• 日. 12月 22nd, 2024

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秋篠宮家、悠仁さまの進学はどうなる? 天皇をめぐる歴代の教育問題、授業についていけず1年で中退のケースも

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――今回は前回に続いて、明治以降の天皇家と学習院の関係についてお話いただけるとのことですが。

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。幕末の光格天皇によって発案された学習院の歴史は、その孫にあたる孝明天皇の時代に具体的なスタートを切りました。しかし、孝明天皇の皇である、(後の)明治天皇は学習院には一度も通ったことがありません。

 前回もお話したように、貧しい公家の子弟のための学校組織が学習院であり、当時も皇族やステイタスの高い公家の生徒は自邸に師匠を招いて家庭教師してもらうのが通例だったからです。

――学習院=天皇家の人々が必ず通う学校というわけではないのですね。

堀江 そうです。ちなみに明治天皇(今回は幼名である迪宮ではなく、理解しやすさの観点を重視し、少年時代から明治天皇とお呼びします)は高名な学者の伏原宣輸(ふしはら・のぶさと)らを御所に招いて、漢学の基礎にあたる“四書五経”の教授を受けています。

 少年時代の明治天皇は『三国志』、(平家物語の異本である)『源平盛衰記』、『太平記』など歴史創作物を自力で楽しみながら読むようになり、“ご学友”と歴史の英雄たちの話で盛り上がったそうな。個人授業を受ける時に御所に複数の子どもたちが呼ばれ、明治天皇と同じ授業を受けていたわけですね。

 なお、欧米文化の知見を取り入れた近代的な政治学や軍事学の個人授業は、明治天皇が東京に移動した後に本格的に行われています。

――ということは、明治天皇は一度も学校に通われなかったのですね!

堀江 そうなんです。学習院大学が誕生したのは昭和24年(1949年)で、それ以前の世代は学習院には高等科(=高校)まで通って、各地の帝国大学などに進学するケースが大半だったということですね。なお、学習院高等科の卒業生は成績と運が良ければ、東京帝大、京都帝大にも推薦入学することもできました。

――悠仁親王も東大に推薦入試で入学しようとしているといううわさがありますが……。

堀江 長い間、推薦入試制度のなかった東京大学が、平成28年度から推薦入試を復活させることになったが、それは東大進学を志している悠仁親王への忖度では……などと語られるアレですね。

 ただ、戦前の推薦制度は、少し事情が違いますね。戦前では、学習院を含む各地の高等学校の卒業生が「僕は○○大の○○学部に行きたい」という希望を大学に出すところから始まります。しかし、本当に無試験で推薦入学できるのは、その○○大の○○学部が不人気で定員割れを起こしている場合に限られました。

 たとえば学習院高等科に入学した三島由紀夫(本名・平岡公威)の場合は、超人気学部だった(東京)帝国大学の法学部を志望し、厳しい筆記試験を勝ち抜いた末に入学資格を得たということになります。

――そうなんですね。天皇家で最初に学習院に行った方は?

堀江 天皇の皇子で、最初に学習院という学校に入学したのは大正天皇ですね。しかし、初等科を卒業した後、中等科に進学したものの、わずか1年で体を壊して退学してしまっています。当時の学校教育にありがちだったツメコミ式の教育が合わなかったようですね。中等科=現在の中学というわけではなく、現在の高校での授業内容に相当することをやっていたので、いろいろと難しかったようです。

――中学で退学して以降は、やはり御所で学ばれたんですか?

堀江 将来の帝として、明晰な頭脳を持つことが求められていた大正天皇です。その後も教育は彼の私邸である東宮御所で続き、明治20年代後半からは、お住まいに各分野の師匠を招いての個人授業を受けていくことになります。

 和歌や漢文の作文といった、天皇に伝統的に教えられてきた分野の教養も明治天皇の強い意向で授業をつけましたが、近代的な学問でいうと歴史や地理などが、集中的に講義されました。フランス語もかなり勉強しています。

 ただ、学習院時代の授業とはことなり、数学や理学(=理科)といった理系の授業はありませんでした。推測ですが、大正天皇は純粋な文系で、理系の成績は苦手で、よろしくなかったのかもしれません。

 さらに大正天皇は病気がちだったので、授業も中止になることが多かったようですが、授業の時間がなくなったことで余計にツメコミ式になってしまい、かなりご苦労なさったと伝わっています。秋篠宮家以前から、将来の天皇をめぐる教育問題はいろいろと起きていたのですね。

――ただ、そうした教育関連の問題は外からは見えなかったのですよね。

堀江 そうですね。将来の天皇が学習院を、早い話、学校の厳しいカリキュラムをこなすのに体がついていかず、中等科1年で中退せざるを得なかったというのも現在であれば大スキャンダルだったでしょう。まぁ、現在では中学校は義務教育なので中退できませんけれど。

 現代日本では、○歳くらいまでに大学を卒業しているのが普通、といった卒業と年齢についてのルールみたいなものがありますよね。現在でも外国では、30代前半くらいまで学生でいる人もいるし、戦前の日本でもそういう傾向は結構あったと思います。しかし、皇室の教育は違ったようです。

 大正天皇は、最小限の年数で膨大な量のカリキュラムをこなさねばなりませんでした。つまり、将来天皇になると目される皇子、つまり皇太子だったからこそ、それだけの厳しい期待に応えねばならなかったということがわかります。

――勉強まみれの酷な環境でおかわいそうです。そんなカリキュラムを作ったのは、やはり担当教師なんでしょうか?

堀江 実は教育カリキュラムは先生である学者たちが決めたものではなく、東宮職の役人たち(現在でいえば宮内庁の皇太子付きのお役人たち)がすべて決定していました。

堀江 大正天皇は彼らに大変な不審感を抱き、全員クビにして新しく入れ替えようとしたそうです。ところが、父宮である明治天皇が「ダメだ」と厳しく彼を諌めました。ただでさえ学校についていけずに中退して、家で授業を受けているというのに、そのカリキュラムにすらついていけなくなったら、それを決めた役人を放り出すことなどありえない、許さない、と。

――現在の秋篠宮家だけでなく、天皇家の教育では父宮が大きな主導権を握っている伝統があるようですね。

堀江 はい。秋篠宮さまはかつて学習院大以外の進学先を希望なさったが、父宮である現・上皇さまは断固反対を貫かれたというようなお話もありますよね。秋篠宮さまも悠仁親王の父宮として、ご子息の進学先を学習院以外にも決定したのだろうし、それこそ東大も狙えるような名門進学校にするという決定もお下しになったのだろうなぁ、と思えてしまいます。

――昭和天皇と学習院はどういう関係だったのでしょうか?

堀江 昭和天皇と学習院の関係も、あまり深いものではないのです。昭和天皇は小学校に相当する学習院初等科を卒業しただけで、中等科には進みませんでした。そして13歳から19歳にかけては東京・高輪の東宮御所につくられたご学問所にて、5人のご学友たちと共に個人教授を受けることになりました。

 それゆえ、一部の人からは「昭和天皇に“帝王学”がご学問所にて授けられた」とされるわけです。

――明治天皇、大正天皇に続いて、わりとあっさりした関係ですね。しかし、どうして中等科には進まれなかったのですか? 

堀江 学習院に漫然と通うだけでは将来の天皇の教育としては不十分。将来の天皇のための特別教育プログラムを組む必要があると周囲が考えたのでしょう。

 ご学問所での授業は当時、学習院長だった乃木希典の発案でした。大正天皇には体系だって伝えられることがなかった軍事の知識のほか「倫理、国文、漢文、歴史、地理、地文、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済(大竹秀一『天皇の学校』筑摩書房)」という、多岐にわたった、意欲的なカリキュラムが組まれていました。しかし、これをこなすのはかなり大変だったとは思います。

――大正天皇の教育からさらに輪をかけてハードになっていませんか? 前々から構想されていたのかも。

堀江 そうなんですよね。ほかにも体操、馬術などの実技もありましたし、杉浦重剛という教育者から君主の心構えも「倫理」という授業の中で叩き込まれました。

――そんなスパルタ教育を7年間にもわたって、昭和天皇は耐え抜いたのですね!

堀江 そうなんです。次回に続きます。

参考:保阪正康 「天皇家の教育」全内容 (『新潮45』2002年1月号)

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