【サイゾーオンラインより】
永野芽郁(25)が大泉洋(52)とダブル主演を務める映画『かくかくしかじか』(5月16日公開)が6月上旬現在、興行収入5億8000万円超え、観客動員数44万人を突破した。一見順調に見えるものの、初週3日間(金・土・日)の興収は5月23日公開『岸辺露伴は動かない 懺悔室』の2.6億円をはるかに下回る1.7億円であるうえ、土日の興収は2週目にして前週比-20%。好調だとする媒体が多いが、興収目標の10億達成は厳しいのではという見方も浮上し、評が分かれている。
原作は、本作の脚本も務める漫画家・東村アキコ氏の自伝エッセイ漫画。漫画家を夢見る東村氏が地元・宮崎で通っていた絵画教室のスパルタ教師・日高氏との日々と葛藤を赤裸々に描いた物語で、2015年には第8回マンガ大賞および第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で大賞を受賞するなど、傑作として名高い。
待望の実写化の謳い文句は、「恩師との涙あふれる切ない物語」「『描け』―恩師のその言葉の意味を知る時、あなたは涙があふれる」など“涙”が強調され、ネット上にも「開始7秒で泣きました」「号泣した」といった感想が流れるが、その実“絶賛一色”というわけでもない。
映画レビューサイト・Filmarksでは☆3.7(5月27日現在)。映画ライターによれば、同サイトでの点数の目安は「4.0以上が“見る価値がある映画”のライン。3点台やそれ以下は賛否が分かれる作品が多い」という。
絶賛の裏で低評価がつく原因として、4月末に「週刊文春」(文藝春秋)で報じられた永野の不倫疑惑報道がその一因であるのは、公開前に予想されていたことだ。ただ、だからといって低評価の主が“アンチ永野”というばかりでは決してない。前出・Filmarksのレビューには〈オチが読めてしまってあんまり泣けなかった〉〈興味深い話だけどあまり共感できなかった〉など、前評判に反する感想を抱いた声も多数並ぶ。
酷評でもなく絶賛でもない“ビミョー”な評価の正体は何か。一切の忖度なく、“日本一ガチな批評”で人気の映画批評家・前田有一氏が、「本当の低評価の理由」を解き明かす。
“見て損はない程度”「65点」が意味するもの
映画ガイドサイト「超映画批評」にて、独自に点数をつけている前田氏は、『かくかくしかじか』を「そうですね……」と逡巡しつつも「65点」と結論。80点以上を「自信のオススメ」とする氏にとって、これは「見て損はない程度」という点数だ。
まず、永野の騒動はどれほど低評価につながるのか。前田氏は「エッセイ漫画の実写化」と「フィクション作品の映画化」とで、女優の役割が異なることを指摘する。
「フィクション作品ではなくエッセイ漫画の実写化では、キャスティング側が、演技以外で俳優がすでにもっているイメージを頼る部分が大きいんですよね。俳優のイメージを活用することで、キャラクター作りを省略できるわけです。だからこそ、今回は主人公・明子の“田舎のウブな女の子”を演じられる女優として、クリーンなイメージのあった永野さんに白羽の矢が立った。
ところが(スキャンダルで)その前提が覆されると、永野さんだから見に行こうと思っていた人の感情が行き場を失います。特に明子が初彼氏とイチャつくシーンなんかでは、どうしても騒動がチラついてしまう人はいるでしょう」(前田氏、以下「」内同)
ただし前田氏の採点は、永野騒動とはまったく関係なく「65点」だという。マイナス点は、「薄っぺらい平凡な美談に仕上げてしまったこと」だ。
「3年半近くにわたって連載された全5巻の原作を、2時間に無理やり詰め込んだから、とにかく浅い。原作を読んでいれば脳内補完ができるかもしれないけど、読んでいないと、淡々とした内容に感じた人もいたのでは」
観客を置き去りにする「平凡な美談化」
前田氏によれば、“低評価”につながる「平凡な美談化」のポイントは2点ある。一点目は、大泉洋演じる恩師・日高健三の“鬼畜エピソード”の大幅なカットだ。
「原作には、自分のアトリエの膨大な作品整理を生徒たちにほぼ強制労働でやらせたり、自作の1輪挿しを無理やり4万円で買わせたり、鬼畜エピソードがこれでもかと出てきますが、実写版ではほとんどをカット。
竹刀を手にスパルタ指導を行う浮世離れした変人に、明子も最初はドン引きするんだけれども、徐々に美術に打ち込んだ愛すべき芸術家であり、生徒たちに対して純粋な愛情を持っていることがわかる。漫画ではそういった先生のしみじみとしたありがたさが丁寧に描かれますが、実写版ではモノローグや漫画チックな演出が多用され、明子と先生が心を通わせる過程が伝わってこない。先生はやたら『描け!』と怒鳴るだけの人になっているんですよね」
そして「平凡な美談化」の二点目は、「“若さゆえの自分勝手さ”とその“懺悔”」に踏み込まれていないことだ。
「原作は、若さには自分本位に走ってしまう“残酷な無邪気さ”があって、それが結果的に先生との関係に苦い後味を残してしまうといったことや、その後悔や贖罪の念を抱きながらも、今の自分を肯定し続けるところが独特で、そこが東村さんの作家性かと思います。けど、実写版ではそうした生々しい自己開示が踏み込んで描かれず、師弟関係といえど先生から具体的に何を学んだのかという肝心の部分がピンとこない」
ありがちなストーリーでも観客が「泣いた」理由
前述してきた「平凡な美談化」の背景には、制作が「ワーナー・ブラザース」であることも大きい、と前田氏は話す。
「ワーナー・ブラザースは、とにかく広く浅く、万人受けするヒットを狙わないといけない会社なので、美談に寄せているのかなと。たとえば日高先生の『最初は印象が悪かったけど、実はいい人だった』というのは王道パターンで、鉄板の“泣きポイント”です。もちろんこれは実話とはいえ、映画の世界じゃよくある話。まして今回、先生を演じるのは大泉さんです。『絶対根はいい人だよね』という確信が観客側にある。その意味で思った通りに物語が進むので、“平凡”に感じてしまうんです」
一方で、宣伝文句通り「泣いた」「号泣必至」といった感想も多い。前田氏が鑑賞した試写会でも「女性がすすり泣く声が聞こえた」という。
「東村アキコさんの自伝なので、女性のほうが等身大の感情を投影しやすいと部分はあるのでしょう。自分の人生を回想して『私にもこういう厳しい先生いたな』とか『こうやって反抗したな』とか、ピンポイントで感情移入ができた人は泣けたのかなと思います。
SNSで『感動した』『泣けた』という感想が目立つのは、それ以外が投稿しにくいという心理はあると思いますよ。また、『泣いた』って、感情を揺さぶる表現としてわかりやすくて、そういわれると『なんかすごい作品かも』って思っちゃう。宣伝する側の常套手法でもあります。結論、映画のつくりは浅いんだけど、永野さんや大泉さんをはじめ、俳優さんたちはみんな素晴らしかったという意味で……65点!」
かくかくしかじかという言葉のニュアンスは、「こうでああで、いろいろあって」。その由来を考えれば、本当はゆっくり噛み締めたいストーリーの上澄みをファストにまとめた実写版が、平坦な仕上がりとなったのも頷ける……のかも。
(取材・文=町田シブヤ)