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映画『ドライブ・マイ・カー』で村上春樹の世界観は問い直されたのか 西森路代×ハン・トンヒョン

ByAdmin

11月 28, 2021

今年3月に刊行された西森路代さんとハン・トンヒョンさんの『韓国映画・ドラマ――わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(駒草出版)。タイトルの通り、本書は2014年から2020年の間に行われたふたりの「おしゃべり」がまとめられたものです。

 今回、ハンさんの呼びかけで、再びおふたりに今年話題となった3作についておしゃべりをしていただきました。最後にお話しいただくのは『ハッピーアワー』や『寝ても覚めても』など評価の高い濱口竜介監督が、村上春樹原作の短編小説を映画化したことで話題となった『ドライブ・マイ・カー』について。第74回カンヌ国際映画祭で、日本映画初となる脚本賞のほかに、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞も受賞した本作において、村上春樹の世界観がどのように残され、ズラされているのかをお話しいただきました。

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西森路代
1972年、愛媛県生まれのライター。大学卒業後は地元テレビ局に勤め、30 歳で上京。東京では派遣社員や編集プロダクション勤務、ラジオディレクターなどを経てフリーランスに。香港、台湾、韓国、日本のエンターテインメントについて執筆している。数々のドラマ評などを執筆していた実績から、2016 年から4 年間、ギャラクシー賞の委員を務めた。著書に『K-POP がアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK 出版)など。Twitter:@mijiyooon

ハン・トンヒョン
1968年、東京生まれ。日本映画大学准教授(社会学)。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした日本の多文化状況。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著,勁草書房,2017)、『平成史【完全版】』(共著,河出書房新社,2019)など。Twitter:@h_hyonee
「男らしさ」の手放し方が原作と違っている
ハン:『ドライブ・マイ・カー』は映画として構造的によく出来ているし、評価されているのもよくわかります。私も瀬戸内海をドライブするシーンはものすごく好きで、あそこだけで泣きそうになるくらいでした。でも、全体としてはうーん、というところも多くて……。なんというか、冒頭からもそうなんですが、まずはセックスを話のフックにするのは古くね?という。原作が村上春樹だから仕方ないのかもしれないけど。

西森:もともと濱口竜介監督は、プロデューサーから別の村上春樹の作品を映画化してほしいと依頼されたんだけど、いろいろ考えた結果、「ドライブ・マイ・カー」なら映画化できるということで制作に至ったそうです。原作と比較すると結構変わっているところがありました。『バーニング』(村上春樹「納屋を焼く」が原作の映画)も、村上春樹を読んで批評的な視線を持って自分の映画を作ったという感じでしたが、濱口監督の作品にも、同じような感覚がありました。ただあらすじをなぞっただけでは、作れない世界になっていました。原作映画って、そうであるべきだとも思います。

ハン:『バーニング』は、世界観そのものがかなり変わっているような。

西森:『ドライブ・マイ・カー』もかなり変わってるんですよ。原作の要素を残しながら、自分なりの解釈を加えて作ってるんです。

ハン:まあそりゃそうなんだろうとは思うけど、村上春樹の足枷のようなものを感じてしまったんですよね……。原作は読んでいないので恐縮ですが。あと子どもが死んだ設定とかも、余計に感じてしまった。主人公、家福悠介(西島秀俊)が妻の音(霧島れいか)に感じていた彼女の空虚感のようなものにいちいち理由をつけているでしょ。子どもが死なないと女は浮気しちゃいけないのか?という。

西森:理由づけがないといけないという。

ハン:そう。子どもが死んだとき、僕らの生活は終わったっていう家福のセリフがあったかと。

西森:映画でも、音が浮気をした理由については、ドライバーの渡利みさき(三浦透子)との会話で示されているとは思います。それに関しては原作にも、もうちょっとはっきりとそういうセリフがありまして、女性にだってそういうよくわからない欲望や行動があるんだっていうことが書かれています。

ハン:みさきのあの台詞は私の心の叫びでもあったんだけどさ(笑)。村上春樹は大学生の時に『ノルウェイの森』(講談社)を読んだのが最後なんですよね。単純化しすぎていたら申し訳ないけど、西森さんも書いていませんでしたっけ? 「男が強くなくていい」っていうのがいまっぽさなのだとしたら、村上春樹はある意味ずっとそうでしたよね。

西森:微妙に違うと思うんですけど、そうですね。

ハン:ジェンダー的な新しさ?がわからなくて。そういう期待と思い込みありきで見てしまったからかもしれないけれど。

西森:私は、ただ単に妻に先立たれたという悲しみを甘い思い出にするんじゃなくて、ちゃんと悲しもうとしてるというところが、新しいというか、いま、男性がきちんと見つめるべき行動なんだと示しているように思いました。

村上春樹の作品には、いつも「甘い喪失感」とでもいうか、自分の甘い記憶のために女性との思い出を都合よくガラスの箱に入れて、ときどき眺めたり、取り出して手に取って甘い気持ちを思い出して感傷にひたるようなところがあって、そのロマンチシズムが女性に批判されるところだったりします。でも、映画の場合は、恋愛の甘い喪失感に浸るのではなく、自分の内面に目を向けましょう。そして、喪失した自分の痛みに向き合いましょう、それは男性にとっては、すごく難しいことかもしれないけれど、向き合わないといけないんですと描いていると思いました。そこが2021年っぽいなと思いました。

例えば杉田俊介さんの本を読んでいると、もちろん「弱さ」にどう向き合うかということがテーマなのかもしれないんですが、これまで男性社会のあり方に毒されるようにして生きてきたけれど、毒されたままでいるのは辛い、そうではない形にどうすればなれるのかを絶えず模索していて、男性であることだけですでに罪を感じているんじゃないかと思うんですね。男性であることの優位性とかを享受してきた部分もあるかもしれないと反省しながらも、どうやったらそれを手放せるのだろう、もしかしたらもう手放せないのかもしれないから、それとどう向き合えばいいのかというしんどい作業をしている感じ。だから、「弱さ」を認めるということが、単に自分を甘やかすことではなくて、非常につらい作業であるけれど、それでも向き合わないといけないことであるんだと思って。そこがハンさんがイメージしている村上春樹的な「弱さを認める」ということとは対極なところだと思うんです。

ハン:『ドライブ・マイ・カー』の原作とこの映画は、実は対極だと。

西森:そうですね。もちろん、「正しく傷つく」ということは、原作のひとつとなった「木野」という作品にも出てくるんです。そこを着地点にしようとして作っているので、対極ともいいにくいんですが、でも私のような受け手には、どこか対極のようにも思える。それは、原作を読み込んだ上での批評性があると言ったことに繋がります。正しく傷つくということは、自分の感情をまっすぐに見つめないといけないし、そのためには、他者と対話したり自分と対話したりしないといけなくて、それって「男らしさ」に縛られている限りは、あんまりやったことのないことで、しんどくて時間のかかるもので、だから3時間もの時間が必要だったと思います。

ハン:そもそもそういう「男らしさ」みたいなものを持っている存在として家福は描かれているのかな?

西森:一見、「男らしさ」に縛られていないように見えますが、妻のなにかしらの心の変化に気づきながらも、それに対してなすすべがなかったり、妻が亡くなった後にも、その感情と向き合おうとしながらも、なかなか向き合いきれないという意味では、縛られていると思いますよ。

日本の男性の「男らしさ」というのは、ぱっと見ただけではわかりにくいけれど、優し気な男性にだって、女性への偏見は存在していますし、感情をおざなりにしていいと思うことも、「男らしさ」の呪縛のひとつだと思います。そういうことに関しての表現だけは、世界の中でも日本って非常に繊細だと思います。別に日本すごいっていうのでも、いいことだっていうのでもなくて、変に発達しているというか。それに、家福はファムファタル的な、妻のわからなさも受け入れているつもりだったのだけど……。でも、ベッドの上で、妻の得体の知れないタナトスみたいなもの……であってるかな。そういうものを見てしまったときに、目を腕で覆ってしまう。

ハン:あー、私にとってなにが微妙だったのかがわかってきたような気がする。この辺、「おしゃべり本」の中の『ワンダーウォール』とかロスジェネ問題のあたりで出た話とつながるような……? なんなら最初の対談にも……? わからんけど……。で、家福ですが、実際は受け入れられていなかった、わかったふりをして、こだわっていた、本当は、浮気するのはよくない、いや浮気されてしまう自分って男としてダメだって思っていた、と。

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西森:ハンさんが微妙だと思うポイントはけっこうわかるんだけど、わりと日本にいる責任として、この微妙さにも向き合わないといけないというか、それが日本を覆ってるから脚本家や作家が表現してるんじゃないか、みたいなこともあるんですよね。ハンさんが指摘した浮気についての話は、ここも原作と違うところなんですよね。原作だと、家福は「妻はなんであんなしょうもない後輩俳優に浮気したんだ」ってこだわってて。映画よりも下世話でちょっと軽妙なところがあるんです。

ハン:やっぱり原作読んでくるべきだったかー、反省……。杉田さんの本は読んだのだけど。でもなんというか、私そういう感受性ないんだよねーって話だな(笑)。『バーニング』も女性が裸で踊るシーンがあったけど、あれも意味わからないよね。イ・チャンドン監督の世代を考えるとその辺は限界なのかなとも思っていますが。女性をファムファタル的なものとして撮ってしまうっていう。ちなみに『バーニング』の原作の「納屋を焼く」は読みました。で、『ドライブ・マイ・カー』も最初にセックスシーンから始まって、うわーって思っちゃって。

西森:セックスシーンから始まったのは、濱口監督が映画の中で村上春樹の世界からそうじゃない世界に行こうとしてたからなんじゃないかなって思って。

ハン:なるほど。

西森:だから外せなかったんだと思うんです。濱口監督も、セックスを真正面から描くようなシーンは撮ったことがなかったそうで、村上作品を撮るということで避けられないことという感じだったと言われてたような。映画自体は、男性が「やれやれ」とか言って、自分の喪失を甘く思い出すみたいなものではなく、自分の悲しみを受け止めようとしているものだから、いいなと思えたんですが。

ハン:うん、それなのにみさきの力を借りてるんじゃないよって思ってしまって。きちんと傷つきたい家福のために、音やみさきが都合よく利用されているように見えてしまうというか。

西森:まあ原作の要素ですしね。

ハン:みさきも、家福と一緒にいて癒されていくみたいに一見、見えるけど、そうかなぁ? あと、音は録音テープだけで十分でしょ。

西森:あそこは、過去と対話してる感じというか、よりどころみたいな、贖罪みたいなところもりますからね。

ハン:そう、あれだけで十分コミュニケーションできているんだから。それはみさきとも。だからドライブすること自体はいいけど、わざわざ北海道まで行ってベタな話をする必要なんてない。しかもみさきに抱きしめられてるじゃん。美しいシーンだと思いますよ。でも結局、若い女に救われるのかよって思ってシラケてしまった。お芝居のラストに重ねるラストシーンも、美しかったけどまた若い女に抱きしめられてるよって思ってしまった。私厳しすぎかな?(苦笑)

私、この辺の機微というか情緒に欠けているところはあると思うけれど、映画館で観たとき、ひとつ席を隔てて座っていた40代くらいの男性がずっと泣いていて、それでちょっと引いちゃったっていうのもあるかも……。

西森:ああ、その隣の人の影響もあって、より「男だって弱くていい」的なものの癒しになってるって思えてしまったというのだったら、理解もできますね。

ハン:そうなんですよ。まあ泣くのもわかるし、ドライブシーンでは私も泣きそうになったけど。

西森:いま男らしさの話をするときに、例えば『ジョーカー』だったら、男に抱きしめられたらよかったのかもしれないって話をする人がいるんですね。それがいいか悪いは別で、男に抱きしめられていたら、あんな風にならなくて済んだかもしれない。

ハン:女じゃなくていい。

西森:そう。そういう意味だと、高槻耕史(岡田将生)と一緒に救われるのがよかったのかもしれないですね。

ハン:岡田将生すごく良かった。わけのわからない存在を、説得力を持って演じてて。

西森:岡田将生、若い頃からけっこうクセのある役を演じてきた面白い俳優だと思うんですけども、そのうえで、私はまた『ドライブ・マイ・カー』の岡田将生っていうのは、簡単に感情を手に入れられない家福とは対極の存在だからこそ、普通の観点でいう「演技の説得力」みたいなものがある人として際立って、もっと言えば異質的に見えたんだとも思いました。

ハン:話を戻すと、家福とみさきは、ドライブする中で目には見えないコミュニケーションをしていて、それが十分に伝わっていたんだから、北海道で抱きしめてあげる必要なんてなかった。横に並ぶだけで十分。それでもくどいくらい。

あとさ、最後なんで韓国なんだろう? 取ってつけたような感じが。

西森:そもそもは全編においてというか、ほかのシーンも大半を韓国ロケをするつもりだったのがコロナで行けなかったようで、最後のみさきのシーンだけになったみたいですね。

ハン:あれはコロナ後って設定だよね。みさきはマスクしてるし。

西森:彼女がドライブマイカーしている。

ハン:しかもあの犬と。どうなったんだろう。あの夫婦は韓国に戻ったのかな。

西森:原作にはないんですよね。家福が車を降りたシーンって。

ハン:降りたって?

西森:ドライバーのみさきが最後に乗ってる車って、家福のじゃないですか。

ハン:あ、あれはそうか。

西森:そうだと思います。家福は、妻の音と暮らしているときから、車にこだわりがあって、常に運転席に座っていて、妻が亡くなってからもその席を譲りたくなかったんですよね。でもみさきと出会って、後部座席に座って、最後は助手席に座ってる。あれは主体性、男らしさを手放すことにつながってるし、最後にみさきに譲るってことは、老いと重なっている感じがして、よくできてるなあって思いました。

ハン:なるほど。うん、席の移動についてはなるほどって思っていました。で、みさきが最後にあの車に乗っているのはそういうことだったのか。むしろ家福が車を降りて行った、つまりさらにその先に進んだってことですよね。で、それを、本来ロケをするつもりだった韓国で撮ったと。無粋ですみません(苦笑)。

「村上春樹」という存在
ハン:前回の『イカゲーム』のときに西森さんが言ってたけど、例えば韓国だとうだつの上がらない男はあんまり描かれてこなかった。だからこそ、村上春樹は韓国で受けたと言えるかもしれない。韓国人は村上春樹大好きなんですよね。でも、いま日本でグローバルを意識して原作に村上春樹を使うって……、やっぱり新しくないような気がするんですが。濱口監督だって、なぜ2021年に村上春樹なのか。グローバルな展開には村上春樹っていう通過儀礼が必要だった……? まあ成功したわけですが。

西森:はい。韓国の人は、村上春樹を新たな価値観の象徴のように見ていましたね。それは、イ・チャンドン監督も言ってました。『ドライブ・マイ・カー』を成功例に、また村上春樹原作の映画が作られるかもしれないですね。別にこれはいいこととも悪いこととも思ってないですけど、監督が原作を批評をしながら最終的には、映画監督のものとして作品を作るというのならいいのかなって。

ハン:批評性はあってなんぼというか当然のことですが、村上春樹をどう描くか合戦になるのか? ちょっといやだな(苦笑)。あと、串刺しにして比較できるという意味で批評の材料としては面白いかもしれないけど。

西森:もちろん濱口監督だって、オリジナルはこれまでにも作っているし、新作の『偶然と想像』も、もうすぐ公開ですし、短編集なんですけど、脚本の小気味良さったらなかったですよ。『ドライブ・マイ・カー』は、さっきも言ったように、監督自身が企画したのではなくて、プロデューサーからの提案ですし。日本って、原作じゃないとドラマや映画の企画が通りにくいので、内容とは別の要素で惹きつけるところがないと撮影のためのお金が集まらないっていうのはあるのかもしれないですね。今回、海外でも評価されたし、監督はオリジナルがどんどん作るようになるだろうし、一方で、「ほれ、やっぱり村上春樹は世界で強いんだ」っていうことになってしまってるかもしれません。

ハン:今回は、大ヒットしたり評価されている作品だからちょっとくらい文句言ってもいいだろうって企画なので文句ばっかり言ってますが(笑)、それにしても絶賛ばかりで私みたいなツッコミがあまりないのはなんでなんだろう? みんな村上春樹が原作だしってわかってるから? それともやっぱり村上春樹が好きなのか?

西森:私も、ハンさんのツッコミが怒涛のように出てるので、擁護ばっかりになっていますが(笑)。原作を読んでるからこそ、あの原作の中の三篇を読んでひとつの批評性のある作品にしたなということは私の中では大きいです。

ハン:そっか、やっぱり昔の角川映画みたいに、「読んでから見るか、見てから読むか」なんですね、村上春樹原作映画は(笑)。と、反省しつつも、原作から独立して映画は映画だし、くどいけど私は前後はいらないなって思ってて。

西森:前半はやっぱり村上春樹を残しておきたかったっていうのがあるんだと思います。

ハン:でも逆に言うと、それだけレジデンスと劇場を往復するドライブのシーンが饒舌で豊かだったということだと思うんですよ、私にとって。ものすごくエモーショナル、至福。ここは全力でほめています!(笑) あと、芝居の稽古の、とくに本読みのところとか好きです。こうやって言葉にしてみると、この作品については理屈じゃなくて身体的な受け止め方をしたのかも。でも、そのように受容できるある意味映画らしい映画だからこそ他がすべて蛇足に感じられてしまった。とはいえ、実際には前後がないと成立しないかもしれない。

西森:ずっと本読みをしていて、やっと野外で立ち稽古をするシーンが、私も一番好きでしたね。そして、ハンさんがいらないっていうシーンがあるからこそ広く見られるってこともあるんでしょうね。

ハン:はい。たぶんそれはそうなんですよ。それは実は私自身もそうかもしれない。ということで、今回の対談全般を通して言えることですけど、言うのは簡単ですからね(笑)。

西森:そうですね(笑)。

ハン:言うのは簡単といえば、私にそれができているかどうかはさておき、実は簡単ではないということも教えてくれるというか、wezzyでも連載されている北村紗衣さんの『批評の教室―チョウのように読み、ハチのように書く―』(ちくま新書)、とても面白かったし、勉強になりました。

といっても、批評のハードルを上げるのではなく「作品を他の人と楽しくシェアする方法」としての批評を指南してくれる本です。そう考えると、私たちの「おしゃべり」もそういう作業ではあるのかなぁ、と改めて思ったりして。ということで、この対談を読んでくれている読者のみなさんにおすすめしたいなと。とはいえ、なんというか、楽しいおしゃべりの先の奥深い世界も垣間見せてくれる本でもあります。

『韓国映画・ドラマ――わたしたちの おしゃべりの記録 2014~2020』(駒草出版)


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