“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
2020年秋、中村万里江さん(仮名・36)から、「母が亡くなりました」と連絡が来た。中村さんの母、晃子さん(仮名)の介護については「要介護4の父と生活保護の兄……30代女性が背負った“家族”と“介護”の現実」で紹介した。
有料老人ホームにいる高次脳機能障害の父、博之さん(仮名・69)と末期がんの晃子さんを介護しながら、晃子さんのネットワークビジネスによる大金投入、ネットワークビジネス仲間である瞑想グループへの精神的依存、関西で暮らす生活保護の兄など、これでもかというくらいの難題を、30代の若さで一人奮闘していた姿が印象的だった。
「両親の介護で変わった、生活保護の43歳・兄との関係」では、終末期に入った晃子さんの最期をどこでどうやって迎えるか考えていた中村さんだったが、その後どんな日々を送ったのだろうか。
最期は両親一緒に過ごさせたい
中村さんは、晃子さんのネットワークビジネス仲間だけではなく、伯母たちへの対応でも疲弊していた。伯母たちからは「娘なんだから、お母さんと一緒にいなさい」と責められていたのだ。加えて入院中の晃子さんからも毎日「病院にいたくない」というメッセージが届いた。感情的になった伯母たちからも追い打ちをかけるようなメッセージが来る。
晃子さんはこのころステント(※)を入れて、食事が少し摂れるようになっていた。担当医からは「家に帰るなら、今が最後のチャンスだろう」と言われていた。
とはいえ、中村さんにも仕事がある。夜中にフラフラしながら何度もトイレに行く晃子さんを一人にするわけにはいかない。そこで、中村さんは晃子さんの最期の時間を安心できる施設で過ごさせたいと考えていた。ホスピスがいいのか、それとも看護体制の整った老人ホームか……。
「ふと父のいる老人ホームでショートステイしてもいいのではないかとひらめきました。最期の時間を両親がともに過ごすというのはいいアイデアではないかと思えたんです。最終的には母に決めてもらうつもりでしたが、母も『お父さんと一緒に過ごしたい』と」
ところが、コロナ感染の拡大もあり、博之さんのホームは日中しか看護師がいないため、晃子さんの受け入れはできないと断られてしまった。
晃子さんの最期の住まい探しがはじまった。博之さんと一緒に過ごさせたいという中村さんの気持ちも理解できる。でも、晃子さんにとってはホスピスがもっとも安心できるのではないかとも思えるのだが、なぜホスピスを考えなかったのだろうか。
「ホスピスも見学はしたんです。でも、この頃の母はまだ話すこともできたし、トイレにも行けました。ホスピスだとシーンとして、母には寂しすぎるのではないか。どうしても死を意識してしまうと思ったんです。それに父が面会に行くことはできても、一緒に住むとなると、ホームのようにほかの方との交流もないし、話し相手もいないでしょう。月に60万円もかかるし、とても無理でした」
結局、中村さんと晃子さんが選んだのは、隣県の有料老人ホームだった。24時間看護師がいて、料金的にも両親が入れるとなると、都内の中村さんの自宅近くに条件に合うホームはなかったのだ。
※ステント:体内の管状の部分(血管、食道、胆道など)を体の内部から広げる医療機器のこと
――続きは5月1日公開
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