『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第7回 檀恵美子さん(62歳・仮名)の話(後編)
「元夫の家に泊まりに行っていた息子を迎えに行くと、玄関のドアに貼り紙がしてあったんです。そこにはこう書いてありました。『当分の間、旅に出ます。この家には二度と近づくな!!』」
檀恵美子さん(62歳、仮名)は25年前に起こったことを淡々と語った。以来、彼女は息子と生き別れだ。
「まだ幼かった頃の、愛くるしかった息子に会いたいです……」
後半では、子どもを奪われてしまった経緯について記す。
前編はこちら
面会交流の後、連絡を絶たれる
――Bさんはわざわざ、檀さんの実家まで追いかけてきたんですね。
追い詰められた気がして怖くなりました。そこで、子どもを連れて乗用車で実家を出ました。ホテルを2〜3日転々としたんですけど落ち着かなくて。それでそのあと、喫茶店を兼ねている民宿に10日ほど泊まりました。その民宿は一般の道から見えないところに車が止められたんですよ。
――逃避行をされていたんですね。車が見えないとBも追いかけようがないと踏んだのですね。
そうです。でも10日目ぐらいに、連れ去り前から相談に乗ってもらっていた弁護士から宿に電話がかかってきたんですよ。「ある男性が市の法律相談でやってきて、あなたが言ってる話とそっくりなんですよ」って。私が相談していた弁護士の元を、Bが偶然訪れたようです。
――檀さんは、自分のことだと認めたんですか?
はい。すると担当弁護士、「Bさんが『戻ってこないか』と言ってます」って言ったんです。それには条件があって、育てるのは私が育てていい。だけど同じ市内に住むことと調停で話し合うことというものでした。それで結局、話がまとまって、Bの実家からかなり離れた団地に息子と2人で暮らすことになりました。
――実際、Bさんに子どもとの面会はさせていたのですか?
はい。その後、調停をしながら、月に1回会わせていました。スーパーの駐車場で引き合わせて、帰りは私がBの実家まで迎えにいくというものです。私は息子をBにたくさん会わせるつもりでした。
97年5月に最初の宿泊交流をしたあと、日帰りの面会交流を1回、そして7月に2回目の宿泊交流となりました。それで2度目の宿泊面会の終わりの時間に迎えに行くと家の入り口に貼り紙がしてあったんです。
「当分の間、旅に出ます。この家には二度と近づくな!!」
それ以降は連絡を絶たれてしまいました。
――相手が子どもを連れ戻すのって「誘拐」じゃないですか? 未成年者略取にならないのでしょうか?
今だったらそうなりますが、97年当時は親による連れ戻しも罪に問われなかったんです。裁判所に行って「子どもを返せー」と廊下で泣き叫びましたよ。でも取り合ってはもらえませんでした。
それ以降、「会いたい」と書いた紙を紙飛行機にして家の中へ投げ込む毎日でした。当時はフェンスが低かったので十分に入りました。するとそのうち、紙飛行機が投げ込めないよう、フェンスが3mくらいに高くなっていました。
――民事訴訟は起こしましたか?
調停から民事裁判になっていきました。そのかいあって、息子がまだ5歳のとき、面会交流が実現して弁護士が相手の家に連れていってくれたんです。最初は机を挟んで息子の喜びそうな話をして、どんどん調子が乗ってきてから、「絵本を読もうか」と声をかけました。息子に選んでもらって、さあ読もうとすると、息子がちょこんと膝の上に乗ってきたんです。
読み終わって「おしまい」と言って絵本を閉じた後、息子をぎゅっと抱きしめようとしたところ、Bに抱きかかえられて、引き離されてしまいました。そのときの息子の「まずいことをした」というような表情が忘れられないです。私に甘えてしまったことで、父との約束を守らなかった。それで、まずいと思ったんでしょう。息子は片親疎外(別居親を拒絶する状態)にさせられていたんです。
――それからは?
私は精神の調子がもう本当におかしくなってしまって、両親が争うことで息子が悲しい思いをすると思い、月1回の面会の合意書を作って裁判を諦めました。
合意を交わしたあとに、もちろん何度か電話しましたよ。するとBが冷たい事務的な様子で、「どちら様ですか」と言うんです。私が泣きそうになりながら「子どもに会いたい」とお願いすると、「あなたとは、もう関係ありません」と冷たく言われて、電話を切られました。
その後ずいぶん時間はかかりましたが、ある意味、吹っ切れたのか、自由になりたくて、東京に出ました。もちろん息子のことは忘れません。会いたくて仕方がなかった。でも、会いたいと思い続けることに、しんどくなってしまったんです。その代わり、「私のような人を出したくない」「人のために頑張ろう」と思うようになって。離婚して子どもに会えなくなった親の相談に乗るようになりました。
――それからは一度も?
いえ。相談に乗っているうちに、アドバイスしている私が会わないのはヘンな話だと思うようになって。息子が高校2年のときに、会いに行きました。
高校の修学旅行先である沖縄で、遠くから見つめました。5歳のときから顔は見ていなかったですけど、わかりました。美ら海水族館に行ったんです。2006年のことです。ずいぶん成長したなと思って感慨深かった。でも、声はかけられなかった。
息子を見て、印象に残ったのは制服の着こなしのダサさ。ズボンをおへそぐらいまで極端に上げていて。そのダサい感じがなぜかショックでした。
――その後、息子さんとは会っていないんですか?
会いました。そのきっかけとなったのは、翌年の高3のとき。私から調停を起こしました。20歳になって親権そのものがなくなる前に、きちんと会っておきたいと思ったんです。すると、最初の調停の日に、面会交流の代わりに、息子からの手紙を渡されました。生まれて初めてもらった手紙です。
「大学に行きたいから、そのお金を出してほしい」というものでした。それに加えて養育費。「何年ももらってないからまとめて数百万円分くれ」と。Bは絵が売れなくて生活ができなくなった。なので、息子を大学に通わせるお金を払えなかったんです。
――再会して、言葉を交わせました?
その後、審判の最後になってやっと息子に30分会えることになりました。裁判所の別室で。11年3月のことです。
すると開口一番「お金は用意しましたか?」と言うのです。それで、息子にいろいろ質問しました。「どうしてお金が欲しいの? 大学に行きたいなら奨学金もあるでしょう?」などと聞くと、質問にひとつひとつきちんと答えてくれました。そのうちに息子が「連れ去りはいかんよ」と言ったんです。驚いて私はあのときのことを話しました。
「あのとき一緒についてくるか聞いたのよ。そうしたらあなたは『お母さんと一緒に行く』と答えたんだよ」
息子は驚いてました。少しして気分が落ち着いた頃に、「今までのことは水に流してやる」と言いました。
――5歳以来の再会ですよね。触れ合ったり、抱き合ったりはしなかったんですか?
できたらいいなって思いましたよ。それで実際、私が手を握って「大きくなったね」と頭をなでようとしたら「やめてください」と真顔で嫌がられました。
――それはつらい。
5歳のときのかわいさはまったくなくて。背が高くなり、だらしない調子で太ってて。しかもファッションもダサい感じ。正直さえないなーって思いつつも、そこは実の息子だから、会ったときはうるうるしてたわけですよ。でも「お金は用意しましたか」と言ったり、「やめてください」と拒絶されて悲しくなりました。
「一緒に写真撮ろうか」と言って「裁判所がいいならOK」と言われたのですが、裁判所の調査官に「ダメだ」と言われました。最後には「今まで父さんとおばあちゃんに育ててもらったんだから、これからは恩返ししないとね」と伝えました。
それで再会が終わったんですけど、お互いの控室が隣同士で、壁越しにBの怒鳴り声とか何かを殴っている音が聞こえてきたんです。Bが感情に任せて暴れてるんだということは直感しました。30分以上ずっとその音が聞こえていました。息子が私からお金を取れなかったことに、怒り狂っていたんでしょうね。昔のことを思い出して恐怖で体が震えました。息子がそんな父親の元で暮らしてきたのかと思うと、かわいそうで仕方がなかった。でも、もう時間がたちすぎてしまいました……。
――とすると、その後、息子さんとは?
一切会っていません。大学も結局行かなかったようです。連絡先を渡しているので、もし何か望むことがあれば連絡してくるでしょうけど、何もありません。私のほうから望むことも特にないです。
18歳の息子に会ってわかったんです。私がそれまでずっと会いたかったのは、5歳のときの、あのかわいい子どもだったんだと。5歳から18歳までの成長が見られなかったこと、一緒の時間を過ごせなかったことは本当に残念です。死ぬまでずっと、その気持ちは残ったままでしょう。
私は別れたときに思ったんですよ。「Bら父子よりも、私はずっと幸せに生きてやる」って。だから、お互い楽しく生きればいいと思います。息子には好きに生きてほしい。私は私で楽しく生きてやるからって。
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そんな彼女は、同じような境遇の別居親に会って相談にのったり、結婚する前のようにフェスを見に行ったりして人生を謳歌している。コロナ禍になって活動を少しセーブしているようだが、コロナ禍が終わればまた、精いっぱい人生を楽しむつもりなのだという。
(西牟田靖)