【サイゾーオンラインより】
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
前回(第14回)の『べらぼう』のメイントピックはなんといっても、次期将軍だと目された18歳の家基(奥智哉さん)が鷹狩の最中に倒れ、即死するという衝撃的な事件だったと思います。
ドラマでは、家基の婚約者(候補)の種姫(小田愛結さん)が贈った鷹狩用の革手袋に毒が仕込まれており、それは悔しいことがあるとツメを噛む家基の癖を見越したものだったという描かれ方でした。
このあたりは非常にうまく作り込まれており(特にあの家基の不自然なツメの嚙み方の伏線がこういう形で回収されるとは思いもしませんでした)、どこまでが「史実」なのかを知りたくなった方も多いでしょう。
問題の手袋については、松平武元(石坂浩二さん)の変死と共に、同家の奥女中と思しき人物が運び去っていく姿が描かれていました。そこに人形を操っている一橋治済(生田斗真さん)の不気味な笑顔がクローズアップ。すべては治済が「糸を引いていた」と匂わせて、次回に続く……となったわけですが、今回はこのあたりについてお話しておきたいと思います。
まず革手袋問題ですが、すくなくとも徳川家の公式史書(通称『徳川実紀』)などでは触れられていない、創作事項だと考えてよいと思います。またドラマの家基はその場で即死していましたが、あれもドラマティックに見せるための演出だと思われます。
たしかに健康そのもので、1カ月に平均2回は鷹狩に出かけていた家基が絶命するまでの事情を整理すると、安永8年(1779年)2月、家基は新井宿(現在の東京・大田区)へ鷹狩に出かけています。将軍世継である家基の鷹狩には数十名もの従者たちが付き添っていました。その中には当然、お毒見役も含まれていたのですね。
ドラマでは急死するまで家基は特に何も飲み食いしていないという設定で、どうやって毒殺されたのかを調査するため、田沼意次(渡辺謙さん)が平賀源内(安田顕さん)を起用するシーンもありましたが、史実では鷹狩を終えて江戸城に帰還する際、家基一行は東海寺(現在の品川区)で「中食」を取ったとあるのです。「中食」とは軽食休憩です。しかし、このとき家基が食べたのは江戸城内で作られ、持参されたお弁当でした。
ポイントは、調理時はもちろん、家基が食べる直前にも毒見役の検分が行われていたことです。それゆえ罰せられたのは、家基の侍医として鷹狩に随行していた池原雲伯(いけはら・うんぱく)という医師でした。池原は食後に苦しみだした家基に薬を差し出したものの、効果はまったくなく、家基は唸りながら籠に乗って江戸城に戻りましたが、2月24日(諸説あり)に亡くなってしまったのです。
当時から、池原が田沼の推薦で侍医となった経緯があることも含め、彼の手で家基にハンミョウの毒などが仕込まれたという風説が飛び交いましたが、薬を飲ませる前から家基は苦しんでいたとされるので、なにか不自然なのですね。
それゆえ家基の死の真相は、落馬事故だったのであろうと筆者には思われます。
事件当時、長崎・出島のオランダ商館長だったヘンドリック・ドゥーフ(ヅーフ)も「現将軍(=11代・家斉)の先代(=10代・家治)は、その実子が暴れ波斯(ぺるしゃ)馬より墜落せし結果、不幸にもその継承者を失へり(『ヅーフ日本回想録』)」と記しています。
しかし将軍家といえば「武家の棟梁」であり、武士が守るべき道徳や理想の生き様についても「弓馬の道」というのですが、将軍世継の家基があろうことか落馬事故で死んだのであれば、幕府としては権威保持のために公表を憚ったと考えたほうがよさそうですね。
「ペルシャ産の外来馬など江戸時代の日本にいたの?」と思う方もいるでしょうが、吉宗公が外来種の馬が大好きで、オランダ経由で大量に輸入していた事実があり、当時の幕府の上層部が外来馬に乗っていたことは史実なんですね。家基は普段から乗馬好きだったようです。鷹狩に行く際にも籠には乗らず、乗馬が得意であるように振る舞いたがりました。そういう慢心が災いしたのでしょうか。
「田沼が毒殺犯だ」という風説の真相
さて家基の次には、同年3月くらいから体調を崩していた松平武元が7月に亡くなっています。
家基、武元につづき、それから約2年半の間に(田沼にとっては目の上のタンコブ的存在である)幕府の大物政治家がバタバタと亡くなっていき、それは意次にとっては非常に都合の良いことでもありました。
こうして「田沼が毒殺犯だ」という風説は当時から存在していたようですが、それはドラマでも散々触れられてきたように足軽上がりの田沼だから、老中になった後も批判しやすかったからでしょうね。ライバルたちが消えたことで、田沼に黄金時代が到来したのは事実なのですが、その影でもっと大きな得をしていたと考えられる人物がいました。
それはドラマでも描かれたように、御三卿のひとつである一橋家の当主・一橋治済なんですね。御三卿とは当時、神聖視されていた徳川吉宗の子、あるいは孫を祖とする三家によって構成され、そのひとつの当主・一橋治済を表立って批判することは困難でした。
家治には母親違いの弟で、当時三十代の重好もいたのですが、彼は病弱で、子どももいませんでした。それゆえ、やはり一橋治済の息子である家斉――正確にはまだ元服していなかったので、豊千代と呼ばれていた男子こそが、次期将軍にふさわしいということになったのですね。
しかし、家基が父・家治から受け継ぐべきであった11代将軍の座につくことができた家斉は家基の怨霊を恐れ、彼の供養を続けていました。現代人の感覚では落馬説が本当なら、家斉が家基を怖がる必要もないのですが、家基は志半ばで無念の死を遂げたので、家斉としてはそこが怖かったのでしょうかね。
家基の生母で、10代将軍・家治の側室だったお知保の方(ドラマでは知保の方、高梨臨さん)は寛政3年(1791年)に55歳で亡くなりましたが、その後、家斉は家基だけでなく、彼女の怨霊も怖くなってしまったようで、文政11年(1828年)、朝廷に働きかけて従三位という高い官位をお知保の霊のためにいただいたのでした。
将軍生母でもない女性がこうした厚遇を受けることはめったにないので、家斉は「棚からぼた餅」式に自分が将軍になれたウラ事情をいろいろと想像し、恐れるようにもなっていたのでしょう。
また、こういう背景が考えられるからこそ、よしながふみ先生の「男女逆転版」の漫画『大奥』(白泉社)における一橋治済は、毒殺マニアのサイコパスとして描かれるようになったのでしょうね。NHKで放送された同作のドラマ版の脚本家が、『べらぼう』と同じ森下佳子先生ですから、今後、一橋治済の暗躍には期待できそうな気がします。
また、前回のドラマの吉原サイドにも変化がありました。
吉原の大黒屋の女将・りつ(安達祐実さん)が「女郎屋を廃業する」と言うシーンもありました。吉原の芸者たちの見番役――芸者たちを束ねる「事務所」を作りたいようですが、実際に女郎屋から別の商売に鞍替えするということは可能だったのでしょうか。
これはかなり興味深いエピソードなのですが、10代将軍・家治(眞島秀和さん)の母違いの弟・重好について、先ほど触れました。その重好の生母で、9代将軍・家重の側室だったお遊の方(安祥院)という女性は、系図上は旗本・松平親春の養女だとされていますが、実際は吉原を代表する三浦屋の主人・三浦四郎右衛門の姪にあたる女性だったのです。
また、家重とお遊の方の間に重好が生まれたことで、お遊の父親――三浦五郎左衛門も一躍、旗本に成り上がってしまったのですね。そうなると五郎左衛門の実家が女郎屋であることが問題視され、宝暦6年(1756年)頃、三浦屋は自主廃業に追い込まれたといいます。
家斉がそうであったように、三浦五郎左衛門も「棚からぼた餅」式の幸福が怖くなってしまうことはなかったのでしょうか……。
(文=堀江宏樹)