(19センチ×13センチ)に、本の厚みを半分にしており、それが読みやすかったこと。
そして、吉原の内部を「◯◯町」という町名ごとに区分し、本のページの真ん中に「●●通り」という線を引き、店を順番に並べていく便利なMAP機能を付けたことなどです。
その後も蔦重版「吉原細見」は毎年少しずつ変更され、天明3年(1783年)に刊行された「吉原細見」には、蔦重が始めたとされる巻末広告のページも見られますね。蔦重は「吉原細見」の成功をきっかけに、次々とさまざまなジャンルの本の出版をはじめ、事業を拡大していくのでした。
こうした吉原サイドの物語はともかく、江戸城サイドの物語がよくわからない……という声も聞きますので、次回予告にはなかった内容についても補足しておきましょう。今回触れたいのは将軍や大名、旗本といった高位の武士たちが「日光社参」するというあたりです。田沼意次(渡辺謙さん)の財政再建策が功を奏し、「めいわく火事」こと、ドラマ第1回の冒頭で描かれた明和9年(1772年)の大火事以前の財政水準に戻ったところなのに、10代将軍・家治(眞島秀和さん)が、嫡男・家基(奥智哉さん)も強く望んでいるとのことで、「日光社参」に強い意志を持っていることが描かれました。
将軍家直々の「日光社参」とはなにかというと、これは15人いた徳川将軍たちが、計19回執り行った「神君」家康公の墓参りです。ご存知のとおり、現在の栃木県日光市には東照宮があり、家康公の御遺体が埋葬されているのですね。ちなみに全19回のうち、なんと10回は家康を慕いすぎた孫・家光(3代将軍)の参詣で、必ずしも将軍たる者、在位中一度は墓参せねばならないというワケではなく、実は日光に行った将軍のほうが少ないのです。
しかし、家治の祖父にあたる吉宗は、もちろん自分も家康の子孫ではあるけれど、かなり傍流の生まれですから、「神君」家康の威光に私もつながっているんだぞ!という世間一般への示威行為と、彼が好んだ軍事訓練も兼ね、参詣を敢行することにしたのです。吉宗は「ケチ宗」というべき御仁でしたが、なんでも倹約、倹約のケチ宗さまがその生涯でほぼ唯一の大盤振る舞いに及んだイベントでした。
吉宗の息子・家重(9代将軍)はトイレが近く、病弱だったので参詣できないにせよ、吉宗の孫で、家重の息子である家治(10代将軍)は壮健でしたから、「幕府中興の祖」である祖父・吉宗の意向を自分が受け継がねば……と思ったようですね。
もともと例の大火事があった明和9年に敢行する予定が、この年は火事や数々の天変地異、おまけにその前年には家治最愛の御台所・五十宮倫子まで亡くなっていたので、取りやめになっていたのでした。
そして安永5年(1776年)、ついに決行されたのですが、経費は全部で22万3000両(江戸中期は1両7万5000円くらいという説を採用すると、現在の約167億円)もかかり、近県の農村から農民400万人、馬30万頭の徴発をして迷惑をかけ、逆に将軍家の威信を低下させてしまった行為だったと見られます。
まぁ……ドラマでも経費削減のため映像化はされないでしょうが、外見はたいそう華麗だったようです。眞島秀和さん演じる、高貴で凛々しい家治公による日光社参を我々は心で思い描くとしましょう。
(文=堀江宏樹)