“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
長く付き合ってきた友人の介護
水崎静香さん(仮名・58)には、子どもが幼いころから親しく付き合ってきた友人たちがいる。地元の公民館が主催していたママサークルで知り合った仲間だ。子どもの年齢やきょうだい構成、自分や親の年齢、夫の職業など共通する部分が多く、悩みや愚痴を言い合いながら、60歳近くなる今まで続いてきた関係だ。
「物理的にも心理的にも、つかず離れずといった感じでいられたのも、長く続いた理由だと思います。子どもが大きくなると皆仕事を始めて忙しくなったこともあって、しょっちゅう会うわけではありませんが、数か月に1回程度集まってはいろんな話をしていました」
50代になると、子どもの就職や結婚に加えて、親の介護の話も多くなった。そんななか、仲間の一人、茂木智子さん(仮名・61)は仲間の間でも一番早く両親を見送った。父親が亡くなったあと母親も倒れて、最期は特別養護老人ホームで亡くなった。
「茂木さんの両親は、茂木さんの家から電車で1時間半ほどのところに住んでいて、両親の隣に住む姉一人に介護を負担させないため、分担していたようでした。仕事が休みの日や週末などにはたびたびお母さんのもとに通って外出させたり、美容院に連れて行ったりと、私たちから見てもよくやっているなと思っていました」
水崎さんもほかの友人たちも、親の住む場所は違っても似たような状況だったので、茂木さんの話で学ぶことも多かった。親のもとに通う交通費もバカにならないという話に深くうなずいたりしていたのだ。
年金に加えて月々20万円前後の収入がある友人
茂木さんは母親が亡くなって、一足先に介護を卒業した。子どもたちも独立して、「これからは自分が楽しむ番」とばかりに、“推し”を見つけ、“推し”応援のために日本全国を回るようになった。生き生きと楽しそうにしている茂木さんの姿は、水崎さんたちも半分うらやみながら、ほほえましく見守っていたという。
「北海道や沖縄のお土産をもらうこともありました。私たちも茂木さんのように熱中できる老後の楽しみを見つけたいね、と話していたんです」
そして、水崎さんの母親も数カ月ほど前に亡くなった。東北地方にある実家や土地の相続が複雑で、なかなか簡単に片付きそうにない……と、友人たちで集まったときに愚痴った水崎さんに、別の友人が茂木さんの相続はどうだったか聞いたところ、皆が知らなかった事実が判明した。もっとも、茂木さんは決して隠していたわけではなかったのだが。
「茂木さんの実家は首都圏でもかなり高級住宅地にあるのは知っていました。お姉さんが実家の敷地内に家を建ててご両親の面倒を見ていたので、実家の土地はそのままお姉さんが相続したんだろうと、当然のように思っていました。それはそのとおりだったんですが、ご両親は近くに土地も所有していて、その土地を茂木さんが相続していたんです。うちの実家は田舎なので、田んぼや畑は売ろうとしても売れないし、持っていても耕作できるわけでもない。なのに、茂木さんが相続した土地は、『猫の額ほどよ』と謙遜していましたが、実際はそこを駐車場にして、毎月結構な額が入ってくるというんです」
友人たちは口々に茂木さんをうらやんだ。
「これまで皆が似たような環境にあると思っていたのに、茂木さんの話を聞いて、老後の経済状況がまったく違ってくることに驚きました。これまでは、皆一様に『年金なんて雀の涙よ』と嘆いていたのに、茂木さんには年金に加えて、ずっと月々20万円前後の収入があるんだなと。だから“推し”を追いかけて全国を回っても大丈夫なんだと納得したんです」
それからは、茂木さんがどこかに行った話を聞いても、「駐車場代が入るからいいよな。私とは違う」と思ってしまうと水崎さんは苦笑する。
「これまで共感できた会話も、すべて『でも茂木さんには駐車場があるからね』と心の中で付け加えてしまう。邪悪な気持ちではないのですが、我ながら小さいなと思います。それにしても親の遺産の有無や、実家が首都圏にあるかなどの条件がこれほど大きな格差になるとは、ですよ」
友人たちと付き合い出した若いころには、将来老後格差が生まれるとは思ってもみなかった。これまで、互いに「先立つものはお金よね」と共感しあってきた友人たちだが、もう老後のお金の話はできないと思う水崎さんなのだ。
――後編につづく