――女性メディアですっかり定番となった「パワースポット」について、歴史や神話、民俗学に詳しく、書籍も数多く手掛ける上江洲規子氏が知られざる一面を明かす!
近年のパワースポットブームで、神社は特に注目されている。とりわけ女性に人気なのはやはり、女性の守護に霊験あらたかな神社だろう。しかし、「女人守護」という耳当たりの良い言葉に惹かれて、気安く願い事をしても良いものだろうか。もしかしたら、大きな落とし穴が口を開いているかもしれない。
出雲大社が「縁結び神社」なのはムリなこじつけ?
そもそも、神社の霊験とはどのように定められたものなのだろう。実は、その根拠は曖昧なものも多い。
出雲大社は御祭神の大国主命が多くの女性から愛されたことや、神無月に日本中の神々が出雲に集まって縁結びの相談をするという俗説から、縁結びの神社とされている。しかし、吉田兼好は『徒然草』第二百二段に「十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。もと文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達、太神宮にあつまり給ふなどいふ説あれども、その本説なし」と書いている。
太神宮とは伊勢神宮のこと。つまり、神無月に万の神々が集まるのは伊勢神宮だというのだ。さらに「その本説なし」、信じるに足る根拠がないとも言っている。古来出雲地方には、旧暦10月に神々が集まるという信仰はあったようだが、日本全国から、また縁結びの相談をするためであるとする典拠はない。
天満宮が学問の神様なのは、祭神の菅原道真公が当代きっての秀才だからだが、そもそも全国に天満宮が建立されたきっかけは、彼が雷神となって宮中に祟りをなしたからだ。
天満宮は本来、祟り鎮めの神社だったとされる。神社の霊験は、本来的な意味を外れたこじつけもあるのだ。
京都の「女人守護」で有名な神社は……
京都に本社を置く、とあるゲームメーカーの旧社屋が高級ホテルとして生まれ変わったとこの春ニュースで報じられたとき、京都の事情に詳しい人々は戸惑いを隠さなかった。なぜなら、この建物は「五条楽園」と呼ばれた土地にあるからだ。
五条楽園は江戸時代後期から大規模な遊廓として栄え、少なからぬ遊女たちがこの地に沈んだ。遊郭には用心棒が必要で、彼らが遊ぶ花札を製造するメーカーが、この地に生まれたのも偶然ではない。
京都で女人守護の社として有名な神社も、五条楽園の中にある。つまり、この神社が守護した女人とは、遊女たちであったと考えるのが自然だろう。
民俗学者の柳田国男や折口信夫らは、日本における遊女の発端は、神女に近いものだったと指摘する。たとえば「日本書紀」きっての女傑でもある神功皇后が海外から凱旋した際、摂津の住吉大社に田植女(※編注:田植えをする女性)を召した。彼女たちはのちに遊女になったとされるため、現代の住吉大社御田植祭でも、芸妓たちが重要な役割を担う。
歴史学者の網野善彦氏は、遊女らは多少とも聖性を持つ集団であったと思わなくてはならないが、14世紀を境に女性の社会的地位が低下して、遊女が蔑視されるようになったとする。さらに江戸時代になると、遊廓に囲い込まれた花街は「悪所」と呼ばれるようになっていく。
それでもなお、太夫などのごく一握りの花形遊女たちは美貌と教養を兼ね備えた高嶺の花で、丁重に扱われ、彼女たちと遊ぶためには大散財せねばならなかった。しかし、多くは身分の低い遊女たちだ。ヘトヘトになるまで客をとり、果てには性病にかかったり、望まぬ妊娠をしたりして、短い命を散らすこともあった。
遊女たちが苦界から抜け出したくても、年季が明けるか、お金持ちに身請けされるのでなければ、身動きがとれない。ほとんどの遊女が親に売られている。借金が足かせとなっているのだ。身請けは遊女の同意が建前だが、実際は強要されての身請けもあったようだ。
そんな遊廓に鎮座する神社が、「女性を守護する神社」に育っていくのは自然な成り行きだろう。社伝によれば豊臣秀吉により現在の地に遷されたとか。移転の理由は説明されていないが、本来市場の守護神であった神社が、多くの遊女がお参りするうちに、女人守護の意味合いが強くなっても不思議はない。
彼女たちがこの神社で何を祈ったのかはわからないが、「好きな人と結婚できますように」といった、夢見がちなものではなかったと想像できる。戦国時代に日本へ持ち込まれたとされる梅毒が、多くの遊女の命を奪ったことから、当病平癒を祈った可能性も高い。そしてそれは、吉原遊郭に鎮座する吉原神社など、ほかの遊廓のそばにある女人守護の神社にも同じことが言えるだろう。
むろんそれでも女性の守護神であることは間違いがなく、女性の幸せを祈っていけないわけではない。鎌倉時代以前は、少なからぬ教養高い遊女が天皇や上皇、女院に仕えていたとされるし、さまざまな境遇の遊女がいたであろうに、ただ「遊女だから」と哀れむのもおかしな話だ。
しかし、江戸時代以降には、苦しい思いをした遊女たちが数多くいた。彼女たちに一切心を寄せることなく、「好きな人と結ばれたい」ましてや「好きな人を略奪したい」などと祈ったとして、長く遊女たちを見守ってきた神の同情を得られるだろうか。
遊女ではない女性たちの守護神も、女人の願い事を叶えてくれると人気だ。
海女の歴史は古い。今から約二千年前、垂仁天皇の皇女である倭姫が、伊勢の国で海女が獲った鮑(アワビ)を召し上がられたとされるし、『魏志倭人伝』にも海女に関する記述がある。海女たちが身につけるお守りは、五芒星と縦四本横五本の格子で、通称を「セーマンドーマン」と呼ばれる。
セーマンは安倍晴明、ドーマンは晴明のライバルで在野の陰陽師だった蘆屋道満を意味するとされるから、陰陽道を起源とするのかもしれない。このお守りは「女性の願い事に霊験あらたか」として人気だが、海女たちは本来もっと明確で、限定された願い事のために肌身に付けた。
その願い事とは「トモカズキ除け」だ。トモカズキは「伴潜き」とも書くように、海女と一緒に潜水する海の魔物。海女が一人で海に潜っていると、手招きしたり、鮑などの海産物を差し出したりして、岩場の影に招き寄せようとする。
つい手を伸ばしたり、近寄ったりすると、捕まえられて海面に浮上できなくなり、ついには命を落とすのだという。
現代的に考えれば、潜水中に血中の酸素濃度が低下し、幻覚を見たのだろう。しかしトモカズキに命を奪われた海女は、自身もトモカズキになると信じられており、この難を避けるためのお守りとして、セーマンドーマンが伝わっているのだ。
むろん、意味を拡大解釈して、「女性の命を守護してくれるお守り」と受け止めることもできる。しかし、恋愛成就を願ってセーマンドーマンを手にした人は、アテが外れた気分になるのではなかろうか。
どんな神社にも歴史があり、そこで祈りを捧げてきた人たちがいる。ただ手を合わせる機会があるだけでもありがたいものではあるが、この神を敬ってきた人たちにも思いを馳せ、心を添わせてこその「神社の霊験」だろう。神社の歴史や意味を考えたうえでお参りすれば、霊験はさらにあらたかになるに違いない。
上江洲規子(かみえしゅう・のりこ)
歴史、特に古代史や神話のほか日本文化やリクルートなどの分野で執筆を手掛けるライター。古代史は博物館をめぐって発掘調査の研究成果からアプローチするだけでなく、「日本書紀」や「古事記」はもちろん、「風土記」「古語拾遺」「先代旧事本紀」などの史料も参考にしている。民俗学者・田中久夫氏の「御影史学研究会」にも参加し、日本の民俗も勉強中。
■参考文献
角川学芸出版『徒然草』今泉忠義訳注 平成20年10月20日改定九十四版発行
明石書店『中世の非人と遊女』網野義彦著 1994年6月25日 第一刷発行
明石書店『女人差別と近世賤民』石井良助著 1995年2月15日 第一刷発行