今年3月、人気モデルのベラ・ハディッド(25)が米誌「ヴォーグ」のインタビューで「14歳で鼻を美容整形したけど、すごく後悔している」と告白。未成年者の手術には保護者の許可が必要なため、“モデル界きってのステージママ”こと母親のヨランダ・ハディッド(58)が勧めたからに違いないという臆測が流れた。
ベラは、小さな頃からブロンド&ブルーアイの典型的美女である姉ジジ(27)と比較されつらかったという心境も吐露しているが、これもヨランダがあからさまにジジをかわいがっていたからだと囁かれている。ベラは2人と良好な関係を保っているが、「ずっとヨランダに苦しめられている」「ヨランダに認めてほしい、愛してほしいと思っているに違いない」と同情する声が多く上がった。
大成功を収めているセレブの中には、親との関係で心に深い傷を負った者が少なくない。ブリトニー・スピアーズ(40)のようにスーパースターになってからも、親に苦しめられ続けた者もいる。今回はそんな「“毒親”との関係に苦しめられたセレブたち」をご紹介しよう。
ジャスティン・ビーバー(28)
カナダのオンタリオ州で生まれ育ち、13歳の時にYouTubeで公開していた音楽活動を見た業界人から連絡をもらい、とんとん拍子に世界的トップスターに上り詰めたジャスティン。
母親のパティは17歳でジャスティンを妊娠。父親ジェレミーも18歳と若く、2人は子どもが誕生しても結婚せず、間もなく破局。ジャスティンは敬虔なクリスチャンであるパティに引き取られた。一方、父親とも交流を持ち、ギターを教えてもらったり、エアロスミスやメタリカ、ジミーヘンドリックスなどの音楽を聴かせてもらうなど、音楽面で強い影響を受けたといわれている。また、ジャスティンは、「自分が容姿に恵まれたのは父の遺伝子のおかげ」と感謝するなど、父親をリスペクトしてきた。
デビュー後、世界中に熱狂的なファンを持つようになったジャスティンだが、19歳になった2013年から問題行動を起こし始める。パティに会わせる顔がないと距離を置くようになり、その隙間を埋めるように父親と親密に。どこに行くにも一緒という状態になったが、ジャスティンのマネジャー、スクーターと父親の関係は良好とはいえなかったようだ。
米ニュースサイト「RadarOnline」によると、「スクーターと父親はウマが合わない」「スクーターは理性的な話をする。思春期のジャスティンにとって耳が痛いこともズバズバ言う。父親はスクーターとは正反対。だからジャスティンは父親と多くの時間を過ごすようになった」そうで、関係者からは「父親がジャスティンに悪影響を与えている」と心配する声が上がるようになった。
実際、ジャスティンは14年に薬物所持や飲酒・危険・無免許運転に公務執行妨害、危険運転に暴行罪と何度も逮捕されたが、父親も22歳の時に暴行罪で逮捕されるなど、過去何度も法的トラブルを起こしていたことが明らかになり、「この親にしてこの子か」「父親がそそのかしたのではないか」と批判が強まった。
父親の元親友だという男性は英紙「デイリー・メール」に、「やつは利用価値があるかどうかで人付き合いをする」と告白。「人を操るのがうまく、説得するのも得意だから、ジャスティンもいいように利用されているだけじゃないかと心配」だと明かし、無職の父親がジャスティンから月に5万ドル(約680万円)の仕送りをしてもらっていると暴露した。
さらに米ニュースサイト「TMZ」も、ジャスティンが父の家賃を払い、問題を起こすたびに金を送っていたと報道。ジャスティンのプライベート・ジェットの機内で一緒にマリファナを吸いまくり、操縦士から注意されたとも伝えられ、「このままじゃ、ジャスティンがダメになる」と懸念する声が強まった。
しかし、そんな父親をジャスティンはかばい続け、15年に米誌「ビルボード」のインタビューでは、「父は大人になりきれてなかったんだ。僕が4歳くらいの時に1年くらいいなくなって。父の日にふらりと戻ってきた父に、母が『いるなら、ずっといてちょうだい』と怒ってたのを覚えてる」「誤解されてるみたいだけど、父はそれから毎週末と水曜日は僕と一緒に過ごしてくれた」と説明。しかし、こうした発言も「父親に洗脳されているからだ」とも言われた。
ジャスティンはその後、更生。ヘイリー・ボールドウィンと結婚し落ち着いた私生活を送るようになり、父親と過ごす時間もほとんどなくなったとみられているが、今でも父親との交流を続けており、父のパートナーとも仲良くし、異母弟妹のこともとてもかわいがっているという。
国民的コメディ『モダン・ファミリー』の天才子役として人気を博したアリエル・ウィンター。「役者としての仕事は大好き」と語っているが、仕事の始まりは母親クリスーラ・ワークマンによる強制だった。5歳から子役として活動を開始。数多くのテレビコマーシャルに出演した彼女は、11歳で“”幸せな家庭の3きょうだいの次女”役で『モダン・ファミリー』にキャスティングされるが、実生活は不幸でしかなかったと激白している。
クリスーラはアリエルの幼少期から、「ほかの女の子はライバルなんだから、友達になる必要はない」と言い聞かせて育てた。アリエルは米誌「GLAMOUR」のインタビューで、「子どもの頃、同い年の女の子たちのお泊まり会に参加することを許してもらえなかった」と回想し、子どもらしい時代をまったく過ごせなかったことを今でも深く恨んでいると語っている。
また、クリスーラから「仕事を得られやすようにと過度に性をアピールする服を着せられていたことも明かしている。アリエルは17年に米誌「The Hollywood Reporter」のインタビューで、「母は私にとんでもなく短いミニスカートやミニドレス、セーラー服、ローカットの服を着させた。私は12歳なのに、みんなに24歳だと思われていたわ。仕事でヌードシーンの話がきたら、母は1000%『イエス』って受けたでしょうね」と、仕事のためなら娘の性を売るような母親だったと吐露。
『モダン・ファミリー』の撮影所で子役たちに学業指導していた女性教師も、「アリエルの母親が夜遅くまで娘を連れてパーティーに繰り出していた」「翌朝、6時半〜7時には撮影所入りしなければならない、12〜13歳の子どもなのに」と証言している。
体形維持にもうるさく、必要のない厳しいダイエットを課す母親との生活に耐えられなくなったアリエルは、14歳で家を飛び出し、すでに成人していた姉で女優のシャネル・ワークマンと共に暮らすように。
さらに、クリスーラに対して、長年にわたり身体的・精神的虐待を受けていたと訴訟を起こし、シャネルも成人するまでクリスーラから同様の虐待を受けていたと証言。
娘たちの動きを受けて、クリスーラはシャネルを目の敵に。彼女の評判をおとしめようと、ヌード写真の流出を企み、出版社に持ちかけたとも伝えられている。
そしてアリエルが17歳の時、裁判所は一時的に保護者となった姉からアリエルが独立することを認めた。疎遠になっていた父親とも交流を持ち、今では姉と父2人が何かと彼女をサポートしているというが、クリスーラとは今でも絶縁したままだ。
17年にマスコミのインタビューを受けたクリスーラは、「私と和解すべき。女の子は母親が必要なんだから」と主張。年頃のアリエルがセクシーな服を好むようになったことについて、「助けを求めているのよ。注目されたくて仕方ないのね」「自分をもっと大事にして、品を身につけてほしいわ」とコメント。別のインタビューでも、きちんとした服装をしてほしいと語っているが、アリエルは「なぜメディアを通して私に語りかけるのかしら? 私は問題なくやってるのに。毒でしかない」とツイートで反発している。
【インスタグラム】
https://www.instagram.com/p/B8xCGeVASp7/
(子どもの頃の写真)
イタリア貴族の血を引く実業家の父親と、女優だった母親テリー・シールズとの間に誕生したブルック・シールズ。父方の祖父はアマチュアテニス選手で俳優としても活動した著名人フランク・シールズだったが、テリーは妊娠が発覚した時、フランクから中絶するようにと金を渡されたと暴露している。
テリーは、金は受け取ったものの、中絶せずにブルックを出産。美しい娘をエンターテインメントの世界で働かせることにした。生後11カ月で“”肌にやさしい”がキャッチフレーズのアイボリー石けんのCMに出演し、子どもモデルとして成功を収めると、テリーは子役スターにしようと決心。まだ12歳だったブルックを“富裕層向けの幼女娼婦たち”を描いた『プリティ・ベビー』(1978)に主演させた。
テリーは同作で娘を主演させた理由を、「無邪気さとセクシーな顔を持つ(娘の)魅力的な美しさを最大限に引き出せると思ったから」と説明したが、世間からは「金のために娘の性を売った」「最低なステージママ」と大バッシングされた。
同作でヌードを披露したブルックだったが、これが初のヌード仕事ではなかった。幼女のヌードばかりを集めた「プレイボーイ」の幼女版アダルト誌「Sugar and Spice」で、10歳にして挑発的なオールヌード撮影をしていたのだ。マネジャーであるテリーが引き受けたこのヌード撮影で、ブルックに支払われたギャラはわずか450ドル(約6万円)だった。この写真の存在が世間に広く知られるようになると、「10歳の娘を脱がせるなんて!」とテリーへの批判が強まった。
撮影をした写真家のギャリー・グロスも、ブルックが女優として成功を収めてからも事あるごとにこのヌード写真を使い続けて裁判沙汰にもなり、無名時代のヌード撮影は大きなリスクだと世に知らしめることに。
その後、ブルックは『青い珊瑚礁』(80)『エンドレス・ラブ』(81)など若い性を描いた映画に立て続けに主演し、次第に演技力が認められるように。ドラッグや酒に溺れることなく、学業も怠らず、名門プリンストン大学に進学した。
20代になると、ブルックは自分でキャリアをコントロールするようになり、テリーと衝突。94年に米紙「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューで、子どもの頃からテリーがアルコール依存症だったこと、「私はケアラーで、事態を改善しなくちゃと頑張ってきた。そう言われ続けてきたから、ずっとそうしてきた」と母を支えるために仕事を頑張ってきたと激白した。
娘を思い通りにできなくなったテリーは、「ブルックは何を言っているのかわかっていない」と批判したが、その後の彼女のキャリアは好調。テリーは晩年、認知症を発症し、12年に79歳で亡くなった。
母の死の2年後、ブルックは自叙伝『There Was a Little Girl: The Real Story of My Mother and Me (Dutton), in order to tell』を出版。『プリティ・ベビー』は、母が芸術的に良しとし出演を決めたもので、「私はナイーブで無邪気な子どもだった。ロリータそのものだった。自分のセクシュアリティを理解するほど早熟な子どもでもなかった」と説明。決して幼い性を売りにしていたわけではなかったと、母をかばった。
【インスタグラム】
https://www.instagram.com/p/CRHTrnMDtYu/
(13歳の時)
祖父はバリモア3兄弟として売れっ子だった人気役者、父親もカリスマ的俳優ジョン・ドリュー・バリモアと、父方は成功を収めた芸能一族。母親のジャイド(76)は売れない女優で、両親はドリューが生まれる前に破局。シングルマザーになったジャイドは、赤ん坊のドリューにカメラを向けても物おじしない才能を見いだし、生後間もなく芸能事務所に所属させた。生後11カ月でテレビCMデビュー、4歳で映画デビューを果たした。
6歳でオーディションを受けたスティーブン・スピルバーグの映画『E.T.,』(82)に起用されたことをきっかけに、ジャイドは仕事を辞めて娘のマネジャーに専念。『E.T.,』は世界的に大ヒットし、愛らしくちょっと生意気な魅力あふれるチャーミングな子役・ドリューに、世界が夢中になった。 父親はアルコール依存症で、ドリューに電話をかけ「金をよこせ」と怒鳴り散らしていたというが、ドリューはそんな父親に嫌気が差し、7歳でキッパリと絶縁宣言。その後、長年にわたり一切の関わりを絶った。
天才子役としてもてはやされるようになったドリューだが、10歳になると幼女特有の愛らしさが抜け、かといってまだティーン役にも早いため、映画出演のオファーが激減。有名人だからと学校でいじめに遭っていた彼女は、母に連れられて毎晩のにようにパーティーやクラブに繰り出した。
10歳の子どもが、酒を飲み馬鹿騒ぎする大人と遊ぶことが健康なはずはなかったが、ジャイドは「娘は特別だから子ども扱いしない」と夜遊びに連れていくことをやめなかった。世間に「子どもを夜遊びさせるなんて!」と批判されても、ジャイドは「娘をいじめる子どもたちがいる学校に行かせるより、彼女を受けて入れてくれる大人たちと一緒に遊ぶことのほうがいい」「パーティーはビジネスでもあるから」と夜遊びを継続。
その結果、ドリューは喫煙、飲酒を始め、さらには10歳でマリファナ、12歳でコカインに手を出し、ティーンを目前にして荒れた私生活を送るようになってしまった。ジャイドも喫煙を始めた時に気がついたものの、「息抜きが必要だろう」と放置したという。
しかし、事の重大さに気づいたジャイドは、自分ではどうにもならないと、ドリューを軍隊並みに厳しいリハビリ施設に入所させた。断薬に成功したが、タブロイド紙に「ヤク中」だとすっぱ抜かれ、精神的に追い詰められたドリューは14歳で自殺未遂。同年に自叙伝をリリースし、自分の身に何が起きたのか説明したが、すでに定着してしまった「とんでもない不良少女」のイメージが消えることはなかった。
14歳にして、法的に親から自立する権利を求めて裁判を起こし、15歳で母親と対立することなくその権利を獲得。プロデューサー業も始めるようになった20代半ばから落ち着き、大ヒット映画シリーズ『チャーリーズ・エンジェル』でトップ女優にカムバックした。
3度の結婚生活はうまくいかなかったが、娘2人に恵まれ、2020年からは冠トーク番組をスタート。大物スターを次々とゲストに招き、大きな話題を集めている。現在、母ジャイドとは和解しているが、「普通の母娘の関係にはなれない」とは感じ続けていると明かしている。
【インスタグラム】
https://www.instagram.com/p/Ce3kCvzrT_J/
(子役時代のドリュー)
父親は人気俳優ジョン・アニストン(89)、母親は元モデルで女優ナンシー・ダウ。両親は9歳の時に離婚し、ジェニファーは母親に引き取られ、ニューヨークで青春時代を過ごした。
両親の勧めで演劇に興味を持つようになった彼女は、音楽・舞台芸術の名門校ラガーディア高校に進学。数多くの舞台に立ち、演技力を磨いた。映画やテレビドラマにも脇役で出演するようになり、国民的コメディ『フレンズ』(94〜04)のレイチェル役で大ブレーク。全米の若い女性が彼女のメイクやヘアスタイル、ファッションをお手本にするなど、爆発的な人気を博した。
映画界にも進出し、イケメン全盛期だったブラッド・ピットと結婚。A級セレブとしてタブロイド紙に追いかけ回される日々を送るようになったが、常に冷静で、酒やクスリに溺れることも精神的に病むこともなかった。
その理由を、ジェニファーは「好き好んで悲劇のヒロインになっていた人を見ながら育ったからね。本当に嫌で。その人を反面教師にして、自分は絶対に悲劇のヒロインにはならないって決めたの。だってそれは有害なことだし、心も魂もむしばまれるだけだから」とインタビューで告白。「悲劇のヒロインになっていた人」とはナンシーのことで、自分は被害者意識の高い人間にはなりたくなかったと明かした。
ナンシーは体裁を気にする人でもあり、ジェニファーは幼い頃から、「ハニー、もっとちゃんとしなさい」「ハニー、笑顔でいなさい」などと言われ続け、心底うんざりしていたとか。また、外見にも口を出されたといい、「私には母が持っていたような美しさはなく、そんな私に対して母はいつも批判的だった」とも語った。
大人に成長したジェニファーは母親から距離を置くようになったが、4年前の米誌「ELLE」のインタビューでは、「母は私をいじめていたのではなく、愛していたからこその言葉だったんだと思う」「彼女自身がそういう環境の中で育ったし」「80年代のシングルマザーは本当に大変だったと思うしね」と理解を示している。
ナンシーは11年と12年に脳卒中を起こし、16年に79歳で他界。ジェニファーはブラッドと離婚した05年に母親と連絡を取ったそうだが、親しく交流するまでには至らなかったと伝えられている。
ジェニファーがブラッドと離婚した理由に、彼女が子作りに消極的だったことが挙げられているが、母親のせいで自分は子どもを産みたくないと思うようになったのではともささやかれている。
【インスタグラム】
https://www.instagram.com/p/CVS02ubLoio/
(『フレンズ』時代のジェニファー)