【サイゾーオンラインより】
「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
目次
・学習院の院長はカリスマ軍人・乃木希典だった
・学習院初等科、生きた豚を日本刀でズタズタに殺す“教育”
・軍人・乃木希典による独特すぎる教育方針とは?
学習院の院長はカリスマ軍人・乃木希典だった
――悠仁親王が筑波大学に進学したことで、現代の秋篠宮家の方々の「学習院嫌い」があらためてささやかれています。しかし、実は明治期においても皇族がたから学習院は嫌われてしまっていた? ……というお話を、前回から歴史エッセイストの堀江さんにお伺いしています。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 明治末の皇族、伏見宮博恭(ふしみのみや・ひろやす)王は、長男・博義(ひろよし)王を学習院から東京府立四中に転校させたのですが、その理由は「学習院に於ける教育方針(小笠原長生『博恭王殿下を偲び奉りて』)」への反発でした。
実は終戦までの学習院において、17人いた院長のうち9人までが軍人あがり。戦前の学習院といえば、優雅なイメージを抱く方が大半でしょうが、実際はかなり「軍人ノリ」が強い、硬派すぎる学校だったようです(とくに男子部)。
そういう校風も、「男たるもの強くあれ」という明治天皇の御意志を反映したものだったのですが、実は伏見宮博恭王などの皇族だけでなく、華族の一部からも積極的に拒否されていたのですね。
――学習院中等科に入学させていた我が子・博義王を、学習院の「教育方針」が原因で東京府立四中に転校までさせてしまった伏見宮博恭王は、具体的には何にお怒りだったのでしょうか?
堀江 その質問に答えるための確たる史料はありません。それゆえ、これは私の推測になるのですけれど、おそらく博義王が学習院中等科にご在学中だった当時の院長は、あのカリスマ軍人・乃木希典(のぎ・まれすけ)で、乃木の教育方針が関係しているのですね。
明治天皇の御意向で、明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官だった乃木は、学習院長も兼任することになりました。
もともと乃木は二人の息子を日露戦争で失くし、国家に滅私奉公を尽くす人物と知られていたのですね。明治天皇が「亡くなった子息たちの代わりに多くの子どもたちをそなたに授ける」といって、学習院の院長にしてやったという「美談」が語られていますが、実際にそういうやりとりがあったかは不明。なんの根拠もありません。
しかし、明治天皇から乃木には、元・軍人だからこそ、皇族・華族の子どもたちにリアルな「武課教育」――軍国教育を授けられるという期待が持たれていたことはわかっています。
史料によると、博義王が学習院中等科から東京府立四中に転校なさったのが、王が満年齢で14歳だった明治44年(1911年)5月でした。これは、乃木希典が学習院院長を務めていた時代にあたります。伏見宮博恭王が愛息・博義王の転校を決意したのは、乃木流の「教育」が原因だったといって間違いないでしょう。
学習院初等科、生きた豚を日本刀でズタズタに殺す“教育”
――どんな教育だったのでしょうか……?
堀江 乃木は学習院を「軍学校」にしようとまでは考えていなかったようですが、それでもおつきの男女から甘やかされて育った皇族・華族の生徒たちに「喝」を入れようと、なかなか過激なことをしているのです。たとえば、初等科生徒たちに日本刀の真剣を持たせ、生きた豚を殺させました。
――真剣で「豚殺し」!? とは、小学校で豚を育て、食べてしまう「命の教育」以上の衝撃ですね。
堀江 生徒たちは剣道の寒稽古が終わったあと、連れられて来たあわれな豚を相手に日本刀を奮わなければならないのでした。もちろん達人のように一撃で豚を殺せるわけもなく、豚はズタズタのボロボロの肉塊となって死んでいくのです。
生徒たちが血まみれの剣を振るう様子を見つめる乃木希典について、「彼の時の院長(=乃木)の温顔、今も猶(なお)、歴々として前に見るが如し(『乃木院長記念録』)」という驚きの記述がありますね。殺された豚は豚汁となって生徒たちに振る舞われたそうですが……。
――寒い時期だから、豚汁なんですね。それにしても「温顔」って「優しい表情」とかそういう意味ですよね。現代なら話を聞いた保護者から速攻で苦情の電話がかかってきそうです……。
堀江 博義王が府立中等学校に転校したのが、博義王が14歳の時の話なのですが、当時、学習院の初等科には、博義王より5歳年下の弟・博忠王(のちの華頂宮博忠王)などもご在籍でした。
博忠王は当時9歳。この博忠王も乃木院長による「生きた豚殺し」を体験させられたお一人かもしれません。しかし「教育方針」が理由で学習院から転校していったのは博義王だけでした。初等科の「生きた豚殺し」以上のおぞましい「武課教育」が、乃木院長の指導のもと、中等科では行われていたのかも……。
軍人・乃木希典による独特すぎる教育方針とは?
――想像するだけでも恐いのですが、情報が残されていないことが、逆に現代のわれわれには救いかもしれません。
堀江 乃木による教育方針をまとめると、「男は男らしく」。「勉強は真剣に」、「頑健な身体を作れ」などにくわえ、「腕時計はするな。マントの襟は立てるな」――つまり、これはシャレ者にはなるな、ということでしょう。おしゃれにうつつを抜かすような軟弱者は学習院には要らん! という。
ほかには「人間の価値は目にある」ので、「まばたきは隙を作る」から気をつけろとか、下腹部に力を入れて生活しろ、など独特すぎる教えもあったそうです。それゆえ当時、学習院高等科に在学だった里見弴(さとみ・とん)など、のちの「白樺派」の文豪たちからは冷たい眼差しで乃木院長は見られていました。
「白樺派」同人の長与善郎(ながよ・よしろう)によると、乃木院長は「誠意過多症」。明治天皇から期待された「武課教育」を生徒たちに実践しようと頑張りすぎて、豚殺しなども行ったし、ほかでも「重箱の隅までほじくる干渉のやかましさ」があったそうです。要するに一部生徒には暑苦しい、うっとうしい、嫌な先生だったようですね。
――親しみを持たれる先生ではないのは確かですね。ほかの先生方は、院長の姿勢をどう受け止めていたのか気になりますが。
堀江 乃木院長の殉死後も、院長時代を偲ぶ校風は長く引き継がれたようですから、「乃木流」を「良し」とする層と、「そうではない」層には大きな断絶があったこともうかがえます。
大正8年(1919年)に学習院初等科に入学した細川護貞(細川護熙元首相の父)は、学習院を「軍隊の亜流のようなところ」で、「乃木大将の精神主義だけが残り、低級な軍隊教育の延長に反発を覚えた」と証言しています(『細川家十七代目』)。すべては戦前の話ではあるのですが、現代にも影響がないとは限らないのが学習院のような伝統校の校風問題といえるでしょう。
――秋篠宮家の「学習院嫌い」について、普通に考えているだけでは見えてこない背景が垣間見えたような気がしました……。