“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
石田和弘さん(仮名・56)の母・澄子さん(仮名・82)は認知症が進み、いったんは東北地方の実家近くに住む妹・真理さん(仮名・54)のもとで暮らしていたが、間もなく真理さんの夫と折り合いが悪くなり、ホームに入ることになった。コロナ禍で実家に帰ることもままならない石田さんは妹夫婦に大きな負担をかけたことを申し訳なく思い、澄子さんがホームでプロの介護を受けて暮らせることに安心していた。
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家を出た妹
ところが、澄子さんがホームに入って数カ月すると、真理さんの夫から石田さんに電話が入った。
「真理が出ていった」と――。
「母のことで参った妹のダンナが出ていったというのなら、まだわかります。でも出て行ったのは妹の方だというので、キツネにつままれたようでした。母のことで妹夫婦はお互いにイヤな思いをしたとは思いますが、それまで妹夫婦の仲が悪かったなんてまったく気づかなかったし、もちろん妹からも愚痴めいたことを聞いたこともありませんでした」
義弟の長い嘆きの電話を聞いて、石田さんは真理さんが水面下で周到に家を出る準備をしていたことを知り、愕然とした。それでも、少なくとも澄子さんを真理さんの自宅に引き取ったときまでは、家を出ることは考えていなかったはずだ。何が真理さんのスイッチを押したのか――。
義弟にも、真理さんが家を出た理由はまったくわからないという。ただ石田さんは、澄子さんを看ていた真理さんが、自分のこれからを真剣に考えるようになったのかもしれないと思う。
自らの今後を考えていたのは義弟もそうだ。石田さんよりも年上の義弟は、定年延長せずに勤め先を辞め、先祖代々の農地で本格的に農業をはじめていた。その老後像に真理さんはついていけなかったのではないか。
真理さんは一人娘が巣立ったあと、パートをはじめていた。澄子さんの介護があったので、パートをするくらいが精いっぱいだったのだろう。
「妹のダンナが言うには、家を出る半月ほど前にパートを辞めていたらしいんです。苦笑してしまうのが、その送別会のために義弟が送迎までしていたというんです。何も知らなかった義弟が哀れで……」
澄子さんが入ったホームも、家を出たあとのことを考えて選んでいたことに思い当たって、石田さんは背筋が凍る思いがした。
「ボクは、単に周辺環境や価格で選んだと思っていたんですが、それよりもっと優先した条件があったんです」
それが交通の便だった。
「妹は家を出て、一人娘が住んでいる大きな街に行き、そこで二人で暮らせるマンションを借りたらしい。その街から母の住むホームには特急1本で行ける、ということを義弟から聞いてゾッとしました」
つまりこういうことだ。石田さんの実家や真理さんの自宅のある町は、在来線の駅からさらにバスを乗り継がないといけない。その町や周辺にホームは多くはないが、まったくないわけではない。しかし、真理さんが選んだホームは特急列車が停まる大きな駅のすぐ近くにあった。真理さんは、娘の住む街から澄子さんのホームに通うことまで考えて選んでいたのだ。
「そういうことか、と義弟は腑に落ちたそうです。いやぁ、女ってコワいですねぇ」
石田さんは「女はコワい」と繰り返す。コロナ感染予防のため、ホームは今も県外からの面会者は受け付けていない。真理さんは住民票を移すことなく、娘と住む街から月に数回、特急列車に乗って澄子さんに会いに行っているらしい。
「だからコロナワクチンも自宅のある町で受けたそうです。その間は空き家になった実家で過ごしていたというので、また変な汗をかきました。妹の読みの深さ、冷静さがとにかくコワい……」
石田さんは、問わず語りに続けた。
「妹は、学生時代に付き合っていた男性と結婚の約束をしていたんです。県外の人でした。でも、ボクが東京で就職して地元に帰ってくることはないだろうからと、親が妹に地元にいてほしいと頼んだんです。そして地元の公務員と見合いをして、実家近くで家庭を持った」
真理さんは、それから父親を見送って、一時は澄子さんを引き取って介護もしてくれた。
「だから、今妹が田舎を離れてどんな毎日を送っているのか、これから先のことをどう考えているのかはわからないけれど、妹の好きにさせてやりたいと思うんです。ときどき、妹のダンナがボクに『なんとかならないですかね』と電話で泣きついてきます。義弟には申し訳ないけれど、今は義弟の話を聞いてあげるくらいしかできません。そうして陰ながら妹を応援してやりたいと思っています」
真理さんは「離婚はしない」と言っているらしい。それは義弟への情なのか、老後の計算なのかはわからない。澄子さんのもとに通う生活がどれくらい続くのか、夫婦の関係が今後どう変わっていくのか、冷静な真理さんにも読めないのだろう。