• 日. 5月 4th, 2025

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彬子女王の父、寛仁親王による伝説の『オールナイトニッポン』とは? 「結婚したいと思った女」告白

サイゾーオンラインより】

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

目次

『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』での「皇族あるある」
彬子さまの父、三笠宮寛仁親王による伝説の『オールナイトニッポン』
寛仁親王の結婚相手に「中学生の妹」を勧めた麻生太郎
信子さまは「心身に障害がございます」

『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』での「皇族あるある」

――放送前から大きな話題を呼んでいた『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』(ニッポン放送)。2025年4月21日の放送をお聞きになった方も多いのでは? 2時間の放送時間があっという間でしたね。 
 
堀江宏樹氏(以下、堀江) 実は彬子さまの肉声を聞いたのは、この番組が初めてだったのですが、とても聞き取りやすく、キュートなお声でしたね。 

 番組冒頭で「(どなたかが彬子さまに向かって)お話をされるときに『彬子女王は~』といわれることがあるんですけど、実は『女王』というのは皇族の身位(しんい)の一つ。(それに対する)敬称が殿下なので、『彬子女王は~』といわれると実は呼び捨てになる」という部分のお話が個人的には印象に残りました。 
 
――しかし番組タイトルは『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』なんですよね? ここには「彬子女王」とありますが……。 
 
堀江 辞書的には「女王」自体が尊称ではありますし、研究者としての彬子さまの考察をほかの書籍が引用する場合は、たとえばこういう感じですね。 
 
「彬子女王の論考によれば、昭憲皇太后および貞明皇后は袴をともなわない小袖型の着物を」云々(本橋弥生『モダン・ファッションのパイオニア 田中千代』平凡社)。 
 
 「女王」はもちろん「皇太后」「皇后」にも「陛下」といった敬称は含まれていません。こういうものもTPOなところはありますよね。 
 
 彬子さまがラジオでお話しになられた部分のポイントは、会話中のお相手から、「殿下」なしに「彬子女王」とだけ呼ばれるのは少々、違和感があるということだと思います。いわゆる「皇族あるある」として、女王殿下の「すべらない話」の持ちネタのひとつでしょうか。 

彬子さまの父、三笠宮寛仁親王による伝説の『オールナイトニッポン』

 ――これについては、親しくない方から「◯◯さんはどう思いますか?」ではなく、「◯◯はどう思いますか?」と、聞かれたときにわれわれが感じる違和感に似ているのかもしれませんね。そして彬子さまのお父さまである三笠宮寛仁(みかさのみや・ともひと)親王殿下もちょうど50年前、『オールナイトニッポン』にDJとしてご出演になったのだとか。 
 
堀江 放送は昭和50年(1975年)10月28日の午前1時から2時間でした。 

 私もその頃は生まれておらず、書籍などで番組の反響をうかがい知ることしかできていないのですが、寛仁殿下の『オールナイトニッポン』は、もはや「伝説」ですよね。

 彬子さまの番組は2時間、ユーモアをまじえつつも折り目正しく進行していきましたが、寛仁殿下の放送は最初から最後までウィスキーを飲みながらのおしゃべりです。リスナーからの質問も「どうして結婚しないんですか?」とか。 
 
――ほんとに直球で「昭和」って感じですね……!  
 
堀江 その質問に対する寛仁殿下の回答もふるっていて、「これまでに結婚したいと思った女は五人いました」。 
 
 このときの殿下は29歳。「当時は、型破りな独身皇族の大胆告白として、大いに話題になったものである」し、「惚れっぽい殿下の醜聞は、それまでにもずいぶんと聞かされてきた。だから五人という数字は当然だろうと思った。相手が殿下と結婚するつもりだった女性の数も加えたら、とても五人ではすまない」。 
 
――これは、寛仁殿下と長年の交友があった作家・工藤美代子さんのご著書『悪童殿下』(幻冬舎)からですけど、なかなか……ですよね(笑)。お相手の方たちとトラブルは起きなかったのでしょうか? 
 
堀江 寛仁殿下は率直な方で、隠し事などなさらないそうです。が、それを聞かされた工藤さんも『悪童殿下』などに書けなかったお話は多そうですね。 
 
 寛仁殿下が結婚なさったのは、ラジオ放送から5年後の昭和55年(1980年)のこと。 

 お相手は、国会議員・麻生太郎さんの妹・麻生信子さんでした。お二人は実は幼なじみともいえる間柄で、出会いは軽井沢。殿下が高校生、信子さまが小学2年生のときのお話だったそうです。しかし「僕(=寛仁殿下)がからかったら、怒って僕の髪をつかんではなさなくてね。ずいぶん気が強い子だなぁ、これがカミさんの第一印象です」。 

寛仁親王の結婚相手に「中学生の妹」を勧めた麻生太郎

――さすが麻生元首相の妹さん。すごいインパクトある出会いですね(笑)。そこからどういう経緯でご結婚を決意なさったのか……。 
 
堀江 殿下が信子さまとの「結婚を最初に意識したのは二十二、二十三歳のとき」だったそうですよ。当時、信子さまはまだ中学生。しかもそうするように勧めたのは麻生元首相であった、と。 
 
 若き日の殿下にとって、麻生太郎さんは先輩というか、兄貴分のような存在で「お金の使い方」などすべてを教えてくれた存在だったそうです。そんな太郎さんがロンドン留学中の殿下のお部屋に遊びにきて、いわゆる「部屋飲み」の最中に「殿下のご結婚相手は、うちの妹ぐらいしかいませんよね」と突然いわれ、殿下は意識してしまった……というのです。 
 
 ただ、これは寛仁殿下だけが工藤さんの複数の本の中で何度も言っていることで、麻生太郎さんは「『そんなことは言っていません』と、とぼける」のが常だそうです。 
 
――映像が見えてくるようですね。しかし、中学生相手に結婚を意識とは本当にビビビと来ていたということなのでしょうか……。ちょっと驚きです。 

信子さまは「心身に障害がございます」

堀江 しかし、寛仁殿下いわく「結婚を意識した5人の女」のほか、数々の恋愛があったそうなのですが、殿下が20代後半になったある日、殿下にとっては伯父さまにあたられる高松宮さま(=高松宮宣仁親王)が「『おまえはどうしていつまでも結婚しないんだ。あれだけ麻生の家と仲がいいのだから、麻生家の独身の末娘と結婚してしまえ』と言い出したんですよ」。 
 
――もともと殿下と麻生家は交流が深かったのですね。現在でも未婚の皇族がたの結婚相手を探り当てようと週刊誌がマークするのが、宮家と家族ぐるみの交流があるご家庭ですよね……。 
 
堀江 しかし、寛仁殿下のプロポーズは、信子さまのご両親こと麻生太賀吉・和子夫妻によって断られてしまいました。というか固辞されたようです。 

 「『娘には心身に障害がございますから(=心臓病のこと)、妃殿下はとても務まりません』と言われました。何度もお願いをしたが、そのたびに同じ理由を口にされましたね」とのことでした。 
 
――皇族がたの結婚は一筋縄ではいかないケースが多そうですね。次回につづきます。 

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